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「叶った夢」サガンJ1昇格<上>サポーターが支えた17年

鳥栖市内でPJMフューチャーズのPR活動をする誘致委員会のメンバーら(1994年2月、鳥栖市提供)

 「ようやく念願が(かな)った。本当に長かったなぁ……」。サガン鳥栖が最終戦でJ1昇格を決めた3日のベストアメニティスタジアム。チームの誘致活動から携わってきた鳥栖市本通町、建設業川口信弘さん(45)は、スタンドの3階席から、選手とサポーターが一緒になって喜びを分かち合う光景をしばらく見つめていた。

 1991年、サガンの前身であるPJMフューチャーズ(のちに鳥栖フューチャーズに変更)の誘致話が持ち上がった。地元の青年会議所(JC)に所属していた川口さんは、佐賀市で行われたフューチャーズの試合を初めて観戦。音楽のライブのようなスタジアムの雰囲気を目の当たりにして、「サッカーはまちづくりに生かせる」と実感した。自治体やJCなどでつくる「プロサッカーホームタウン誘致委員会」のメンバーとなり、活動を開始。元々、埼玉県や静岡県などとは違って「サッカー文化」のない鳥栖エリアで、「夢のJリーグを呼ぼう」と横断幕などを掲げて街頭に立ち、署名集めや市民らへのPRに力を注いだ。

 誘致活動は実り、94年にフューチャーズは浜松市から鳥栖市に移転。チームはJ2への参戦も実現したが、順風満帆とはいかなかった。運営会社が97年に解散。給料が支払われず、路頭に迷う選手が出る事態となった。「誘致しておいて、はしごを外すようなことをしてはいけない」と再び発起。サポーター仲間に対し、選手支援の募金を呼びかけ、自身もカンパするなど、市民球団として再出発するために奔走した。

 今季、ホームゲームには1試合平均約7700人が来場。J1昇格が現実味を帯び始めた9月下旬からは、1万人を超える試合が増えた。これまであまり観戦してなかった市民らもスタジアムに足を運ぶようになった。「サガンが地元にあることで、みんなが誇らしげで生き生きしている。誘致は間違ってなかった」と改めてそう感じる。

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 佐賀市兵庫町の小学校教諭稲富修さん(50)は3日、フューチャーズの誘致に尽力した坂田道孝さん(元佐賀大教授、2000年死去)の在りし日の写真を胸ポケットに入れ、サガンの最終戦の行方を見守った。

 稲富さんは、クラブ側の依頼を受け、フューチャーズ時代からほぼ全試合、ホームゲームの公式記録を取り続ける。シュート数や選手交代時間などの記録は、Jリーグ事務局に送られ、保存される。

 坂田さんは生前、県サッカー協会理事長などを務め、稲富さんの大学時代の恩師だった。その縁で記録員の仕事を引き受けている。

 シーズンで3勝しかできなかった2003年は、「今日も負けるんだろうな……」と、試合前からため息ばかりついていた。それでも、懸命にボールを追う選手や、様々な仕事を掛け持って働くスタッフを見放すことはできなかった。そして何よりも「坂田先生が誘致したチームをつぶすわけにはいかない」との思いがあった。

 裏方で支え続けたチームの初のJ1昇格。「つらい時期もあったが、あきらめずに協力してきて良かった」とすがすがしい表情で語る。

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 発足から15年目で、J1昇格の夢を叶えたサガン鳥栖。チームの変遷をたどり、寄せられる期待や課題などを探った。

2011年12月5日  読売新聞)
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