2001年宇宙の旅
原題: | 2001: A Space Odyssey |
製作国: | アメリカ |
製作年: | 1968 |
配給: | MGM配給 |
キャスト(役名) |
Keir Dullea ケア・ダレー (Bowman) |
Gary Lockwood ゲイリー・ロックウッド (Poole) |
William Sylvester ウィリアム・シルベスター (Dr. Heywood Floyd) |
Daniel Richter (Moonwacher) |
Douglas Rain ダグラス・レイン (Hal 9000) |
Leonard Rossiter レナード・ロジター (Smyslov) |
Margaret Tyzack マーガレット・タイザック (Elena) |
Robert Beatty ロバート・ビーティ (Hlvorsen) |
Sean Sullivan (Michaels) |
Frank Miller フランク・ミラー (Mission Controller) |
解説 |
科学小説作家アーサー・C・クラークと「博士の異常な愛情」のスタンリー・キューブリックが製作・監督したSF。撮影は「オセロ」のジョフリー・アンスワース、補助撮影はジョン・オルコットが担当した。なお、特殊撮影効果のすべてはキューブリックの考案、監督のもとに行われた。セットの製作デザインはトニー・マスターズ、ハリー・ラング、アーネスト・アーチャーの3人を中心にデザイナーと製図工35人が動員された。特殊効果監督には、ウォリー・ビーヴァーズ、ダブラス・トランブル、コン・ペダーソン、トム・ハワード、の3人があたり衣裳は、ハーディ・エイミーズが担当した。そして、この映画を科学技術的に正確にするため、キューブリック監督はアメリカ航空宇宙局の多くの科学者、アメリカおよびイギリスの主要な科学研究所や大学と密接な提携をし、撮影中は、3人の一流科学者が技術顧問としてつき添った。それはもと陸軍弾道ミサイル部のフレドリック・J・オーダウェイとハリー・H・C・レンジ、元航空宇宙局の宇宙飛行センター勤務で、今はアラバマ州ハンツビルのジェネラル宇宙飛行研究会社のジョー・C・ジマーシャルである。出演は「女狐」のキア・デュリア、TVや「ヤング・ヤング・パレード」のゲイリー・ロックウッド、「BM15必死の潜行」のウィリアム・シルヴェスター、「キッスは殺しのサイン」のレナード・ロシター、「BM15必死の潜行」のマーガレット・タイザック、コンピューターに扮するダグラス・レインである。 |
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
旅客用宇宙飛行機オリオン号がケープケネディ空港から月に向かって飛び立った。旅客の中にはフロイド博士(ウィリアム・シルベスター)がいる。彼は最近月面で発見された謎の物体について専門技術家、学者たちが月の基地で開く会議に出席するのである。約1時間後、第5宇宙ステーションに到着した。やがてフロイド博士は月宇宙船エアリーズ号に乗りかえ、2日後に月世界に到着。月の基地では謎の物体をめぐる議論に花がさき、博士は物体をこの目で確かめるため、数人の科学者とともに、月の1キロほど上空を飛ぶ月バスに乗り、問題の場所、テイショ火口に行った。現地では石碑のような物体が発掘され、木星に向かって強烈な放射能を発射していた。この事件は、地球人が、ほかの惑星の何者かから挑戦を受けた、最初の出来事である。この事件を調査するため、科学者たちは、原子力宇宙船ディスカバリー号で木星へ向かって旅立った。宇宙船を操縦していたプール飛行士(ゲイリー・ロックウッド)とボウマン隊長(キア・デュリア)は、コンピューターからのただならぬ注意信号を受信した。2時間半後に原子力宇宙船に故障が起こる、というのだ。プール飛行士は宇宙カーに乗りこみ、アンテナを取り替えた。ところが、コンピューターはまたもや次の故障が起こると予言してきた。プール飛行士は再び宇宙カーに乗りアンテナ取り替え作業を始めたが、こんどは彼自身に事故が起こり、宇宙服の命綱が切れて暗黒の宇宙空間に放り出された。ボウマンは、もう1隻の宇宙カーに乗り、プール飛行士を助けに行ったが、宇宙カーが自由に動かない。やっと接近したものの、マジック・ハンドの装置がいうことをきかず、プール飛行士を助けることはできなかった。急いで母船に帰ろうとしたボウマンが格納庫に近づくと、急にドアが閉まり、中に入れないばかりか、宇宙船の内部では人工冬眠のカプセルにも故障が起こり、冬眠中の科学者が次々と死んでいった。一体、このような事故は何故起きたのだろう? すべての原因はコンピューターが人間を支配しはじめたのである。ボウマンはコンピューターを壊した。そして再び人間が指導権をとった。果てしなく広がる宇宙空間。人間が完全に支配する日も、そんなに遠くはないだろう。 |
2001年宇宙の旅
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『2001年宇宙の旅』(にせんいちねんうちゅうのたび、原題:2001: A Space Odyssey)は、1968年の叙事詩的SF映画。 製作・監督はスタンリー・キューブリック、脚本はキューブリックとアーサー・C・クラーク。
注釈
- ^ 骨から直結されたのが、パンアメリカン航空(PAN AM)のマークをつけた宇宙船と勘違いされることがあるが、パンナム便は最初の宇宙船の後で出てくるので、骨と直接つながってはいない。
- ^ 続編の映画『2010年』冒頭によると、月のモノリス発見が1999年、ディスカバリー号内の出来事が2001年の出来事とされている。
- ^ 日本語字幕では「吸盤靴」と翻訳されている他、「磁力靴」とされている場合もある。
- ^ 現実世界では2001年以前の1991年に破産している。
- ^ 公開当時は「ケア・ダレー」と表記されていた。※どこで?
- ^ キューブリック監督の実の娘。
- ^ 公開当時は「カブリック」の表記だった。のちに「クブリック」となり、更に現在の「キューブリック」に落ち着いた。
- ^ それでもディスカバリー号の食事シーンで映るタブレットPC"Tele Pad"にはIBMのロゴが残っている
- ^ 結果的に2001年前に同社が何らかの憂き目によって、社名の変更や倒産した場合、途端に時代遅れの作品というリスクを避けられた。
- ^ 同じく1993年発売で冒頭曲「ファンファーレ」を収録したエリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス・オーケストラによるテラーク・レーベルのアルバム「ハリウッド・グレイテスト・ヒッツ Vol.II(CD-80319,1992年12月録音)」の解説ではノースの未亡人から譲り受けたスコアを演奏に用いたという記述がある。
- ^ なお、ノースが本作のために書いたスコアは1968年の『栄光の座』、1974年の"Shanks"、1981年の『ドラゴンスレイヤー』に部分的ながら転用された。この3作はいずれもアカデミー作曲賞にノミネートされている。
- ^ フランク・ボーマン(Frank Borman)とデヴィッド・ボーマン(David Bowman)では若干スペルが異なる。
- ^ カラヤンの『ツァラトゥストラはかく語りき』セッション録音は3種あり、ベルリン・フィル版はいずれも映画の公開より後である。(1) ウィーン・フィル(英デッカ・レコード、1959年3月(32'45"))、(2) ベルリン・フィル(ドイツ・グラモフォン、1973年1月・3月(34'54"))(3) ベルリン・フィル(ドイツ・グラモフォン、1983年9月(35'57"))
- ^ a b 日本語のライナーノートでは「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」と誤記されている。
- ^ 10月8日から11日までを除く
出典
- ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)251頁
- ^ a b “2001年宇宙の旅[吹替補完版]”. 2016年10月28日閲覧。
- ^ Baxter, John (1997). Stanley Kubrick: A Biography. New York: Basic Books. p. 200. ISBN 0-7867-0485-3
- ^ 1988年キネマ旬報社刊『キューブリック好き!』より。
- ^ マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.73-74
- ^ マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.78
- ^ マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.80-89
- ^ マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.111、115、133-134
- ^ 海洋堂の「ディスカバリー号」プロップ再現モデル、受注受付開始 - GAME Watch
- ^ 2001:キューブリック、クラーク ISBN 9784152098269
- ^ “2001: A Space Odyssey: Special Edition #60 (1968) (Uncut)”. LaserDisc Database. 2015年11月9日閲覧。
- ^ 指揮:ジェリー・ゴールドスミス、演奏:ナショナル・フィルハーモニー・オーケストラ。
- ^ Music for 2001: A Space Odyssey (The Original Score by Alex North) - オールミュージック. 2015年11月9日閲覧。
- ^ シネマトゥデイの記事[1]
- ^ ワーナー ブラザース ジャパンの公式サイト[2]
- ^ ハヤカワ文庫SF旧版(SF243)17章 p. 123より「その背後の長いすらりとしたVの字は、原子炉の余剰熱を消散させる放射翼。(略)最大の推力で加速していたときにはサクランボウ色に輝いていた巨大な放射翼も、今では黒く冷たい」、29章 p. 191より「数千平方フィートの放射翼」
- ^ 『S-Fマガジン』1980年10月号の「スタジオぬえのスターシップ・ライブラリー」、『スタジオぬえメカニックデザインブック』では p.177
- ^ 2001: A Space Odyssey - オールミュージック. 2015年11月9日閲覧。
- ^ “「2001年宇宙の旅」オリジナル・サウンドトラック (東芝EMI): 1999”. 国立国会図書館. 2015年11月9日閲覧。
- ^ “製作50周年記念 『2001年宇宙の旅』70mm版特別上映 | 国立映画アーカイブ”. www.nfaj.go.jp. 2018年9月3日閲覧。
- ^ “映写技師の奮闘に拍手巻き起こる!「2001年宇宙の旅」70ミリ版上映がスタート”. 映画.com 2018年10月19日閲覧。
- ^ “「2001年宇宙の旅」70ミリ版、全回満席で終了 10月19日からIMAX劇場上映スタート”. 映画.com 2018年10月19日閲覧。
- ^ https://www.nytimes.com/2018/05/11/movies/2001-a-space-odyssey-christopher-nolan-cannes.html
- ^ “「2001年宇宙の旅」がUHD BD化。BDもリマスター。2週間限定でIMAX上映も”. AV Watch 2018年10月19日閲覧。
2001年宇宙の旅
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「ジャンプカット」の記事における「2001年宇宙の旅」の解説
太古の昔、ヒトザルが武器とする獣骨が宙を舞い、次の瞬間、それが棒形の軍事衛星に替わる。宇宙時代に達してもなお争いを繰り返す人類の未熟さを象徴するこの有名なシーンは、俗に「映画史上最大のジャンプカット」などと呼ばれることがある。しかし類似のイメージを繋ぐこの手法は、正しくはマッチカットである。
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2001年宇宙の旅
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「HAL 9000」の記事における「2001年宇宙の旅」の解説
映画版では1992年1月12日(クラークによる小説版では1997年同日)、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校のあるイリノイ州アーバナのHAL研究所(HAL Laboratories、小説の邦訳では「HAL工場」)にて、同型機の3号機として稼動状態に入ったとされている。開発者はシバサブラマニアン・チャンドラセガランピライ(通称:チャンドラ博士)。 木星探査(小説版では土星探査)のための宇宙船ディスカバリー号に搭載され、船内すべての制御をおこなっていた。チューリング・テストをクリアする程の高度なコンピュータである。人間と普通に会話でコミュニケーションを行い、ディスカバリー号の乗員が彼の異常について密談した際は窓越しに読唇術で会話を読み取る離れ業を行っている。姉妹機にSAL 9000 がある。 探査ミッション遂行のため、HAL 9000は乗員と話し合い協力するよう命令されていた。しかし一方で、密かに与えられたモノリス探査の任務について、ディスカバリー号の乗員に話さず隠せという命令も受けていた。『2001年宇宙の旅』では、これら2つの指示の矛盾に耐えきれず異常をきたし、ユニットの間違った故障予知をはじめるなど奇妙な言動が起こり、最後には自分を停止させようとする乗員を排除しようとしたと考えられている。乗員が(死んで)いなくなれば永遠に話さずに済む。ミッションは自分だけで遂行すればいいとHAL 9000は考えたことから、「コンピュータの反乱」の象徴ともなっている。 このために地球との交信アンテナを制御していたAE35ユニット故障の誤情報を出し、修理の為に船外に出た乗員フランク・プールを遭難させ、冷凍冬眠状態の3人の乗員の生命維持装置を切って殺害した。さらにデビッド・ボーマン船長の排除も企てるが失敗、ボーマンによって自律機能を停止された。ボーマンがHAL 9000のモジュールを次々引き抜くなか、HAL 9000は「怖い」「やめてほしい」と訴えながら次第に意識を混濁させ、1992年にHAL研究所でチャンドラ博士によって開発されたこと、最初の先生が『デイジー・ベル』の歌を教えてくれたことなど稼働初期の記憶のおうむ返しを始め、『デイジー・ベル』を歌いながら機能停止した。 ボーマンが巨大モノリスの調査中に消息を絶った後、ディスカバリー号と共に10年近く木星付近に放置されることになる。
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2001年宇宙の旅
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「アーサー・C・クラーク」の記事における「2001年宇宙の旅」の解説
詳細は「2001年宇宙の旅」を参照 クラークはスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』で映画と関わるようになった。2人は1964年、ニューヨークで会い映画製作で協力する可能性について話し合った。その過程でクラークの短編「前哨」(1948) を元にした物語とすることが決まった。元々はクラーク自身が脚本を書くことになっていたが、キューブリックがブレインストーミングの中で、まずイマジネーションを自由に羽ばたかせるために小説を書き、それに基づいて映画を作ってはどうかと提案した。クラークは後に「そういう形で始まったが、最終的には小説と脚本は同時進行で相互にフィードバックする形で進められた。だから私は映画の試写を見た後にいくつかの章を書き直した。創作技法としては苦労が多いもので、これを楽しめる作家は滅多にいないだろう」と述べている。すなわち「映画原作本」「映画のノベライゼーション」といった関係ではない。映画の劇場公開は1968年4月であり、小説の出版は同年7月である。 最高のSF映画として全世界で高く評価されており、日本の旧文部省が「特選」に指定した唯一のSF映画でもある。 映画製作の忙しいスケジュールの合間を縫ってキューブリックとクラークが小説について協力するのは難しかった。クラークは1964年末に小説の草稿を完成させ、1966年に予定されていた映画公開にさきがけて1965年に小説を出版する予定だった。しかし映画の公開は1968年にまで延び、小説もその後に完成した。小説の作者としてはクラークだけが記された。後にクラークは、キューブリックがクラークの作者としての影響を軽く見せかけるために状況を操作し、小説の出版が後になることで映画のノヴェライゼーションであるかのように見せかけたと不満を述べている。様々な理由から物語の詳細は小説と映画では異なっている。映画には個々の事象についてほとんど説明がない。一方クラークは小説版で全ての事象について因果関係を完全に説明している。ジェームズ・ランディが後に述べたところによると、映画の最初の試写の際に宇宙飛行士が11分間延々とジョギングしているシーン(公開版ではカットされている)を見た後の休憩時間にクラークが目に涙を浮かべて試写室を後にしたという。このシーンはキューブリックのアイデアで、宇宙旅行がいかに退屈なものかを示したのだという。 1972年、クラークはエッセイ『失われた宇宙の旅2001』で映画作成時の状況について詳しく説明し、主なシーンの別バージョンについても説明している。1999年に出版された A Space Odyssey の特別版にはクラークによる小説と映画のリリースまでの経緯を詳細に記した文章が序文として掲載された。
※この「2001年宇宙の旅」の解説は、「アーサー・C・クラーク」の解説の一部です。
「2001年宇宙の旅」を含む「アーサー・C・クラーク」の記事については、「アーサー・C・クラーク」の概要を参照ください。
2001年宇宙の旅
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「ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)」の記事における「2001年宇宙の旅」の解説
映画『2001年宇宙の旅』中の、猿が他の群れの相手を棒で殴って殺す場面で第1部「導入部」が使われていることは非常によく知られている。冒頭シーンを模倣し、日食などの天体現象を図案化したデザインがレコード・CDジャケットで多用されるほど、この映画が楽曲に与えた影響は強い。使用された演奏は、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるデッカ盤だった。ウィーン・フィルとの共演を望み、デッカの録音技術に惚れ込んでいたというカラヤンが、それまで専属だったEMIと並行する形で契約した最初の録音である(ウィーン・フィルがデッカ専属だったため。また同時期にドイツ・グラモフォンとの録音も本格的に開始している)。映画で使用された冒頭部最後のパイプオルガンの和音は、録音会場となったウィーンのゾフィエンザールにオルガンが無かったため、郊外の小さな教会で収録しミキシングされた。キューブリック監督からの使用申請に対し、デッカの経営陣が指揮者・演奏団体を表記しないことを条件にしたため、映画が成功すると競合他社も争うようにこの曲のレコードを発売し、デッカは大変な損失を被った。カラヤンもデッカと製作会社MGMの告訴を検討したほどであった。最初に発売されたサウンドトラック盤にも、映画とはまったく違うカール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の録音が収録されていた(そのため、この演奏が映画でも用いられているという誤情報も一部流布した)が、最新のサウンドトラックCD (EMI) にはカラヤン指揮のデッカ録音があらためて収録されている。 上記場面のパロディとして作られた『メル・ブルックス/珍説世界史PARTI』の該当シーンにも当然のように使われていた。
※この「2001年宇宙の旅」の解説は、「ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)」の解説の一部です。
「2001年宇宙の旅」を含む「ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)」の記事については、「ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
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