フォード・モデルT
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フォード・モデルT(Ford Model T)は、アメリカ合衆国のフォード・モーター社が開発・製造した自動車である。
注釈
- ^ 一部に3速と記載している文献が見られるが、フォード社自身がローギアよりも低速ギア比のリバースギアを「非常用ローギア」として算入し、広告などで3速を称していたケースがあるためで、すべてのモデルT/TTは前進2速、後進1速の変速機を備える。
- ^ 「ブリキのエリザベスちゃん」の意。
- ^ 乗用車仕様のモデルTとトラックシャシーのモデルTTの合計。
- ^ 和田(2009)p21-23の考証によれば、1906年のピケット工場におけるN型の製造工程写真と、1911年頃のハイランドパーク工場におけるT型の製造工程写真には、いずれも窓際の作業机に万力が並んでいた。従って、マイクロゲージによる管理を行ってもなお現場では部品加工用の万力を常備し、加工精度の不十分な部品の手直しを強いられていたと推察されるという。一方1913年のハイランドパーク工場内の写真からは、まだ流れ作業化前だが万力がなくなっており、和田はおそらくこの時期に至って部品の手仕上げ調整がほとんどなくなったのではないかと論じている。
- ^ この組立時間短縮の数値は多くの文献に流布されているが、厳密なものであるかは疑義がある。和田(2009)p5-26における考証では、1914年時点でのフォード工場実地研究をもとに1919年に刊行されたH.L.Arnold、F.L.Faurote編著「Ford Methods and Ford Shops」を典拠とする可能性が高いが、多くの文献で混乱が見られるという。
- ^ 改善を提案したクーゼンスもヘンリーの予想外な命令には驚愕したという。
- ^ ヘンリー・フォード自身が自伝「我が人生と事業」で「当時建設中だったハイランドパーク工場の土地・建物費用捻出のため、一時値上げをした」ことを記している(和田:2009 p36)。
- ^ 1922年の買収時点でその唯一の製品「モデルL」は、品質と走行性能はキャデラックを凌駕するほどに卓越していたが、架装されるボディデザインが武骨で商品性を欠き、高級車の購入層に食い込むことができなかった。
- ^ GMには化学メーカーのデュポンの資本が入っており、新しいラッカー系塗料を用いることができた。
- ^ GMの最高級車であるキャディラック。
- ^ GMは1919年にオートローンを取り扱う金融子会社のゼネラルモーターズ・アクセプタンス・コーポレーション(GMAC、2006年にGM系列を離れて現Ally)を設立し、見込み顧客である大衆層の自動車購入を支援する販促策を整えた。
- ^ 太い低圧タイヤ。それ以前の主流であった細身の高圧タイヤに比して乗り心地が改善される。
- ^ 広大な北米大陸には、開拓時代が終焉した20世紀前半に至ってもそのような未開地が多く存在した。
- ^ 当時の自動車では、ガソリンの品質ばらつきやエンジンコンディションの不安定から、手動のタイミング調整機能は必須装備であった。
- ^ この仕様は高級車のモデルKでさえ例外ではなかった。
- ^ 風防:フロントウィンドウのこと。
出典
T型フォード
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T型フォードは1908年10月1日に発表された。ハンドル(ステアリング)が左にあり、間もなく他社もそれに倣った。エンジンとトランスミッションは全体がボンネットで覆われている。エンジンは4気筒が一塊で鋳造されている。サスペンションには2つの半楕円形バネを使っている。運転は非常に単純で、修理も容易かつ安価に済む。1908年の発売当時、富裕層相手の手作りの自動車が3,000ドルから4,000ドル、同クラスの他メーカーの自動車でも1000ドル近い価格であったのに対し、T型フォードは825ドルの低価格であった。その後も年々価格が下がっていき、1920年代にはアメリカ人ドライバーなら誰でもT型フォードの運転方法を学んだことがあるという状況になっていた。 フォードは新製品についての記事や広告をデトロイトのあらゆる新聞に掲載させる大々的広告展開を行った。また販売店網を確立し、北米のほとんどの都市に販売店を設けた。各販売店は独立採算のフランチャイズ方式であり、フォードの宣伝だけでなく、モータリゼーションの象徴ともなった。新米ドライバーを助けるモータークラブが各地にできた。フォードは業務用に自動車を使おうと考える農夫にも積極的に売り込んだ。売り上げは急増し、数年間は毎年100%以上の伸びを示した。常にさらなる効率化とコスト削減に努め、1913年にはベルトコンベアによるライン生産方式を導入し、生産能力が大幅に強化された。一般にフォードがその方式のアイデアを考案したとされているが、当時の資料によればその方式を考案し発展させたのは Clarence Avery、Peter E. Martin、チャールズ・E・ソレンセン(英語版)、C・ハロルド・ウィルズ(英語版)という従業員だった。ライン生産方式を採用することで、販売価格を低く抑えながらも販売数量を拡大することができ、企業利益を確保するという考え方を実現できた。この大量生産方式は他の工業生産にも応用され、20世紀の工業社会を可能にした。 1914年には販売台数が25万台を越えた。1916年には最も安価なモデルが360ドルという価格になり、販売台数は47万2千台に達した。 1918年までに、アメリカで保有される自動車の半分はT型フォードとなっていた。車体の色は黒ばかりだったが、フォードは自伝に「黒にしておけば、お客様が好きな色に塗り替えることができる」と記している。ライン生産方式を採用する以前、黒の塗料が最も乾きが早いので黒にしたという事情もある。実際、赤など他の色のT型フォードも販売されていた。T型フォードは1927年まで生産され続けた。最終的な総販売台数は15,007,034台で、1908年の登場から19年間で樹立した記録である。この記録は45年間破られなかった。 1918年、ウッドロウ・ウィルソン大統領はアメリカ合衆国上院選挙にてミシガン州で民主党から立候補するようフォードに依頼した。第一次世界大戦中だったが、フォードは平和主義を唱え、提案されていた国際連盟を強く支持した。結果、元アメリカ合衆国海軍長官で共和党から立候補したトルーマン・ニューベリに敗れた。 1918年12月、ヘンリー・フォードはフォード・モーターの社長職を息子エドセル・フォードに譲った。しかし最終決定権は保持し続け、しばしば息子の決定を覆した。そして Henry Ford and Son という新会社を設立し、フォード・モーターの重要な従業員を引き抜いた。これはフォード・モーターの他の株主を恐れさせ、株価が下がる前に株を売らせ、自身がその株を買い取ってフォード・モーターを完全に制御できるようにする企みだった。この策略はうまくいき、ヘンリーとエドセルが株式を占有して、フォード一族が会社の所有権を確保することになった。 1920年代半ばには、ライバルとなったシボレーやクライスラーが新しいデザインや多彩なカラーを導入したため、同じデザインで黒一色しかなかったT型フォードの売り上げは落ち込み始めた。息子の助言にも関わらず、フォードはT型フォードのデザインを変更することには強く反対した。この時代には、T型フォードはいわば時代遅れとなっており、新しいデザインの車が求められたのである。また、他社がクレジットによる自動車購入プランを提供したのに対し、フォード社はクレジット販売をしなかった。エドセルは、クレジットの導入を勧めたが、ヘンリーはこれにも反対した。これは、そのような仕組みは経済に悪影響を与えるとの考えからであった。
※この「T型フォード」の解説は、「ヘンリー・フォード」の解説の一部です。
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「T型フォード」の例文・使い方・用例・文例
- T型フォードが100周年を祝う
- T型フォードの1台目は1908年に米国ミシガン州デトロイトで作られた。
- そのイベントの一(いっ)環(かん)として,T型フォードのパレードがこの車の歴史にゆかりのある場所に立ち寄った。
- T型フォードを製造するためにフォードは組立ライン生産を導入し,それが当時は画期的な進展だった。
- しかし,T型フォードのおかげで,車は庶民にも手が届く価格になった。
- 19年の生産期間中に,T型フォードは1500万台以上製造された。
- T型フォードは現在の自動車産業の基礎となり,1999年には「カー・オブ・ザ・センチュリー(世紀の車)」に選ばれた。
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