1240年代
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1240年代(せんにひゃくよんじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1240年から1249年までの10年間を指す十年紀。
- 1 1240年代とは
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1240年代
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詳細は「1240年代」を参照 1240年ネヴァ河畔の戦いでノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーがスウェーデン軍を破る。 モンゴルのバトゥがキエフを制圧しキエフ大公国が滅亡。この時期までにルーシ各地がモンゴルの支配下におかれる(タタールの軛)。 1240年頃神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がカステル・デル・モンテを建設。 1241年ワールシュタットの戦いでモンゴルのバトゥがドイツ・ポーランド諸侯連合軍を破る。 モヒの戦いでハンガリーが、オロモウツの戦いでモラヴィアがモンゴル軍に敗北する。 オゴデイ・カアンが死去、その第六皇后ドレゲネが摂政監国となる。 南宋の皇帝理宗が周敦頤・張載・程顥・程頤・朱熹を孔子廟に従祀する。 リューベックとハンブルクと間に商業同盟が結ばれる(ハンザ同盟の起こり)。 ラスール朝がアイユーブ朝からメッカを奪取する。 1242年四条天皇が死去。泉涌寺で葬儀が営まれ陵墓が作られる(御寺(みてら)の始まり)。 土御門上皇の皇子阿波院宮が第88代後嵯峨天皇として即位。 北条経時が鎌倉幕府第4代執権に就任。 ポワティエ伯ユーグ10世らによるフランス王ルイ9世への反乱。 チュド湖上の戦い(氷上の戦い)でノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーがドイツ騎士団を破る。 1243年クメール朝カンボジアでジャヤーヴァルマン8世が即位し廃仏政策を行う( - 1295年)。 キョセ・ダグの戦いで、モンゴル帝国がルーム・セルジューク朝に勝利する。 バトゥがヴォルガ川下流域のサライを中心に独立する(ジョチ・ウルスの成立)。 1244年藤原頼嗣が鎌倉幕府第5代将軍となる。 道元が越前永平寺を開く。 エルサレムが再びアイユーブ朝に奪回される。ラ・フォルビーの戦い。 最後のカタリ派の根拠地モンセギュールが陥落する。 1245年第1リヨン公会議。この会議の決定でプラノ・カルピニがモンゴル帝国へ派遣される。 教皇インノケンティウス4世が神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門し廃位を宣言。 フランドル女伯マルグリット2世がブルージュのベギン会修道院を創設。 ヤロスラヴの戦いで、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国がポーランド・ハンガリー連合軍に勝利。 1246年後嵯峨天皇が譲位し、第89代後深草天皇が即位。 北条時頼が鎌倉幕府第5代執権に就任。寛元の政変(宮騒動)。 摂政監国ドレゲネ召集のクリルタイでモンゴル帝国第3代皇帝グユクが即位。グユクに教皇使節プラノ・カルピニが会見する。 教皇宛に送られた「グユク・ハンの勅書(ヴァティカン図書館蔵)」はこの時のもの。 ライタ川の戦いでのオーストリア公フリードリヒ2世の戦死により、バーベンベルク家男系は断絶。 1247年宝治合戦(三浦氏の乱)。 1248年フランス国王ルイ9世による第7回十字軍。 パリ・シテ島のサント・シャペル教会が献堂される。 ケルン大聖堂が着工される(最終的な完成は1880年)。 グユク・カンが死去。グユクの皇后オグルガイミシュが摂政監国として国政を担当。 マリーン朝がフェズを都として建国される。 1249年アルガルヴェ地方のシルヴェスとファロを奪還し、ポルトガルのレコンキスタが終了。 フランス国王ルイ9世がエジプトのダミエッタを占領。
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