LT貿易
別名:日中総合貿易に関する覚書
日中間の貿易に関する協定。1962年に調印された。LT貿易の呼び名は、両国の調印者廖承志(Liao Chengzhi)と高碕達之助(Tatsunosuke Takasaki)のイニシャルから取られたとされる。
日本と中国(中華人民共和国)は、1972年に日中国交正常化が実現するまで、正式な国交が行われていなかった。特に1958年以降は、長崎で五星紅旗が摺り下ろされるという事件が発生したことで中国政府は態度を硬化させ、日中貿易が全面的に中断する状況に陥っていた。
LT貿易の締結は、日中間における半官半民の貿易を促し、後の国交正常化の土台を築いたと言われている。
関連サイト:
連絡事務所の設置および新聞記者交換に関する高碕達之助,廖承志両事務所の会談メモ - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 日本政治・国際関係データベース
LT貿易 半官半民の発展段階に入った中日両国の貿易関係 - チャイナネット
LT貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 01:55 UTC 版)
LT貿易(エルティーぼうえき)は、1962年(昭和37年)11月に日本と中華人民共和国との間で交わされた「日中長期総合貿易に関する覚書」(通称:LT協定)に基づき、両国間の正式な国交はないものの、互いの連絡事務所を設置し、政府保証の融資を利用して行われた半官半民的な貿易形態である。覚書に署名した中華人民共和国側代表廖承志(Liào Chéngzhì、アジア・アフリカ連帯委員会主席、のち中日友好協会長)と日本側代表高碕達之助(元通商産業大臣)の頭文字であるLとTをとってLT協定、ないしLT覚書と呼ばれ、覚書に基づいた貿易が1967年12月まで続いた。「LT取引」、「日中準政府間貿易」とも。
- ^ 「日中関係史」49P 有斐閣
- ^ 林・渡邊1997、64p。
- ^ 衆議院会議録情報 第024回国会 本会議 第29号 昭和31年3月30日
- ^ 衆議院会議録情報 第025回国会 本会議 第17号昭和31年12月12日
- ^ 岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』185頁、文藝春秋社、1981年
- ^ 権容奭『日中貿易断絶とナショナリズムの相克』第4章
- ^ 参議院会議録情報第028回国会外務委員会第11号昭和33年3月20日
- ^ 衆議院会議録情報第028回国会外務委員会第20号昭和33年4月9日
- ^ 衆議院会議録情報第031回国会予算委員会第3号
- ^ 衆議院会議録情報第029回国会本会議第4号昭和33年4月9日
- ^ 原彬久『岸信介証言録』p.159.
- ^ 岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』211頁、文藝春秋、1981年
- ^ 林・渡邊1997、118-120p。
- ^ 林・渡邊1997、152p。
- ^ 林・渡邊1997、157-164p。
- ^ 林・渡邊1997、164-167p。貿易連絡事務所と新聞記者交換に関して、倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(その2)」(『龍谷大学経済学論集』第45巻第2号、2005年10月)が、成立の過程を明らかにした。
- ^ 東2002、132-133p。
- ^ 東2002、133-135p。倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(その3)」(『龍谷大学学論集』第45巻第3号、2005年12月)。
- ^ 事件の経緯についての中共側・国府側・日本側の見解は、それぞれの立場を正当化する主張を含んでいるため政治的バイアスがかかっており、事件当時の周鴻慶本来の意志がどこにあったかは推測の域を出ない。当初の通り亡命を希望していたのであれば、日本側の行動は1951年にジュネーヴで採択された難民条約に規定するノン・ルフルマンの原則(送致・送還の禁止の原則)に反する行為であるが、日本はこの時点で難民条約に加入していなかった(1981年10月3日に加入)。
- ^ [1]UNITIKA会社情報歴史アーカイブ ニチボー編第5章「構造的不況打開への経営努力(昭和30年~44年)」
- ^ MT貿易のTはTrade(貿易)であるため、「MT貿易」という語は重言表現になるが、しばしば用いられる。
- ^ (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説
- 1 LT貿易とは
- 2 LT貿易の概要
- 3 中華民国の対応と周鴻慶事件
- 4 関連項目
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