John F. Kennedyとは?

John F. Kennedy

John F. Kennedy
(35) John F. Kennedy
(ジョン・F・ケネディ)
民主党 (1961-63)

( )内の年は在任期間

ジョン・F・ケネディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/27 13:59 UTC 版)

(John F. Kennedy から転送)

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ英語: John Fitzgerald Kennedy1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。




  1. ^ 背骨の障害については生まれつきという説と後に治療に使ったステロイドが原因とする説もある。
  2. ^ 19世紀末になるとアメリカの東海岸のエリートたちはイギリスのパブリックスクールを真似て私立の寄宿学校をこぞって設立した。チョート校もその一つでプロテスタントの学校であった。父ジョセフがカトリック系でなくあえてジョセフ・ジュニアもジョンもプロテスタント系の学校に入学させたのは、息子たちがこの学校に通うことで自分が冨を得ても破ることの出来なかった社会の壁を乗り越えられるように願ったためであった。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』34P
  3. ^ 後に1952年と1956年の民主党大統領候補となりケネディ政権では国連大使を務めたアンドレイ・スティヴンソンや俳優のマイケル・ダグラスも同校を卒業している。当時ユダヤ人は入学を許さず、カトリック教徒は余程優秀な成績でないと入学できなかった。ジョンのそれまでの成績では入学は出来なかったはずだが、父の財力と兄が飛び抜けて優秀であったことが力になったとされている。土田宏、p14-15
  4. ^ 過敏性腸症候群或いは過敏性大腸炎とされている。
  5. ^ 現在の医学では消化器系の潰瘍にはステロイドは効き目があるが、長期的使用には有害な副作用があるとされている。炎症は緩和しても骨粗鬆などの原因となり脊髄に異常が生じたり、副腎機能に障害を生じたりする。土田宏、p17
  6. ^ ケネディは18年後にエヴァンズをホワイトハウスでの大統領就任式に招待している。Gasaも招待されていたものの、式典に間に合うように出立することが出来なかった。Kumanaは『ケネディのPT109の捜索』 ('The Search for Kennedy's PT-109') で「救出の後に、ケネディは、彼が再び私たちに会うと言いました」と述べている。そして「彼は大統領になったとき、我々を招待してくれた。しかし、空港に着いた時、我々はある事務員に引き会わされ、我々が出国出来ない旨を告げられた。Biukuと私が英語を全く話せないことが理由だった。私の気持ちはひどく沈んでしまった。」という証言を残している。Ted Chamberlain National Geographic News, 20 November 2002
  7. ^ ジョン・F・ケネディの娘キャロラインは2013年、駐日大使就任直後に応じた日本の新聞へのインタビューにて、ケネディは自らの魚雷艇を撃沈した天霧の艦長を大統領就任式に招待したと語っているが、実際に就任式に招待されたのは、衝突時の天霧の艦長が花見弘平少佐であることを突き止めた人物で国際政治学者である当時の青山学院大学教授、細野軍治であった。
  8. ^ 通称INS社。後にUP通信と合併してUPI通信となった。1963年秋のダラスでのパレード中にケネディが狙撃された直後に、後方の車に乗っていたUPI通信の記者がケネディ撃たれるの速報を発信して、これが最初の情報として全米のテレビ・ラジオでのニュース速報として流れた。
  9. ^ この現職議員の市長選へのくら替えは、当時カーレイ議員自身が詐欺などの容疑でその弁護料の支払いで財政的に非常に苦しい立場に追い込まれていたため、父ジョセフがその借金の返済を肩代わりする、そのかわりに下院議員選挙への出馬を取り止めボストン市長選に出馬してその選挙費用はケネディ家が全て賄うという裏取引であった。そしてボストン市長選挙で当選して晴れてボストン市長になったカーレイだったが、市長になってすぐに連邦補助金に絡む着服で詐欺罪として有罪が確定して刑務所に収監されている。土田宏 P40-41及び P50-51 参照
  10. ^ このネル―首相の指摘は、その後ケネディが大統領に就任後の「平和部隊」「進歩のための同盟」などの政策として実現した。
  11. ^ この旅行には弟ロバートと妹パトリシアが一緒に同行して、旅行の最後は日本を予定していたが、沖縄で急な高熱で病院に運び込まれ、結局日本訪問は断念している。土田宏 P66-68
  12. ^ 兄ジョセフ・ジュニアのガール・フレンドだったとジョン自身が親友のワシントンポストの元編集者ベン・ブラッドリーに語っていたが、ずっと後になって、ジョンが22歳の時にハドソン川を渡ってニュージャージー州フォートリーへ駆け落ちし、ジュリーとの結婚届を出してその後離婚届をしているとしている。ジュリー・マルコムは戦後の一時期もジョンと関係があったとする説があり、真偽は詳らかではない。ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』167〜171P またケネディの親しい友人のチャールズ・スポールディングも戦前に父ジョセフが怒り狂い、裁判所に行って結婚届を手に入れて処分してくるように命令された、と語っている。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』278P
  13. ^ 一説には、当時ロッジ陣営は100万ドルの資金で戦ったがケネディ陣営は数百万ドルを使ったとされている。またもともと共和党支持の「ボストン・ポスト」紙が経営難に陥り、ジョセフが50万ドルの支援と引き換えに共和党支持から民主党支持に鞍替えさせたとも言われている。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』97P
  14. ^ 二人の出会いは、もっと早くジャクリーンが大学生だった頃でその後再会の機会はあったが特に進展は無かったという説もある。土田宏 P75参照。しかし一般的には記者となってから知り合ったという説が多い。
  15. ^ ただしギャレス・ジェンキンス著の『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』では、当時ロンドンで行われたエリザベス二世の戴冠式にジャクリーンが取材で滞在中に電報でプロポーズした、と述べており、またネリー・ブライ著の『ケネディ家の悪夢』では1953年5月23日にニューヨークのセントパトリック大聖堂で行われた妹ユーニスとサージェント・シュライバーの結婚式の際に教会からプロポーズの電報を打った(ジャクリーンはこの時ロンドンでエリザベス二世の戴冠式の写真を撮りに行っていた)とされており、土田宏著『ケネディー神話と実像』でもロンドンにいたジャクリーンにプロポーズの電報を打ったとしており、いずれにしてもプロポーズの返事をジャクリーンがジョンに伝えたのがこのホテルではないか、と思われる。
  16. ^ この10年後にクッシング大司教はケネディ大統領暗殺後の国葬でセント・マシューズ教会の告別式を取り仕切ることとなった。
  17. ^ しかし1960年の大統領選挙の民主党予備選挙で同じ民主党のジョンソン陣営から副腎機能低下症にケネディが罹っているとの情報が流されている。そして、1963年11月22日ダラスで凶弾を受けて瀕死の状態で担ぎ込まれたパークランド病院で、救急の医師が大統領が副腎機能低下症に苦しんでいることを新聞で既に知っており、この医師はすばやくハイドロコーチゾンを注射している。
  18. ^ ギャレス・ジェンキンスの著書では容態の悪化だが、ソレンセンの著書では10月の手術で挿入された金属板を取り除くためで、これはまた危険な手術でもあった。
  19. ^ ケネディは1度だけノーベル賞推薦人としてノーベル平和賞への推薦を提出した。それは1962年のことであり、ケネディはエレノア・ルーズヴェルトを推薦した。ケネディも1度だけノーベル平和賞に推薦されたことがあり、1962年C. J. ハンブロ(C. J. Hambro)による提出である。[37]
  20. ^ この予備選挙でハンフリー陣営が選挙に投じた額が2万5000ドルに過ぎないのに比べケネディ陣営は27万4000ドルであった。およそ10倍であったが実際はもっと多くの金が使われたと信じられている。「ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ」134P ギャレス・ジェンキンス著 原書房 2006年。
  21. ^ プロボクシングやプロレスリングの試合会場としてつとに有名である。世界フェザー級チャンピオンの西城正三はここで日本人初の海外で世界チャンピオンを獲得した。またプロレスでは力道山が1958年ルー・テーズを破ってインターナショナルチャンピオンとなり、また1962年にフレッド・ブラッシーを破って当時のWWA世界チャンピオンを獲得したのもこの会場である。
  22. ^ 1932年と後の1984年のロサンゼルスオリンピックのメイン会場となった競技場である。この競技場は当時ロサンゼルス・ドジャーズの本拠地として野球場として使用されていた。この日は8万人が集まった。
  23. ^ これは大統領選挙の時だけ声高にニクソン候補にソ連に比べて遅れていると批判したが、選挙後にはこのミサイルギャップについては一切触れていない。政権に就いてから調べてみるとそのようなギャップは無かったことになる。
  24. ^ この選挙運動に関するセオドア・ホワイト1961年の著書『The Making of the President 1960 』は、ベストセラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用されている。
  25. ^ セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、ウィリアム・マッキンリーが暗殺された後を埋めるため自動的になったもので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少である。
  26. ^ この2年10ヶ月後のケネディ暗殺事件の直後に、大統領直属の暗殺調査委員会が設置されて委員長に就任した人物でもある。
  27. ^ ケネディ大統領が進めていたベトナムへの軍事援助の増加が原因という説があるが、ケネディの時代はむしろベルリン危機やキューバ危機でソ連との対決に備えるための軍事予算が必要になったのであって、ベトナムへの軍事援助が増加したのはジョンソン大統領の時代になってからである。
  28. ^ これらのことに合わせて、内政、外交におけるいくつかの大きな失策により、もし暗殺されていなかったとしても1964年の大統領選挙での再選は絶望的とする見方が有力であったとする陸井三郎の解説(『日本大百科全書』(小学館))があるが、しかし当時の彼の人気と共和党内の混乱で有力候補がいない状況(翌年に超保守派のゴールドウオーターが共和党大統領候補となって惨敗した)では再選されただろうとする見方の方が多い。
  29. ^ ここでは経営側と組合側とが同席しての話になっているが、落合信彦は著書『2039年の真実』の中で、この鉄鋼産業との対決について、ケネデイはまず鉄鋼組合や自動車組合やAFL-CIOの幹部に対して自重を促した。この間経営者側は傍観していた。経営者側にとっては値上げをしないなどという約束は大統領とはしていない、と述べている。ふつう労使間で約束したことを簡単に覆すことはあり得ないことで、まず労働組合側との話を進めたため、経営者側にとっては頼みもしないのに勝手に大統領が片側だけと交渉したことがこのような結果になった、とも考えられる。落合信彦著『2039年の真実』146〜147P参照
  30. ^ ケネディの提案は必ずしもタックス・ヘイヴンだけでなく海外の子会社が持つ留保所得の繰延べを問題としたもので完全廃止を主張したとされるが、もともと最初から発展途上国などを含めていない。
  31. ^ これは当時の日本にとっても影響のあることであった。
  32. ^ ジョン・グレン中佐はこの翌年ケネデイ大統領の国葬に参列し、その後合衆国上院議員となり、1998年にスペースシャトル「ディスカバリー」に乗って77歳で再び宇宙飛行士となった。
  33. ^ メレディスは一年前から州政府と法廷で争い、地方裁判所から連邦最高裁までことごとくメレディスが勝訴してきた。しかしミシシッピ州知事ロス・バーネットは裁判所の判決を拒否したため、連邦控訴院はバーネットに法廷侮辱罪で有罪を宣告し、連邦政府に対して裁判所の命令を実行するよう要請した。司法長官ロバート・ケネディはバーネットや大学当局に対し説得を開始し、大学側はメレディスの入学受け入れを決定した。しかしバーネットはあくまでも拒否の姿勢を貫き、州兵を動員して大学の周囲を固め、メレディスが大学へ入るのを妨害した。ケネディは州兵を連邦化する行政命令を出し、連邦保安官にメレディスを目立たぬように夜中に大学の寮内に連れ込ませた。しかしこれを知ったクー・クラックス・クランメンバーをはじめとする人種差別主義者約2500人が暴動を起こした。ケネディはこの件に関する演説を行ったが、連邦保安官や連邦化した州兵では対処し切れなかったのでついに軍隊を動員してこれを鎮圧した。
  34. ^ アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送った。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた
  35. ^ フルブライト上院議員は反対した。
  36. ^ ケネディ大統領のスピーチライターで大統領顧問であったセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」の中で、事前の爆撃でキューバ空軍機を損耗させられなかったことで、制空権を確保したキューバ空軍の攻撃が沖合の艦船を撃沈させて、弾薬補充が出来なかったことが上陸作戦の失敗につながった要因の一つであると指摘している。ただしこれだけが作戦全体の失敗の原因ではない。
  37. ^ この時フルシチョフは、ソ連首相でありソビエト共産党第一書記でもあった。もともとスターリン死後にフルシチョフが党第一書記で、首相はブルガーニンとマレンコフが歴任した後で首相兼務となった。スターリンは首相で書記長兼務であったが、フルシチョフは「第一書記」の役職である。1964年秋のフルシチョフの失脚後はブレジネフ第一書記でコスイギン首相の体制が続き、その後ブレジネフが役職を書記長と改めて首相も兼務している。
  38. ^ ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。土田宏、p159
  39. ^ この期間にアメリカはケネディの知らない間に、CIAと軍部で密かにマングース作戦を立て、キューバを攻撃する準備としてカストロ暗殺や政府転覆及び破壊活動を企てていた。丁度キューバのミサイルが発見された10月14日の翌日も作戦実行を予定していた。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』190〜191P及び205P参照
  40. ^ 翌15日に分析の結果ソ連製中距離ミサイル(IRBM)と確認されて、建設台と運搬車であることがわかった。
  41. ^ 空軍参謀総長カーチス・ルメイ。第二次大戦では日本への空襲を指揮し、後にベトナム戦争で北爆を強く主張していた。
  42. ^ スティーブンソン国連大使は翌18日にニューヨークに戻る前に大統領に文書を送り、キューバへの攻撃はソ連がトルコやベルリンに報復行動に出る可能性が高く、結果として核戦争になると強調した。土田宏 174P
  43. ^ この直後、ケネディは「お偉いさん達の意見をその通りにして間違っていたら、間違っていたと言おうにも誰も生きていないことになる。」と補佐官のケネス・オドンネルに吐き捨てるように言い残した。土田宏、pp176
  44. ^ 日本では当時も現在もこのキューバ危機では封鎖という言葉を使用している。
  45. ^ ケネディの封鎖声明後、人口600万人のキューバでは武装した戦闘員が40万人動員され、アメリカは25万人の動員で2000機の戦闘機が万が一のため配置についた。
  46. ^ 1952年と1956年に民主党大統領候補としてアイゼンハワーと争い、いずれも敗れ、しかも1956年にはケネディがその下の副大統領候補を目指したこともあり、ケネディ政権下で国務長官にという下馬評もあったスティーヴンソンだが、しかし予想に反して国連大使の任用であった。しかしこの時の安保理で厳しくソ連大使を追及する姿は後に「アドレイ・スティーヴンソンの瞬間」という言葉がアメリカ政界の語録に刻まれて、彼が最も脚光を浴びた瞬間でもあった。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』215P
  47. ^ この時代は米ソ冷戦の時代であり、米ソ間にホットラインを設けて首脳同士が直接対話する機会はなかった。このキューバ危機以降に米ソ間でホットラインが設置されて両国の首脳が初めて電話での会談がいつでも開かれることとなった。
  48. ^ 皮肉な話だが2年前の大統領選挙で米ソ間でミサイルギャップがあるとケネディは共和党政権を攻撃する材料に使ったが、実際はアメリカの方が圧倒的に優位であった。
  49. ^ ドブルイニンを司法省に呼び会見した、という言説はおよそ当時の緊迫した状況では不可能であり、しかもエクスコムの会議で絶対に通ることのないトルコに設置しているミサイルの撤去についての密約の話であったので秘密を要するものであった。
  50. ^ この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か、我々が求める平和とは何か、それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語った
  51. ^ キッシンジャー著「外交」の中でキッシンジャーは、「このような情勢視察は常に、ある決定(=アメリカ軍「軍事顧問団」の増派)が既になされていたということを示すだけのものである」と、情勢視察を行う前にアメリカ軍「軍事顧問団」の増派が決定されていたことを指摘している
  52. ^ フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある
  53. ^ これは後の検証により単に危機回避をはかり車外に飛び出ようとしていただけではないかという説や意見もあるが、実はザプルーダー・フィルムから見ると、大統領の頭部に当たってから殆ど1秒も置かずに動いているのは、全くとっさの反射的な行動であって意図を持った行動として見るのは不可能という見方もある。
  54. ^ 大統領の骨と脳組織の一部は前列の知事コナリーも被っており、ザプルーダー・フィルムを見ると前方に血が噴き出ているように見える。
  55. ^ ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言した。1980年代には、男が銃撃したと述べている。ウォーレン委員会において、トリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。ウォーレン委員会において、ダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールで当日は配置されていなかったシークレットサービスを名乗る私服の男を見たと証言した。エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
  56. ^ 1975年に設置された下院暗殺調査委員会はオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下したが、重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。
  57. ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン著、岩瀬孝雄訳、『JFK ケネディ暗殺犯を追え』、早川書房、1992年およびオリバー・ストーン、ザカリー・スクラー著、中俣真知子、袴塚紀子訳、『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』、テンプリント、1993年等参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
  58. ^ 陸井三郎は、目撃証言者12人が変死または怪死していると述べている[92]
  59. ^ ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある[93]
  60. ^ 彼女が20歳の時にケネディ議員の事務所に勤め、夜間に彼女の下宿先までケネディは押しかけている。この時に大家のレナード&フローレンス・ケーター夫妻が夜に物音で気づき、敬虔なカトリック教徒であったケーター夫妻はやがて相手が上院議員で大統領候補に目される人物であることに驚き、その情事を録音し(そのテープはFBIのフーバー長官へ)、帰ろうとするケネディの姿を写真に撮り、ワシントンでケネディの女性関係を公表するように各メディアに依頼したがワシントンスター紙を除いて全く黙殺された。ワシントンスター紙は彼女の写真を掲載したが何の反応も無かった。パメラは後にジャクリーンの秘書となった。ネリー・サプライ著「ケネディ家の悪夢」132p
  61. ^ デビット・ドブスを通じて学生時代からケネディと性的関係を持っていた彼女の夫はCIA高官のコード・マイヤーで、キューバ危機のさなかの1962年10月22日にも、関係を持っていたことさえあった。[マイケル・ドブス(Michael Dobbs)著、布施由紀子訳『核時計零時1分前―キューバ危機13日間のカウントダウン』NHK出版、2010年1月 P546-547
  62. ^ しかし、落合信彦はその著「2039年の真実」で、メアリー・マイヤーはケネディ暗殺事件の翌年1964年9月にワシントンのジョージタウンにあるアパートで死体となって発見されたと述べている。「2039年の真実」P244-245
  63. ^ おそらく西独外交官の妻と思われるが、1963年7月にフーバーFBI長官からこの女性が東ドイツのスパイである情報をつかんだという通告を受けている。この外交官夫妻はすぐに母国に返された。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』278P
  1. ^ ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツ、鈴木主税訳、『ケネディ家の人々』、1990年、草思社、上p48
  2. ^ コリヤー、ホロウィッツ、上p48
  3. ^ 土田宏、p10
  4. ^ 土田宏、『ケネディ 神話と実像』、中公新書、2007年、pp12-18
  5. ^ 土田宏、p25
  6. ^ コリヤー、ホロウィッツ、上p90
  7. ^ 雑誌『Pen』No.550 2013年2月15日号 29P
  8. ^ 土田宏、p21
  9. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』72P
  10. ^ ロナルド・ケスラー、山崎淳訳、『汝の父の罪』、文藝春秋社、1996年、pp275-277
  11. ^ 土田宏、p28
  12. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p182
  13. ^ ケスラー、pp322-333
  14. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』81P
  15. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p189
  16. ^ コリヤー・ホロウィッツ、pp198-199
  17. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p200
  18. ^ ちなみにジョン・ハーシーの妻フランシス・アンは学生時代にケネディと交際、婚約まで考えた関係であった
  19. ^ ケスラー、p356
  20. ^ 土田宏、pp32-33
  21. ^ 土田宏 P44 参照
  22. ^ 土田宏 P46 参照
  23. ^ 土田宏 P50-51 参照
  24. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』94P及び222P参照 
  25. ^ 土田宏 P69-70 参照
  26. ^ PHOTOS: JFK AND JACKIE'S WEDDING, 1953 - LIFE.TIME.com(ライフ画像アーカイブ).2013年9月11日閲覧.
  27. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』117〜118P
  28. ^ このホテルはホー・チ・ミンが若き日にシェフを務め、マルコムXがテーブル片付け係として働いていたホテルでもある。http://kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=699703/
  29. ^ ニューズウィーク 2011.5.4/11号
  30. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』103〜104P
  31. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』91P
  32. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』122P
  33. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』121P
  34. ^ 土田宏 81-82P
  35. ^ ケスラー、p438-440
  36. ^ 土田宏、pp84-85
  37. ^ Nomination Database: John F Kennedy”. Official web site of the Nobel Prize. 2015年1月28日閲覧。
  38. ^ ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳、『ピーター・ローフォード-ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』、読売新聞社、1992年、下p76
  39. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』121P参照
  40. ^ ギャレス・ジェンキンス著、沢田澄江訳 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』122P参照
  41. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』127P
  42. ^ 有賀貞編著『世界歴史大系〜アメリカ史2〜』、山川出版社、1993年7月発行、p. 390。
  43. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 72〜74P
  44. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 73〜74P
  45. ^ スパダ、p342
  46. ^ スパダ、p346
  47. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 75P
  48. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 76P
  49. ^ 『世界歴史大系〜アメリカ史2〜』、p. 391。
  50. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 76P
  51. ^ 土田宏、p118
  52. ^ グレーターヒューストン聖職者協会での演説” (日本語訳と動画) - JOHN F.KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM.2013年9月11日閲覧.
  53. ^ Address of Senator John F. Kennedy to the Greater Houston Ministerial Association, September 12, 1960” (原文と動画) - JOHN F.KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM.2013年9月11日閲覧
  54. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 79P
  55. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』148P
  56. ^ 「米国の大統領と国政選挙〜リベラルとコンサヴァティブの対立〜」藤本一美・濱賀祐子著 68〜69P
  57. ^ ジョン・H・デイヴィス著、市雄貴訳、『マフィアとケネディ一族』、朝日新聞社、1994年
  58. ^ サム・ジアンカーナ、チャック・ジアンカーナ著、落合信彦訳、『アメリカを葬った男―マフィア激白!ケネディ兄弟、モンロー死の真相』、光文社、1992年
  59. ^ スパダ、p344
  60. ^ 田久保忠衛、『戦略家ニクソン 政治家の人間的考察』、中公新書、1996年
  61. ^ 越智道雄著「ブッシュ家とケネディ家」128P
  62. ^ 越智道雄著「ブッシュ家とケネディ家」130P
  63. ^ 越智道雄著「ブッシュ家とケネディ家」130~131P
  64. ^ 越智道雄著「ブッシュ家とケネディ家」131P
  65. ^ 土田宏 P135-136 
  66. ^
    就任宣誓・演説
    。演説全文はwikisource:John F. Kennedy's Inaugural Addressに見ることができる。
  67. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』246〜247P参照
  68. ^ 落合信彦著『2039年の真実』146〜149P
  69. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』247P参照
  70. ^ 会計検査院 米国におけるタックス・ヘイブン対策税制の研究京都産業大学 米国Subpart F 税制における外国同族持株会社所得(FPHCI)の意義
  71. ^ 土田宏、p212
  72. ^ 土田宏、p213
  73. ^ 「ブッシュ家とケネディ家」 136P 越智道雄著 朝日選書 2003年8月発行。
  74. ^ 「激動の現代史五十年」 222〜224P 大森実著 小学館 2004年10月発行。
  75. ^ 土田宏、p159-160
  76. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』229P
  77. ^ 土田宏、p166
  78. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』231P参照
  79. ^ 土田宏 174P
  80. ^ 土田宏 174-175P
  81. ^ 土田宏、pp177
  82. ^ 土田宏、p188
  83. ^ 土田宏、p189
  84. ^ デイビッド・ハルバースタム著、浅野 輔訳、『ベスト&ブライテスト』(上・中・下)、朝日文庫、1999年、ページ数不明
  85. ^ ヘンリー・キッシンジャー著、岡崎久彦訳、『外交』、日本経済新聞社、1996年、p292
  86. ^ キッシンジャー、ページ数不明
  87. ^ アレックス・アベラ著、牧野洋訳、『ランド〜世界を支配した研究所』、文藝春秋社、2008年、ページ数不明
  88. ^ ロバート・マクナマラ著、仲晃訳、『マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓』、共同通信社、1997年、p97
  89. ^ キッシンジャー、p298
  90. ^ Document for September 22nd: Executive Order 10924: Establishment of the Peace Corps” - United States National Archives and Records Administrationアメリカ国立公文書記録管理局).2013年9月12日閲覧.
  91. ^ 参考:クレイショー裁判
  92. ^ 『日本大百科全書(小学館)』
  93. ^ 奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社、2008年
  94. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』参照
  95. ^ スパダ、p348
  96. ^ ジアンカーナ、p331
  97. ^ スパダ、p347
  98. ^ デイヴィス、p266
  99. ^ The Night Marilyn Sang to JFK: Rare Photos” - LIFE.TIME.comライフ画像アーカイブ)
  100. ^ 「マリリン・モンローとケネディ兄弟の貴重な写真が公に」2010年6月2日 CNN[リンク切れ]
  101. ^ 雑誌『Pen』No.550 2013年2月15日号 31P
  102. ^ 雑誌『Pen』No.550 2013年2月15日号 31P
  103. ^ 雑誌『Pen』No.550 2013年2月15日号 31P
  104. ^ 朝日新聞・1964年8月2日記事







固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「John F. Kennedy」の関連用語

John F. Kennedyのお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

Harry S Truman

Chester A. Arthur

Thomas Jefferson

Herbert Hoover

Rutherford B. Hayes

Lyndon B. Johnson

Benjamin Harrison

Ulysses S. Grant





John F. Kennedyのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
在日米国大使館在日米国大使館
この記事は「在日米国大使館」ホームページ内の、「歴代大統領のポートレート」の情報を転載しております。
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョン・F・ケネディ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2016 Weblio RSS