いわさき‐やのすけ〔いはさき‐〕【岩崎弥之助】
岩崎 彌之助 (いわさき やのすけ)
氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 岩崎 彌之助 (いわさき やのすけ) 明治29.11.11 明治31.10.20 高知県 |
4代目の日本銀行総裁である岩崎彌之助は、嘉永4年、土佐に生まれ、大阪で漢学を学んだ後、明治5年米国に留学し、帰国後は兄・彌太郎とともに三菱財閥の基礎を築きました。明治18年、2代目当主となると、不振に陥っていた三菱財閥の再建に尽力したほか、明治23年には貴族院議員に勅選されました。 日本銀行第4代総裁に就任直後の明治30年、わが国では金本位制度が採用されました。そうした状況下、日本銀行からの借入に依存して利鞘を稼いでいたわが国銀行の経営を正常化すべく諸策を講じたほか、為替専門銀行であった横浜正金銀行との協調関係確立に努力しました。また、はじめての試みとして市中金融機関から国債を買上げるオペレーションを限定的に導入し、金融政策手段の多様化を図ったことでも知られています。 明治31年、「病気激務に耐えざる」との理由で総裁職を辞任しましたが、公定歩合の引下げを巡る政府との見解の相違が辞任の引き金となったとの説もあります。明治41年、病気のため58歳で亡くなっています。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1998年冬季号)』) |
岩崎弥之助
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岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。
注釈
出典
- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ "Ellington" p21Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005
- ^ 『岩崎彌之助傳 (上下)』、上巻p.10 、岩崎家傳記刊行会編纂会刊、1971年/復刊東京大学出版会。1986年。但し次男は夭折しており、三男の弥之助が戸籍上は次男となっている。
- ^ "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013
- ^ 三菱人物伝「三菱の人ゆかりの人」vol.06 ウォルシュ兄弟三菱グループ公式サイト
- ^ "Ellington" p90 Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005
- ^ 『岩崎俊彌傳』 故岩崎俊弥氏伝記編纂会、1932年、第二篇 小傳、家系 P177。
- ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
- ^ 『官報』第2479号、明治24年10月2日。
- ^ a b 『官報』第703号「叙任」1885年11月2日。
- ^ 『官報』第1278号「叙任及辞令」1887年9月30日。
- ^ 『官報』第1278号「彙報 - 褒章」1887年9月30日。
- ^ 『官報』第4594号「叙任及辞令」1898年10月21日。
- ^ “もとをたどれば:旭硝子 日本近代化へガラス国産挑戦”. 毎日新聞. (2018年4月8日) 2020年3月8日閲覧。
- ^ 『もう一人の「三菱」創業者、岩崎弥之助 企業の真価は二代目で決まる!』、P16 、河合敦、2012年/ソフトバンク新書。
- 1 岩崎弥之助とは
- 2 岩崎弥之助の概要
- 3 家族・子孫
- 4 関連項目
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