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ポーランド [Poland]
〔「波蘭」とも書く〕
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ポーランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/07 10:53 UTC 版)
(Poland から転送)
- ポーランド共和国
- Rzeczpospolita Polska
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(国旗) (国章) - 国の標語: なし1
- 国歌: ドンブロフスキのマズルカ

-
公用語 ポーランド語 首都 ワルシャワ 最大の都市 ワルシャワ 独立 ロシア帝国から
1918年11月11日通貨 ズウォティ(PLN) 時間帯 UTC +1(DST: +2) ISO 3166-1 PL / POL ccTLD .pl 国際電話番号 48 - 注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。北にはバルト海が広がり、北東ではロシアの飛地であるカリーニングラード州とリトアニア、東ではベラルーシとウクライナ、南ではチェコとスロバキア、西ではドイツと接する。首都はワルシャワ。
10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけては大王国を形成した。その後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割されて消滅した。第一次世界大戦後の1918年に独立したが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の侵略を受けて再び国土が分割された。戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活、1989年に民主化を果たして共和国となる。
冷戦時代はソ連の影響下に置かれ、共産主義政権が支配したため、政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから東欧とは異なる中欧または中欧のうち過去に東欧であった地域の中東欧として再び分類されるようになっている。
目次 |
国名
詳細は「ポーランドの名称」および「:en:Name of Poland」を参照
正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska(ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称 Polska。略称 RP。
公式の英語表記は Republic of Poland。通称 Poland。
日本語の表記はポーランド共和国。通称ポーランド(波蘭)、略語は波。
ポーランドの国名の「ポルスカ(Polska)」は野原を意味する「ポーレ (pole)」 が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ/レック族(Lechici)」といい、また同時に「ポラン族(Polanie)」とも称した(「レフ/レック」Lechは古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、LechはPoleと同じく「野原」を原義とするともいわれる)。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。
すなわちポルスカ(Polska)はこの「ポラン族(Polanie)の国」というのが元来の意味となる。
「共和国」に相当する "Rzeczpospolita"(ジェチュポスポリタ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の "res publica"(レス・プブリカ)の翻訳借用である。"res"(レス)には「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語では"rzecz"(ジェチュ)がこれに当たる。"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味で、ポーランド語では "pospolita"(ポスポリタ)に当たる。
歴史
ポーランド王国成立以前
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(Lechici/Polanie)については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(Lugii)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化(Przeworsk culture)」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった「ザルビンツィ文化(Zarubintsy culture)」と似通っていることが考古学調査で判明している。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。
4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族の隣、ヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化(Prague-Korchak culture)」を持つ他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイ(Lugii)はレフ/レック(Lech)のラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク(Lug)」と「ポーレ(Pole)」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。
6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。
8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」を創始した。
王国の黎明期
966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。
992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ1世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和 (en) によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めて全てを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。
ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。
長い分裂時代
1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。
1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにした上シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。
以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。
1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。
1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。
なおこの事件は元寇(1274年と1281年)に先立って1268年に中国のモンゴル人王朝である元から日本に送られた国書の中で触れられており、これは「ポーランド」の名前が遠くアジアの東端に住む日本人に知られた最初の出来事とされている。
まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマクデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。
ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
1295年、プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによってプシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王ヴァーツラフ3世)が翌年の1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位した。この時点でマウォポルスカ、ヴィエルコポルスカの二州を所有していた彼は、ポーランドの再統一を夢見て、各地のピアスト家や諸外国に対しかつてのポーランド王国の領土を自分の所有すべき土地として主張するようになった。
黄金時代
14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、神聖ドイツ騎士団に対し、かつてポーランド王国の領土であったことを理由に一部の土地の返還することを求めるなど、外交的にもより積極的に出ている。ルーシ・ハリツカのようにポーランド王国ではなかった土地も獲得した。また、後には反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこの頃に土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、カジミェシュ3世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志の元、結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1404年(あるいは20年)からポーランドは王から社会への権利の転換が行われたとされる。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。
1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名パウルス・ウラディミリ)は画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)は全く正当である。」というもので、これはまさに現代思想の基本的人権および国際法の理念の世界で初めての提唱であった。ここにおいて教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定は棚上げにしたものの、ポーランドの立場を全面的に支持し、ドイツ騎士団の訴えを却下した。
1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では東方正教、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かった。ポーランドでは国教はローマ・カトリックであり国王はローマ・カトリック教徒であるべきだとされたものの、個人レベルの信教の自由は法律で保障されていたのである。ポーランド社会の信教の自由は14世紀のカリシュの法令以来、ユダヤ教徒にも完全に適用されていた。このように、この当時のポーランド社会は同時代の世界のほかのどの国にくらべても非常にユニークで、こと人権意識に関しては時代を超越した先進性を持ち、君主と臣民がそれぞれ自分と異なる思想を持つ他者に対する寛容な心(多元主義)を育て、愛国心にもとづいた自己犠牲の精神と多元主義が両立した自由主義を最大の社会的価値とした。この、高い知性にもとづいた成熟した自由主義の実現こそがポーランドの黄金時代を作る最も強力な原動力となったのである。イギリスの歴史学者ノーマン・ディヴィスはポーランドの黄金時代について、この点を強調している(後の時代にポーランドが衰退した原因のうち倫理的な側面についてディヴィスは、国家が領域的にも文化的にもあまりに巨大化したため17世紀以降それまでのポーランド社会とは全く異質の低俗で過激な思想が外部から社会に入り込んで根づいたせいでこの成熟した自由主義の精神が失われていったためで、黄金時代には有益だった自由拒否権も悪用されるようになっていったと考えている)。
1440年、以前からドイツ騎士団の傲慢な政治を嫌がっていたドイツ騎士団領内の諸都市は、ポーランド王の庇護を求めてプロイセン連合を結成した。これによりポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となったが、ポーランドはまたもやドイツ騎士団に圧勝、1466年の第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領をポーランド王の完全な支配下に置いた[3]。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団はポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランド王国に移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成する全ての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、ポーランドの国政に参加すると騎士団領に対するポーランドの政治的権限が強まって、かえって騎士団領における自分たちの利権が縮小すると考えた騎士団は、この命令に反発して反乱を起こした。しかしこれも早々に鎮圧され、騎士団は自分たちの地区から代議員を選出してポーランド国会に送ることになった。その後ヴァルミア司教の叙任を巡って、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するべきところを、これまたドイツ騎士団が反発して独自の候補を擁立して反乱を起こしたが、またもや早々に鎮圧され、とりあえず騎士団側の候補者をヴァルミア司教にする代わりに、次からはきちんとグニェズノ大司教が取り仕切ることで和解した。このときのヴァルミア司教こそが、コペルニクスの叔父で育ての親であるルーカス・ヴァッツェンローデである。のちにプロイセン連合はドイツ騎士団へ対抗する当初の目的がなくなったため、自ら解散してポーランド王国に正式に加盟した。
1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くした後は母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキは月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。
1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア国家は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。この場合の「共和国」は王政でない国家を表すのではなく、数々の国家や民族が集まって構成される「連邦」あるいは「合衆国」という意味である。国家群をまとめた国家であるという形態としては「帝国」的ではある(現代においてもポーランド・リトアニア共和国は事実上の帝国であったという指摘がある[2])が、カトリックの秩序では元首が帝冠を受けないと帝国と名乗らないしきたりがあることに加えて、参政権を持つシュラフタたちの間に財産の多寡や地位の上下はあっても参政権における差別のないポーランドは「帝国」と名乗ることはなくあくまで「共和国」(「連邦」ないし「合衆国」)と名乗ったのである。
ジグムント2世アウグストは国際的にも非常に高い評価を得た聡明な君主であった。ピャスト朝最後の国王カジミェシュ3世「大王」、選挙王政に入ってからの2代目の君主であるステファン・バートリ王、17世紀の第二次ウィーン包囲においてオスマン・トルコの大軍を蹴散らしてヨーロッパを救ったヤン3世ソビエスキ王などと並んで、ジグムント2世アウグストはポーランドで最も尊敬されている君主の一人である。1572年、ヤギェウォ朝の本家筋の唯一の男子であったジグムント2世アウグストが男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。一つの王朝で最も聡明な人物がその最後の君主となり、男子を残すことなく王朝が途絶えてしまう傾向があるのはポーランドという国の大いなる悲劇ともいえる。
ジグムント2世アウグストの死後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
1573年、全てのシュラフタが一人一票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、後のフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性癖がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気がさしたヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。
ポーランドはその後1年はヘンリクの改心を待ったが、ヘンリクに戻ってくる気配がないためポーランドはヘンリクを強制的に廃位し、1575年、ヤギェウォ家の遠縁に当たるトランシルヴァニア公ステファン・バートリに白羽の矢を立て、国王アンナとの結婚および夫妻によるポーランド共同統治を受け入れた彼を国王に選出した。バートリも妻アンナの兄であるジグムント2世とならぶ非常に聡明な君主で、ジグムント2世アウグストの治世からずっと政権を担当する名宰相であった大法官(内閣総理大臣)ヤン・ザモイスキとしっかり連携を組んで国内外のさまざまな問題の解決に積極的に尽力しよく働いた。バートリもまた先に挙げたように現代のポーランドで最も尊敬されている君主の一人で、19世紀に活躍したユゼフ・ベム将軍と並んでポーランドで最も尊敬されているハンガリー系ポーランド人の一人である。
2人の名君ジグムント2世王とステファン・バートリ王の全面的な信頼を受けヘンリク・ヴァレジ王に疎まれたヤン・ザモイスキは1578年に大法官(内閣総理大臣)に就任し、1580年にはクラクフ城代を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン(大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制の国家の首相に相当する強大な行政権を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義(穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタたちからは圧倒的支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制を禁止し、全ての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネッサンス思想にも同調し、イタリアから建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事の全ての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度はその後もザモイスキ家を始めとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。
対外戦争の時代
1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちで最も熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国、バルト海沿岸地域、ルーシ諸国、といったヨーロッパ北方全域のカトリック教化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワに遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国に侵攻しモスクワを占領した(ロシア・ポーランド戦争)。当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、カトリック主義のジグムント3世、自由民主主義のポーランド議会、自由な社会を求めてポーランドを頼った自由主義のモスクワ大公国貴族(その前は偽ドミトリー1世を担いだ)、カトリックに敵対する保守的なロシア正教会主義者たち、のそれぞれでポーランド・ロシア連合への期待が異なっていた。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じた。これをきっかけにロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こしたため、モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕した。モスクワ大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に悪化していった。
1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化を阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現とセイム(国会)の権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後王権は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。
近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割
18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制(ここでも選挙王政ではあるが、以前のように王となる個人を選出するのではなく、王家となる一家を選出する)とともに、世界初の立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、人類史上初の教育省である。
立憲君主制、すなわち民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥ユゼフ・ポニャトフスキと元アメリカ軍将軍でアメリカ独立戦争の英雄タデウシュ・コシチュシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポニャトフスキとコシチュシコという二人の天才将軍の戦術どおりに進んでいた。しかし改革派全滅の恐れから「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は改革派が虐殺される事態を避けようと考え、ロシア側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻と子とともに半ば軟禁されたような生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。
つかの間の再興
詳細は「ワルシャワ公国」を参照
フランスでユゼフ・ポニャトフスキとタデウシュ・コシチュシュコという二人の天才将軍の運命は分かれた。ポーランドの王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかしその後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒで敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。一方、アメリカ独立戦争に参加してアメリカ社会を見ていたコシチュシコはナポレオンの帝国主義の政治的野心にはどうしてもなじめず、フランスを離れてスイスに移住し再起の機会を窺っていたが、ゾロトゥルン市で腸チフスに罹患して亡くなった。ナポレオンが失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(アンジェイ・ワイダが監督した映画『パン・タデウシュ物語』の着想源)はこの時代の話である。また、日本の漫画家池田理代子の漫画『天の涯まで-ポーランド秘史』は憲法制定前からこの時代(主人公はプリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ)までを扱っている。
独立運動の時代
詳細は「ポーランド立憲王国」を参照
十一月蜂起
ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。
ポーランド出身の作曲家ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、かの有名な「革命のエチュード」を書いた。
世界最高級とされる時計ブランド「パテック・フィリップ」の2人の創業者アントーニ・パテック(ワルシャワで育ったポーランド貴族、後にアントワーヌ・ノルベール・ド・パテックに改名)とフランティシェック・チャペック(ボヘミアからワルシャワへやってきた移民の時計職人、後にフランソワ・チャペックに改名)はこのときの戦いにそれぞれポーランド軍将校および兵士として参加している。
エミリア・プラテルはシュラフタ(士族、ポーランド貴族)の家に生まれた愛国少女で、十一月蜂起で最も活躍したポーランド女性将校の一人。幼くして父と母が離婚したが、エミリアはポーランドの歴史を夢中になって学びながら育ち、旧ポーランド・リトアニア共和国の最後の時代の天才将軍タデウシュ・コシチュシュコについての書物を読むようになって以来コシチュシュコとその生き方に強い憧れを持っていた。この十一月蜂起でエミリアはポーランド軍将校として自ら部隊を指揮して活躍した。当初はリトアニアの戦線で戦い、華々しい戦果を挙げた。エミリアは病に冒されていたが、ワルシャワがロシア軍に包囲されつつあるという情報を得ると、上官である将軍の反対を押し切り、すぐに自分の部隊を率いてロシア軍のポーランド包囲網を強襲しこれを突破することに成功、ポーランド・リトアニア共和国首都ワルシャワにおける対ロシア軍決戦のためリトアニアからワルシャワに向かおうとし、その途上で無念にもついに病に倒れ、25歳で亡くなった。しかしこの美しく強い女性将校はポーランドのほかリトアニアとベラルーシ(旧ポーランド・リトアニア共和国の構成地域)の永遠の国民的英雄となり、その後の時代を通じて自由を求めるポーランド人とリトアニア人の心の支えとなった。(ただしリトアニアやベラルーシの農民層の間では士族社会に反発する人々がかなりおり、旧ポーランド・リトアニア共和国を、士族すなわちポーランド人たちによるリトアニアとベラルーシの農民への強制的な支配体制であったと解釈する人々もかなりおり、そういったリトアニア人やベラルーシ人の民族主義者の間ではエミリアはあくまで「支配者ポーランド人にとっての英雄」であって、人気はない。士族すなわちシュラフタの家系は必ずしもポーランド出身とは限らないが、そういった非ポーランド系の家の人々もポーランドの言語や習慣を習得していくうちに徐々にポーランド人になっていった。ここにはリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ドイツ、チェコ、ハンガリーからやってきた家系が特に多く含まれるが、遠くはオランダやスコットランドからポーランドに移住してきた家系まで存在する。この現象を「ポーランド化」という。エミリアが憧れたタデウシュ・コシチュシュコもベラルーシ出身の家系である。エミリアはもともとはヴェストファーレンから移住して来たドイツ人貴族の家系で、19世紀までには家の文化がすっかりポーランド化してシュラフタとなっていた。前述のようにドイツ系のシュラフタの家柄の人々は歴史を通じて最も熱狂的なポーランド愛国者たちを輩出した)。エミリアは、数十年後の時代に物理学の分野で活躍したマリア・スクウォドフスカ=キュリー(キュリー夫人)と並んで、今でもポーランドの女の子たちの憧れのポーランド女性の一人である。
一月蜂起
1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった[3]。
ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国
プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内の全てのカトリック教徒を対象としていたが、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。
1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツ(Żywiec)に住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(Karl Stephan, ポーランド名カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる[4]。
反ポーランド主義
詳細は「反ポーランド主義」を参照
1795年にロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国によって第三次ポーランド分割が行われてから1918年にポーランド共和国が復活するまで、ポーランドの人々は全くの外国人の国家に支配され、政治的に差別されていた。この間、ポーランドの人々は数々の蜂起や社会発展運動(「有機的労働運動」や「ポーランド実証主義運動」と呼ばれる一連の運動)など様々な方法で独立運動を行ってきた。また、多くのポーランド人は抑圧された祖国を離れて外国へ移民し、そこで懸命に働き勉強して社会進出を図った。この2つの要素は支配者たる外国人のポーランド人への政治的敵意(独立運動のため)と民族的嫉妬(ポーランド人たちが自分たちを追い越して社会に適応するため)を掻き立て、非常に陰湿な「反ポーランド主義の運動」を形成するに至った。
ポーランド人にとっての近代や現代は、見方を変えれば、外国人による反ポーランド主義運動と、その屈辱に耐え続けた歴史ともいえる。反ポーランド主義運動の流れは、つぎの4つに大別され、これらは互いに深く絡み合って、複雑な構造を呈している:
- ポーランド人への土地譲渡の禁止、政治的権利の剥奪、財産の収奪、強制移住、さらには支配国家によるポーランド人を狙った組織的な民族絶滅政策や大虐殺政策、などあからさまな「差別的政策」の運動(この運動はドイツ、オーストリア、ロシアで盛んだった)(詳細はポーランドの歴史を参照)
- ポーランド人のうちの極右思想(実際には他国よりはるかに稀で、ほとんどないのであるが、どんな民族にも全くないというわけでもない)を、客観的な統計上のデータではなく、主観的選択によって個々の事件をあげつらい詳述することで印象が強調される効果を狙い、ポーランド人がいかにも「野蛮で未開な人々」であるかのようなイメージを植え付ける陰湿な「理論的印象操作」の運動(こういう反ポーランド主義の「理論化」運動はドイツやフランスでは現代でも盛んに行われ、当地の一流メディアやインテリ層が中心となり、現在でも熱心に行っている。政治的運動としての特徴的な証拠として、先述のように、どの論文も客観な統計データが欠けているか、もしくは用いるデータの手法および解釈において客観性に欠けていることであり、これによって、彼らのあげつらう事例が、彼らの反ポーランド主義の正当化に用いられていることが分かる。たとえば、戦後のいわゆる「回復領」に関してポーランドを非難する際に必ず行われるのが、ポーランドの西側国境線が西方に移動しドイツ人が追放されるに至った経緯の説明の「除外」であり、このことによって一連のできごとに関して、そもそもの原因をつくったナチス・ドイツおよびドイツ人の道義的問題よりもポーランド側のそれが強調される政治的操作が行われている。さらに同件に関してよく引用されるデータが第二次世界大戦前までの民族的な構成であるが、ドイツ語を日常的に話し現地のドイツ文化に適応している現地のポーランド人やチェコ人である「シレジア人」、「ポメラニア人」、「マズーリ人」と呼ばれる人々がどの程度統計上の「ドイツ人」に含まれているのか明確にされていない。さらに、地域の帰属国家をめぐる希望について尋ねた住民投票でも、彼らはドイツへの帰属を望んだから彼らはもともとのドイツ人なのだ、という決めつけが見られ、個人的な生活の事情からどの程度の非ドイツ系の人々がドイツへの帰属を望んだのかが明らかにされておらず、このように、これらのデータ分析の際にはその基盤のあやふやな「民族」という「集団」の強調のみがあり、「個人」というものに対する尊重がないため、ドイツの民族主義者の側による主観的な正当化に利用されている。また、中世のポーランド王国でユダヤ人が温かく迎え入れられ、自由な定住を許され、かつ1264年の基本法によって1795年にポーランド王国が滅亡するまでユダヤ人の人権と安全が保護されたことは、彼らによると、当時のポーランドの支配者が私利私欲でユダヤ人とその財産をうまい具合に利用することが第一の動機だったのだ、という解釈になる[5][6]。
- 前項と関連することであるが、ヨーロッパやアメリカなどではしばしばポーランド人が激しい「反ユダヤ主義」者であることが強調される。この主張はナチス・ドイツを正当化する類の論のうちにしばしば見られ、そこでは「ホロコーストが行われて喜んだポーランド人」の印象の植え付けが行われる。しかし、現在の「ポーランド人の反ユダヤ主義」という強調が行われるようになった直接の原因は、第二次世界大戦後にポーランドが共産主義化した際、疎開などから帰還したり家を焼け出されていたりした非ユダヤ系ポーランド人に共産党政府が割り当てた住宅が、ホロコーストで亡くなったと考えられた(が実は生き延びることができた)ユダヤ系ポーランド人のもので、帰還したユダヤ系の人々と、政府からすでに家として割り当てられていた非ユダヤ系住民との間での不動産トラブルが頻発し、これがもととなりキェルツェ市で双方に死傷者が出たほどの住民同士の大規模な暴力沙汰(キェルツェ事件)に発展し、この事件の顛末において新住民に家を割り当ててしまっていた共産党政府の人々が自己の行ったいいかげんな住宅割り当て政策の正当化および保身のために新住民側に立ったことから、多くのユダヤ系ポーランド人たちが当時の政権と体制に嫌気がさしてアメリカやイスラエルなどに移住してしまったことである。このときのわだかまりから、当然のことながらこのとき外国に移住したユダヤ系のポーランド人たち(とくにちょうどその世代の人々)は祖国ポーランドの人々を良く言うわけがなく、これが前項の「インテリ外国人による反ポーランド主義運動」に格好の口実を与えた形となった(なお、このときの不動産問題については、1989年の民主化後のポーランドは解決に非常に熱心で、ユダヤ系の人々が失った財産の補償問題も次々と解決させており、このためポーランドとイスラエルとの関係は非常に良好で、イスラエルはポーランドを「ヨーロッパにおける最高の友邦」と正式に呼んでいる)。これに関連して、2009年にイギリスの労働党政権当時のデイヴィッド・ミリバンド外相(ミリバンド家はポーランド出身のユダヤ系イギリス人)が、ポーランドの右派政治家の大物でカトリック主義的傾向の強いミハウ・カミンスキ欧州議会議員を「反ユダヤ主義者」呼ばわりしたことに対し、ポーランドのユダヤ教最高指導者(チーフ・ラビ)のマイケル・シュードリックが、「カミンスキ氏はユダヤ人とイスラエルにとって最も親しい友人なのに、(よりによってカミンスキ氏の思想を反ユダヤ主義などと決めつける)ミリバンド氏はポーランド社会を全く理解していない」と言って猛然と抗議し、カミンスキに対するレッテル貼りを行ったミリバンドがイギリス国会で野党から「ポーランドとカミンスキ氏に正式に謝罪しろ」と猛烈に非難された騒ぎがある。特殊な発展をしたポーランドでは、伝統的な保守思想はユゼフ・ピウスツキのヤギェウォ主義やイグナツィ・パデレフスキ(世界的ピアニスト、ポーランド共和国首相)、ヴワディスワフ・シコルスキ(ポーランド共和国首相、ポーランド共和国ロンドン亡命政府首相)、ヴォイチェフ・コルファンティ(プロイセン王国国会議員、ドイツ帝国国会議員、ポーランド共和国副首相)の組織したモルジュ戦線に代表されるようなコスモポリタニズム(および自由主義)で、これは旧ポーランド・リトアニア共和国で主流で、この思想が常にポーランドの社会発展思想の主流をなしている。一方で第二次世界大戦前のロマン・ドモフスキや第二次世界大戦後のポーランド統一労働者党政権(共産主義政権)にみられるいわゆるピャスト主義という排外的な国家主義・民族主義の流れは「ヤギェウォ主義」と対立する外来(ドモフスキの場合は近代ドイツなどのナショナリズム、統一労働者党はスターリン主義の影響)の社会発展思想であった。
- いわゆるポーリッシュ・ジョークと呼ばれる一連のもので、ポーランド人を笑いものにするジョークを無数に作成し、ポーランド人が不潔でだらしなく無能で頭の悪い人々であるかのようなイメージを社会に植え付けようとする陰湿な「非理論的印象操作」の運動(この運動はアメリカにおいてドイツ系アメリカ人が広めたといわれる[7]。しかし現代のアメリカ人はこれらのジョークが一部の人間によりポーランド人に対する不純な動機から意図的に作られたものであることに、だいぶ前から気づいているので、こういうジョークにはアメリカでは教養ある人々は興味を示さない[8])。
反ポーランド主義はそれを熱心に行う人々自身の内に隠れている極右思想・排外思想と密接な関係がある。彼らが反ポーランド主義の運動を行う際に、作り上げ、利用しているのが、「ポーランド人の恩知らず」、「ポーランドの極右思想」、「ポーランド人の暴力性」、「ポーランドによる自国の侵略」、「ポーランド人の不潔さ」、「ポーランド人の性的なだらしなさ」、「ポーランド人の知能的欠陥」などといった、彼らが作り上げる、現実とかけ離れた恐ろしい「異種(エイリアン)」のイメージなのである。
独立と第二共和国
詳細は「ポーランド第二共和国」を参照
1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。
1920年にはソヴィエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソヴィエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしユゼフ・ピウスツキ将軍の採った思い切った機動作戦が成功してポーランド軍がソ連軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーのソ連軍は一斉退却を開始、ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、これは「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。
この戦いで、ゾウィエト各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子供達だけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した[9]。
1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソヴィエト連邦につけ込まれるようになった。
第二次世界大戦
1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はナチとソビエトの2ヶ国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロバキア、ソビエト連邦、リトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。
ポーランド人民共和国
詳細は「ポーランド人民共和国」を参照
1945年5月8日から1989年9月7日まで、即ち第二次世界大戦の終結から民主共和政体への移行までの44年間は、ポーランド統一労働者党が寡頭政治を敷く「ポーランド人民共和国」、即ち共産党時代であった[要出典]。
1945年5月8日、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、その国の形は終戦前に行われた英・米・ソのヤルタ会談によって定められた。
「ヤルタ会談#ポーランド問題」も参照
カティンの森事件などでソビエト連邦と敵対したポーランド亡命政府は帰国することができず、ルブリンに置かれたソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソビエト連邦はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはヨシフ・スターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。このため旧ドイツ領の地域は、回復領と呼ばれた。
この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の侵攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも、強制移住によりポーランド国外へ退去させられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民全てを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ただしソビエト連邦、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリーなどといったポーランドの周辺国にみられたような農業集団化は、ポーランド国内では行われなかった。これが小規模個人農と多品種少量生産を主とするポーランド農業の性格を決定づけ、オーガニック農業の広がりが定まった現在もこの構造は変わっていない。
一方、ソビエト連邦に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた。
終戦後は、ソビエト連邦の強い影響下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソビエト連邦によって、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加した。社会主義国となり、東側陣営に組み込まれ、東西冷戦に巻き込まれた。
しかしソビエト連邦の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの期間に確固たるものとなり、運動は拡大していった。1979年6月にポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、国民に熱狂的に迎えられた。これがポーランドの民主化運動、ひいては東欧全体の民主化運動に決定的な役割を果たすことになった。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。
第三共和国
詳細は「ポーランドの歴史 (1989年-現在)」を参照
1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは、「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。
1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。
1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。
1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。
2005年、欧州連合(EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義のカトリック系保守主義政党「法と正義」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。
同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。
しかしヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線を巡ってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合やロシアと軋轢を起こした。その後連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。
この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市型中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。
一方で、大きく議席数が変化することが少ないと言われるドント方式の比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失ってしまう。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義・大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。
この選挙の結果、ポーランド議会(セイム)の会派は議席の多い順に、
- 都市型中道右派政党の「市民プラットフォーム」(209議席)
- キリスト教民主主義の保守主義政党の「法と正義」(166)
- 中道左派と中道の政党連合「左翼と民主」(53)
- 農村型中道右派政党の「ポーランド国民党」(31)
- ドイツ民族政党の「ドイツ少数民族」(1)
と、整理された。
最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド国民党」と連立政権を発足。首相は「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任。
2009年9月1日には、二次大戦勃発70周年式典が開かれ、ポーランドからはドナルド・トゥスク首相が出席した[10]。同じ2009年11月27日には、「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ党首が提案した、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決された[11][12]。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり、民間では制限されておらず、自由に使える。たとえば観光都市クラクフでは共産主義的な雰囲気の残っているところを観光客が楽しむための旅行会社さえあり、共産主義のマークを問題なく使用している[13]。
2010年4月10日、カティンの森事件70周年の追悼式典に出席するため向かったレフ・カチンスキ大統領夫妻、それに94人の政府高官の代表団は、ロシア西部のスモレンスク郊外で発生した政府専用機墜落事故で死亡した。
この事故を受けて、ポーランド下院(セイム)議長で「市民プラットフォーム」所属のブロニスワフ・コモロフスキが憲法に従い大統領代行に就任。ポーランド大統領選挙が6月に急遽行われることになった。
西欧への回帰-欧州連合とシェンゲン協定
2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。
2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での全ての国境審査が撤廃されたことになる。
現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
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