ふたばやま‐さだじ【双葉山定次】
双葉山定次 ふたばやま さだじ
大分生まれ。力士。昭和2年(1927)立浪部屋入門。11年(1936)前頭三枚目から連勝を続け、12年(1937)1月、第35代横綱に昇進。右四つからの上手投げは無類の強さを誇り、14年(1939)初場所まで前人未到の69連勝を記録した。幕内276勝68敗1分33休。20年(1945)11月引退、年寄時津風を襲名。32年(1957)には日本相撲協会理事長に就任し、戦後の角界の復興、改革に尽力した。
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双葉山定次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 09:19 UTC 版)
双葉山 定次[注釈 1](ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)[1]。
注釈
- ^ 「双」は「雙」の略字だが、番付では初土俵のときの誤記とおぼしき「二葉山」以外は全て「双葉山」と表記されていた。
- ^ 1933年5月場所などは4勝のうち3勝がうっちゃりによるものだった。
- ^ この場所中に祖母が死去したこともあり、悲しみを乗り越えるために猛稽古に取り組んだ成果とも取れる。
- ^ ただし、玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝(うち不戦勝1回)、その連勝の1勝目が双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、1938年12月に玉錦が急死したこともあるが、明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。
- ^ 先場所に双葉山が初めて玉錦を破ったものの地力では玉錦の方が上で、玉錦から見ればこの場所が双葉山に土を付ける最後のチャンスだったのではないかという見方もある。
- ^ 昭和以降に大関へ昇進した力士で大関在位期間が全勝だったのは双葉山のみである。なお、大正時代には栃木山守也が2場所20戦を19勝1預で横綱に昇進している。
- ^ なお、江戸時代の記録は「どの場所を本場所とするか」「分・預・無勝負・休をどのように扱うか」によって大きく変わるが、酒井は「江戸場所のみが本場所、京阪場所は除外」「分・預・無勝負・休があっても連勝は継続」と解釈した上で、過去の最多連勝記録を谷風の63連勝と認定したのである。
- ^ これが遠目には安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたため、翌日の各新聞は「安藝ノ海の右外掛け」と誤って報じた。ニュース映画を見て誤報であることは明確になったが、当時ベテラン記者だった彦山光三は「レンズと言えども正確とは言えんよ」と言って自説を譲らなかったという。
- ^ 12日目に2敗力士がいなくなり、番付上位者優勝制度のために東正横綱の双葉山の優勝が確定したものである。優勝決定戦がある現行制度に照らせば13日目での優勝決定だったことになる。
- ^ 現在でも年寄名跡継承などの点から親方の娘との結婚が見られる。
- ^ 白鵬が連続全勝優勝の記録を更新するまで大鵬幸喜(3回)、千代の富士貢・貴乃花光司・朝青龍明徳も2場所連続全勝優勝を記録した。
- ^ 屋外での開催となるため、翌年1月場所を前倒しで開催したものである。
- ^ 正確には幕下までは13尺土俵で取っている。
- ^ ちなみに時津風部屋は、現在でも「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名と共に掲げている。北葉山英俊が入門する際、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「(双葉山)『道場』ならそこだよ」と教えられたという。
- ^ のちに天龍源一郎も土俵上ではなかったが日大講堂となった旧国技館で断髪式を行っている。
- ^ 璽光尊こと長岡良子も逮捕後の精神鑑定の結果、「誇大妄想性痴呆症」と診断されて食糧管理法違反も違法なしと判断、不起訴となった。
- ^ 取り直し制度導入以降の最高勝率。ただし、白鵬は2007年7月場所から2020年3月場所現在までの横綱在位76場所で872勝125敗143休(勝率.875)で、双葉山の勝率に現在のところ迫っている。
- ^ 全勝8回は当時の最多記録。年6場所制となってからは大鵬と並んで歴代2位タイ、2020年3月場所現在の最多は白鵬の15回。
- ^ 1999年に読売新聞が『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』を連載し、双葉山を取り上げたが、取材した記者は「近親者の話が聞けなかった」ことを心残りとしている。この時点で澄子が双葉山の唯一の近親者だったが、取材申し入れに対し、澄子は「話したくない」と断った(『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』、40頁)。
- ^ 博子が生まれる前の1942年に女児(名前不明)が生まれたが、間もなく亡くなった(『宇佐学マンガシリーズ①相撲の神様 双葉山』、156頁)。また、子供は「二男一女」とする資料もあり、経治は二男で、長男(生年、名前ともに不明)は「幼くして亡くなり」と書かれてあり(『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』、40頁)、経治と博子は戸籍上はそれぞれ二男と二女になる。
- ^ 1936年5月場所〜1937年1月場所は11戦全勝、1937年5月場所〜1938年5月場所は13戦全勝。
- ^ 1939年1月場所は13日制。
- ^ 蓄膿症により全休
- ^ 脇腹疼痛により12日目から途中休場
- ^ アメーバ赤痢により7日目から途中休場
- ^ 面疔により2日目から途中休場
出典
- ^ a b c d e f g h i 『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p22
- ^ 『相撲』2012年8月号83頁の記事では、当時を知る写真館の店主である工藤明が「双葉山関も写真が大好きで、ウチへはそれこそありとあらゆる写真を撮りに来て下さった。」と証言している。
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- ^ a b "双葉山定次". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年1月16日閲覧。
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- ^ 「国技」大相撲が戦前から批判されてきた大きな矛盾 大相撲へ愛をこめて叱咤激励(4/5ページ) JBpress 2020.1.24(金)(2020年10月12日閲覧)
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- ^ スポーツ・グラフィックナンバー『熱血!名力士列伝 怪力・異能・土俵の鬼』〈文春文庫〉(原著1993-2-10)。ISBN 4-16-810821-X。
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- ^ 『プレジデント = President』1983年2月号,角界ニューリーダーが修業した「親方道」とは / 石井代蔵/p139,プレジデント社,1983-02
- ^ 石井代蔵 著『土俵の修羅』p288「双葉山の審判‐時津風部屋騒動」,新潮社,1985.11
- ^ 『股関節を動かして一生元気な体をつくる』刊行記念鼎談 内田樹(合気道)×元・一ノ矢(相撲)×安田登(能楽)――伝統文化の身体を語る 実業之日本社 2013.07.18
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- ^ 佐藤堅司 著『神武の精神』横綱双葉山の場合,弘学社,昭和19.国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ [宮崎敏明 著『細目式児童・青年相撲指導の新体系』力士の典型 双葉山定次,明治図書,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション]
- ^ 小坂秀二『わが回想の双葉山定次』(1991年9月 読売新聞社)304頁。なお、当時少年だった小坂も双葉山の右目の白い星や、彼の動き方などから右目が悪いことに気づいていたというので、実際は公然の秘密として広く知られていた可能性がある。
- ^ 『相撲』62ページから64ページ、「きちょう面で信念に徹した人」。
- ^ 工藤美代子は双葉山に関する取材を澄子に試みようと何回か手紙を出したが返事が無く、止む無く断念したという経緯を明かしている(工藤(1991)、183頁)。
- ^ 『相撲』2018年1月号126ページ
- ^ 池田雅雄の証言では、結婚するまで童貞だったという意味ではなく、一度も八百長をしなかったからそう呼ばれたのだという(工藤(1991)、166頁)。
- ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p52
- ^ a b 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p54
- ^ 【若乃花の目】ファンに最も厳しく見られる「1年最後」の九州場所 注目は貴景勝の綱とり 日刊スポーツ 2023年11月12日5時0分 (2023年11月12日閲覧)
- ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p19-21
- ^ 双葉山愛用の火鉢寄贈 弟子の内田元相撲協会理事長 宇佐の施設でお披露目式 [大分県] 西日本新聞 2018年09月02日 06時00分(西日本新聞社、2018年9月3日閲覧)
- ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 pp.128-129 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515
- ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。
- ^ 1分
- 1 双葉山定次とは
- 2 双葉山定次の概要
- 3 エピソード
- 4 主な成績
- 5 著書
- 6 脚注
双葉山定次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:34 UTC 版)
1939年1月15日、春場所4日目に双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて69連勝がストップした時の実況担当は和田信賢だったが、実況席の控えに山本もいた。双葉山が負けるという番狂わせに和田も目を疑い、「双葉山は確かに負けましたね?」と問いかけられた山本は「うむ」と唇をかみしめ悲痛な表情でうなずくのが精いっぱいだった。 この連勝ストップの大一番は、安藝ノ海が双葉山の右足に外掛けをとばしてから双葉山が右に大きく振ったので、安藝ノ海の掛けた足が外れたが、それから右足を軸にしてこらえた安藝ノ海が体を浴びせて双葉山を倒すという展開だった。ところが動転していた和田が決まり手を判断できず、とっさに山本へ実況交代を頼んだ。場内のどよめきの中で山本は、もともと双葉山は左足が弱いという印象から、「安藝ノ海の右外掛け」と判断して放送した。自席の前にいた彦山光三も「照さんやっぱり(双葉山の)左だな」と言うので見解が一致していた。そのため号外もラジオも新聞もそろって「双葉山の左足に外掛け」と報じたが、後日ニュース映画を見ると右足に掛かっていたことが判明する。山本が「一世一代の間違いが生じた」と後に振り返ったのに対し、彦山は山本からの電話でこの事実を聞いても「レンズと言えども正確とは言えんよ」として自説を曲げなかったという。 双葉山が引退し年寄・時津風を襲名してからは、山本とも懇意であり対談もすれば酒を飲む機会もあった。山本が熊本放送局放送部長だった1948年に時津風が熊本を訪れた際、「私の相撲で最も良かったのは?」と問われた山本が「13年(1938年)夏の玉錦戦」と答えた。これに対し「実はあの時の玉関はずいぶん弱っており、立ち上がった私がドンと押すと、玉関は土俵を飛び出しそうになったので、慌てて引き戻した」と時津風が答えたことに唖然とし、この熱戦を演じた双葉山の凄みを改めて感じたという。
※この「双葉山定次」の解説は、「山本照」の解説の一部です。
「双葉山定次」を含む「山本照」の記事については、「山本照」の概要を参照ください。
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