イレール・ヌーランとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > イレール・ヌーランの意味・解説 

イレール・ヌーラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/01 09:32 UTC 版)

獄中のヌーラン。1937年。
獄中のヌーランとその妻。1937年。

イレール・ヌーラン(Hilaire Noulens、1894年3月24日 - 1963年3月13日)は、プロフィンテルンに所属したソビエト連邦スパイ。主に中国で活動した。本名はヤコブ・ルドニク(Jakob Rudnik)。

経歴・人物

ウクライナの労働者の家庭で生まれた。1914年キエフの商業学校を卒業し、第一次世界大戦に従軍。1917年2月、ボリシェヴィキの一員となり、十月革命では隊を率いて冬宮を攻撃した。1918年チェーカーに入り、1924年コミンテルンに移った。1925年タチアナ・モイエーセンコと結婚。

1928年春、妻とともにコミンテルンから上海に派遣された。1930年、上海に3つの貿易会社を起こした[1]

1931年6月15日太平洋労働組合書記局の書記員のとき、妻とともに上海租界の工部局警察高等課に逮捕された(ヌーラン事件)。パスポート名はスイス国籍Ya.ルージャクであったが、ほかにも複数国のパスポートを所持し、十数か所のアジトや別の名前での8つの郵便私書箱を有し、2つの事務所と商店を経営していた[2]。ヌーランの検挙により、上海を中心としてアジア各地に張り巡らされていたコミンテルンのネットワークが摘発されていった[3]

逮捕の2か月後、アルベルト・アインシュタインマクシム・ゴーリキーアグネス・スメドレー宋慶齢らが発起人に名を連ねて、ヨーロッパで「ヌーラン夫妻を守る会」が結成され、世界的な釈放運動が進められた。コミンテルン書記で国際連絡部責任者のオシップ・ピアトニツキーはみずから救出活動の陣頭指揮にあたった。宋慶齢は監獄で数回にわたってヌーランと面会し、当時4-5歳だったヌーランの息子を自宅に引き取って養育した。リヒャルト・ゾルゲはヌーラン救出のために法官を買収することを提案し、コミンテルンなどから総額10万ドルの買収費が拠出されたことが記録されている。

1932年8月19日軍事法廷死刑を宣告されたが、買収の甲斐あってか、1933年6月、大赦により終身刑に減刑された [4]

日中戦争勃発後の1937年保護観察処分となって拘留を解かれたのち、コミンテルンの手配によりソ連に帰国し、1963年に死去した[4]

脚注

[脚注の使い方]



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イレール・ヌーラン」の関連用語

イレール・ヌーランのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イレール・ヌーランのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイレール・ヌーラン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS