John F. Kennedyとは?

John F. Kennedy

John F. Kennedy
(35) John F. Kennedy
(ジョン・F・ケネディ)
民主党 (1961-63)

( )内の年は在任期間

ジョン・F・ケネディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/23 12:43 UTC 版)

(John F. Kennedy から転送)

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ英語: John Fitzgerald Kennedy1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。1962年にアメリカ合衆国通商代表部を創設。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。




  1. ^ 過敏性腸症候群とされている。
  2. ^ Kumanaは『ケネディのPT109の捜索』 ('The Search for Kennedy's PT-109') で「救出の後に、ケネディは、彼が再び私たちに会うと言いました」と述べている。そして「彼は大統領になったとき、我々を招待してくれた。しかし、空港に着いた時、我々はある事務員に引き会わされ、我々が出国出来ない旨を告げられた。Biukuと私が英語を全く話せないことが理由だった。私の気持ちはひどく沈んでしまった。」という証言を残している[19]
  3. ^ 母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドと立候補の時には亡くなっていた父方の祖父パトリック・J・ケネディは共にボストン政界での民主党の有力者であった。特にフィッツジェラルドはボストン市長を退任してまだ間が無くその支持基盤はそっくりケネディが引き継いでいる。後にエドワード・ケネディはテレビ番組で「ジョンが政界入りできたのも母と母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドのおかげである」と語っている。
  4. ^ このネル―首相の指摘は、その後ケネディが大統領に就任後の「平和部隊」「進歩のための同盟」などの政策として実現した。
  5. ^ 一説には、当時ロッジ陣営は100万ドルの資金で戦ったがケネディ陣営は数百万ドルを使ったとされている。またもともと共和党支持の「ボストン・ポスト」紙が経営難に陥り、ジョセフが50万ドルの支援と引き換えに共和党支持から民主党支持に鞍替えさせたとも言われている。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』97P
  6. ^ 全く皮肉なことにこれより10年前の1942年に当時マサチューセッツ州の民主党内が割れて、ジョセフは党内で対抗馬を立て、それがジョン・フィッツジェラルドで、民主党が分裂したため共和党が漁夫の利で勝利し、上院議員になったのがヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアであった。
  7. ^ ただしギャレス・ジェンキンス著の『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』では、当時ロンドンで行われたエリザベス二世の戴冠式にジャクリーンが取材で滞在中に電報でプロポーズした、と述べており、またネリー・ブライ著の『ケネディ家の悪夢』では1953年5月23日にニューヨークのセントパトリック大聖堂で行われた妹ユーニスとサージェント・シュライバーの結婚式の際に教会からプロポーズの電報を打った(ジャクリーンはこの時ロンドンでエリザベス二世の戴冠式の写真を撮りに行っていた)とされており、ケネディ暗殺直後に出版された雑誌でもジャクリーンがロンドンに滞在中にケネディが手紙で結婚を申し込んだエピソードが披瀝されている。
  8. ^ この10年後にクッシング大司教はケネディ大統領暗殺後の国葬でセント・マシューズ教会の告別式を取り仕切ることとなった。
  9. ^ しかし1960年の大統領選挙の民主党予備選挙で同じ民主党のジョンソン陣営から副腎機能低下症にケネディが罹っているとの情報が流されている。そして、1963年11月22日ダラスで凶弾を受けて瀕死の状態で担ぎ込まれたパークランド病院で、救急の医師が大統領が副腎機能低下症に苦しんでいることを新聞で既に知っており、この医師はすばやくハイドロコーチゾンを注射している。
  10. ^ ケネディは1度だけノーベル賞推薦人としてノーベル平和賞への推薦を提出した。それは1962年のことであり、ケネディはエレノア・ルーズヴェルトを推薦した。ケネディも1度だけノーベル平和賞に推薦されたことがあり、1962年C. J. ハンブロ(C. J. Hambro)による提出である。[33]
  11. ^ この予備選挙でハンフリー陣営が選挙に投じた額が2万5000ドルに過ぎないのに比べケネディ陣営は27万4000ドルであった。およそ10倍であったが実際はもっと多くの金が使われたと信じられている。「ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ」134P ギャレス・ジェンキンス著 原書房 2006年。
  12. ^ セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、ウィリアム・マッキンリーが暗殺された後を埋めるため自動的になったもので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少である。
  13. ^ この2年10ヶ月後のケネディ暗殺事件の直後に、大統領直属の暗殺調査委員会が設置されて委員長に就任した人物でもある。
  14. ^ これらのことに合わせて、内政、外交におけるいくつかの大きな失策により、もし暗殺されていなかったとしても1964年の大統領選挙での再選は絶望的とする見方が有力であったとする陸井三郎の解説(『日本大百科全書』(小学館))があるが、しかし当時の彼の人気と共和党内の混乱と有力候補がいない状況(翌年に超保守派のゴールドウオーターが共和党大統領候補となって惨敗した)では再選されただろうとする見方の方が多い。
  15. ^ ケネディの提案は必ずしもタックス・ヘイヴンだけでなく海外の子会社が持つ留保所得の繰延べを問題としたもので完全廃止を主張したとされるが、もともと最初から発展途上国などを含めていない。
  16. ^ これは当時の日本にとっても影響のあることであった。
  17. ^ メレディスは一年前から州政府と法廷で争い、地方裁判所から連邦最高裁までことごとくメレディスが勝訴してきた。しかしミシシッピ州知事ロス・バーネットは裁判所の判決を拒否したため、連邦控訴院はバーネットに法廷侮辱罪で有罪を宣告し、連邦政府に対して裁判所の命令を実行するよう要請した。司法長官ロバート・ケネディはバーネットや大学当局に対し説得を開始し、大学側はメレディスの入学受け入れを決定した。しかしバーネットはあくまでも拒否の姿勢を貫き、州兵を動員して大学の周囲を固め、メレディスが大学へ入るのを妨害した。ケネディは州兵を連邦化する行政命令を出し、連邦保安官にメレディスを目立たぬように夜中に大学の寮内に連れ込ませた。しかしこれを知ったクー・クラックス・クランメンバーをはじめとする人種差別主義者約2500人が暴動を起こした。ケネディはこの件に関する演説を行ったが、連邦保安官や連邦化した州兵では対処し切れなかったのでついに軍隊を動員してこれを鎮圧した。
  18. ^ アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送った。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた
  19. ^ フルブライト上院議員は反対した。
  20. ^ ケネディ大統領のスピーチライターで大統領顧問であったセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」の中で、事前の爆撃でキューバ空軍機を損耗させられなかったことで、制空権を確保したキューバ空軍の攻撃が沖合の艦船を撃沈させて、弾薬補充が出来なかったことが上陸作戦の失敗につながった要因の一つであると指摘している。ただしこれだけが作戦全体の失敗の原因ではない。
  21. ^ キッシンジャー著「外交」の中でキッシンジャーは、「このような情勢視察は常に、ある決定(=アメリカ軍「軍事顧問団」の増派)が既になされていたということを示すだけのものである」と、情勢視察を行う前にアメリカ軍「軍事顧問団」の増派が決定されていたことを指摘している
  22. ^ この時代は米ソ冷戦の時代であり、米ソ間にホットラインを設けて首脳同士が直接対話する機会はなかった。このキューバ危機以降に米ソ間でホットラインが設置されて両国の首脳が初めて電話での会談がいつでも開かれることとなった。
  23. ^ この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か、我々が求める平和とは何か、それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語った
  24. ^ フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある
  25. ^ これは後の検証により単に危機回避をはかり車外に飛び出ようとしていただけではないかという説や意見もあるが、実はザプルーダー・フィルムから見ると、大統領の頭部に当たってから殆ど1秒も置かずに動いているのは、全くとっさの反射的な行動であって意図を持った行動として見るのは不可能という見方もある。
  26. ^ 大統領の骨と脳組織の一部は前列の知事コナリーも被っており、ザプルーダー・フィルムを見ると前方に血が噴き出ているように見える。
  27. ^ ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言した。1980年代には、男が銃撃したと述べている。ウォーレン委員会において、トリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。ウォーレン委員会において、ダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールで当日は配置されていなかったシークレットサービスを名乗る私服の男を見たと証言した。エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
  28. ^ 1975年に設置された下院暗殺調査委員会はオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下したが、重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。
  29. ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン著、岩瀬孝雄訳、『JFK ケネディ暗殺犯を追え』、早川書房、1992年およびオリバー・ストーン、ザカリー・スクラー著、中俣真知子、袴塚紀子訳、『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』、テンプリント、1993年等参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
  30. ^ 陸井三郎は、目撃証言者12人が変死または怪死していると述べている[66]
  31. ^ ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある[67]
  1. ^ ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツ、鈴木主税訳、『ケネディ家の人々』、1990年、草思社、上p48
  2. ^ コリヤー、ホロウィッツ、上p48
  3. ^ 土田宏、『ケネディ 神話と実像』、中公新書、2007年、pp12-18
  4. ^ 土田宏、p25
  5. ^ コリヤー、ホロウィッツ、上p90
  6. ^ 土田宏、p21
  7. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』72P
  8. ^ ロナルド・ケスラー、山崎淳訳、『汝の父の罪』、文藝春秋社、1996年、pp275-277
  9. ^ 土田宏、p28
  10. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p182
  11. ^ ケスラー、pp322-333
  12. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』81P
  13. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p189
  14. ^ コリヤー・ホロウィッツ、pp198-199
  15. ^ コリヤー・ホロウィッツ、p200
  16. ^ ちなみにジョン・ハーシーの妻フランシス・アンは学生時代にケネディと交際、婚約まで考えた関係であった
  17. ^ ケスラー、p356
  18. ^ 土田宏、pp32-33
  19. ^ Ted Chamberlain National Geographic News, 20 November 2002
  20. ^ “精神生きている…ケネディ氏、JFKへの思いも”. 読売新聞. (2013年11月24日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131124-OYT1T00320.htm 2013年11月24日閲覧。 
  21. ^ “紅陵に生命燃ゆ その11(拓殖による掲載)”. 東京新聞. (2010年11月6日). http://www.takushoku-u.ac.jp/newspotal/publication/takushoku110th_sankei101106.pdf 2013年11月24日閲覧。 
  22. ^ ギャレス・ジェンキンス著、沢田澄江訳 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』94P及び222P参照 
  23. ^ PHOTOS: JFK AND JACKIE'S WEDDING, 1953 - LIFE.TIME.com(ライフ画像アーカイブ).2013年9月11日閲覧.
  24. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』117~118P
  25. ^ このホテルはホー・チ・ミンが若き日にシェフを務め、マルコムXがテーブル片付け係として働いていたホテルでもある。http://kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=699703/
  26. ^ ニューズウィーク 2011.5.4/11号
  27. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』103~104P
  28. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』91P
  29. ^ ネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』122P
  30. ^ ケスラー、p438-440
  31. ^ 土田宏、pp84-85
  32. ^ ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』121P
  33. ^ Nomination Database: John F Kennedy”. Official web site of the Nobel Prize. 2015年1月28日閲覧。
  34. ^ ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳、『ピーター・ローフォード-ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』、読売新聞社、1992年、下p76
  35. ^ ギャレス・ジェンキンス著、沢田澄江訳 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』121P参照
  36. ^ ギャレス・ジェンキンス著、沢田澄江訳 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』122P参照
  37. ^ 有賀貞編著『世界歴史大系~アメリカ史2~』、山川出版社、1993年7月発行、p. 390。
  38. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」藤本一美・濱賀祐子著 72~74P
  39. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」藤本一美・濱賀祐子著 73~74P
  40. ^ スパダ、p342
  41. ^ スパダ、p346
  42. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」藤本一美・濱賀祐子著 75P
  43. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」藤本一美・濱賀祐子著 76P
  44. ^ 『世界歴史大系~アメリカ史2~』、p. 391。
  45. ^ 「米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~」藤本一美・濱賀祐子著 76P
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  51. ^ サム・ジアンカーナ、チャック・ジアンカーナ著、落合信彦訳、『アメリカを葬った男―マフィア激白!ケネディ兄弟、モンロー死の真相』、光文社、1992年、ページ数不明
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  54. ^
    就任宣誓・演説
    。演説全文はwikisource:John F. Kennedy's Inaugural Addressに見ることができる。
  55. ^ 会計検査院 米国におけるタックス・ヘイブン対策税制の研究京都産業大学 米国Subpart F 税制における外国同族持株会社所得(FPHCI)の意義
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  64. ^ Document for September 22nd: Executive Order 10924: Establishment of the Peace Corps” - United States National Archives and Records Administrationアメリカ国立公文書記録管理局).2013年9月12日閲覧.
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  68. ^ スパダ、p348
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  73. ^ The Night Marilyn Sang to JFK: Rare Photos” - LIFE.TIME.comライフ画像アーカイブ)
  74. ^ 「マリリン・モンローとケネディ兄弟の貴重な写真が公に」2010年6月2日 CNN[リンク切れ]
  75. ^ ラベル 2005, p. 387/441/446.
  76. ^ 朝日新聞・1964年8月2日記事







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