龍ヶ崎の撞舞とは? わかりやすく解説

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龍ヶ崎の撞舞

名称: 龍ヶ崎の撞舞
ふりがな りゅうがさきのつくまい
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 撞舞保存会
選択年月日 1999.12.03(平成11.12.03)
都道府県(列記): 茨城県
市区町村(列記): 龍ヶ崎市
代表都道府県 茨城県
備考
解説文:  龍ヶ崎の撞舞は、高い登りさまざまな曲芸的所作演じ芸能で、毎年七月二十五日ら行われる八坂神社祗園祭最終日二十七日に、市内根町【ねまち】大通りにある八坂神社仮宮前の所定の場所で行われる芸能であり、地元では雨乞いの意味をもつと伝えている。
 その起源定かではないが、使用される面に安政二年(一八五五)の記載があることから、少なくとも一九世紀前半以前にはさかのぼると思われる祭礼期日は、古く旧暦六月二十八日二十九日であったが、明治四十年より七月二十五日二十六日となり、さらに大正十年ころより現在のとなった
 撞舞が行われるツクバシラ(つく)は、二間四方据えられ八間丸柱で、巻いての上白木綿・紺木綿覆い白布縛り先端横木をつけその上に桟俵さんだわら一〇〇個で作った円座【えんざ】を載せ横木には轡【くつわ】二個と麻の房を垂らしており、全体として竜に見立てているといわれる
 当日夕刻、舞男【まいおとこ】と称する舞の演じ手は、つく近くにある宿【かえるやど】で、唐草模様筒袖襦袢裁着袴【たつつけばかま】の衣装と、後ろに「ウロコ」と呼ばれる布を垂らした雨蛙被り物被り準備整え世話役先導され八坂神社仮宮に赴き、お祓いを受け御神酒いただき弓矢神主より手渡され戻り笛・太鼓奏される囃子につれてつく登る途中で逆さまになるなどの芸を見せながら頂上達すると、円座の上立ち上がり四方払い」と称して東西南北に矢を射るその後頂上逆立ちをしたり、横木仰向け寝たり、つくから張られた白綱に移ってさまざまな軽業演じ、つく戻り頭を下にして滑り降りる。これら一連の軽業の姿は、室町から近世初頭見世物として流行した蜘蛛舞くもまい】」という曲芸近似しており、それらが祇園祭礼と結びついて伝承されたことをうかがわせる
 以上のように龍ヶ崎の撞舞は、かつて流行した曲芸地元祇園祭礼と結びついて独自に伝承されてきた伝承であり、芸能変遷過程を知るうえで重要である。
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龍ヶ崎の撞舞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/08 23:49 UTC 版)

龍ヶ崎の撞舞(りゅうがさきのつくまい)は、茨城県龍ケ崎市上町に鎮座する八坂神社祇園祭の最終日に斎行される神事である。1999年平成11年)に選択無形民俗文化財に選ばれ、2010年(平成22年)茨城県の無形民俗文化財に指定された。

毎年7月下旬に3日間に渡って斎行される八坂神社祇園祭の最終日に、市内根町の撞舞通りに設置された八坂神社仮宮前で行われる神事で神楽の一種である。雨乞い五穀豊穣、無病息災を祈願している[1]

概要

撞舞が行われるつく柱は約15メートルほどの丸柱で、先端に横木を付けその上に円座が載っている。舞男と呼ばれるの演じ手は、唐草模様筒袖襦袢に裁着袴の衣装雨蛙の被り物をかぶり、囃子に合わせて曲芸を演じながらつく柱を登る。頂上に達すると円座の上に立ち四方に向かってを放つ。その後逆立ちをしたり仰向けに寝たり、つく柱から張られた白綱に移ってさまざまな軽業を披露し、最後に頭を下にして斜めに張った綱を滑り降りる。以上の一連の軽業は、室町から近世初頭に見世物として流行した「蜘蛛舞」という曲芸に近似しており、それらが祇園祭礼と結びついたとも考えられている[2]

つく柱(撞柱)

四方の櫓に据えられた八間の杉の丸柱。つく柱はを表しているとも言われ、東側が紺の木綿布(龍の背中)、西側は白の木綿布(龍の腹)により覆われている。柱の頂上には横木が組まれており、北側には轡、南側には馬の尾と言われる紺染の麻糸の房が垂らされている。横木の上には直径120センチ、高さ85センチほどのサンダワラを120枚重ねて作られた円座が置かれており、白布で覆われている[3]

舞男

舞の演じ手である舞男は、つく柱近くにある蛙宿にて唐草模様の筒袖襦袢に裁着袴の衣装を纏う。また、顔の前に赤い布を垂らし、後ろには様々な色の紙を貼り付け鱗に見立てた白い布を垂らした雨蛙の被り物を被り準備を整える。その後、八坂神社仮宮に赴き、神主よりお祓い御神酒を受けた後に弓矢を神主より手渡され、櫓に戻った後にお囃子に合わせて、つく柱に登る[2]。 雨蛙の面については龍ヶ崎に伝わる『雨蛙のフク伝説』と関係があると考えられている。「フクはかつて、龍ケ崎に住んでいて洪水のときには水をのみ込み、日照りの時には水を吐き出して雨を降らせ、農民を助けた」という伝説である[4]

歴史

詳しい起源は不明である。年代の記された資料としては1792年寛政4年)の『天王社祭礼式記帳』という古文書に「上町半助」という舞男の装飾に関する記述が確認されており、舞男が被った古い面に「天王町安政2年(1855)乙卯6月吉日 上辻中下組」と記された二点が確認されている。 また、八坂神社は同市の上町に在るが、龍ケ崎城主の土岐胤倫により1568年永禄11年)あるいは1577年天正5年)に遷座される前は祇園祭の際に御仮屋が置かれる根町に有ったと推定されることから、その頃から行われていたのではないかとも伝えられる[3][5]

脚注

  1. ^ 伝統芸能「撞舞」 (国選択・県指定無形民俗文化財)”. 龍ケ崎市 (2022年6月13日). 2022年7月12日閲覧。
  2. ^ a b 龍ヶ崎の撞舞 - 国指定文化財等データベース(文化庁)2022年7月12日閲覧。
  3. ^ a b 撞舞”. 龍ケ崎市歴史民俗資料館 (2022年6月4日). 2022年7月12日閲覧。
  4. ^ 龍ケ崎の撞舞”. NPO法人日本伝統文化振興機構. 2022年7月12日閲覧。
  5. ^ 八坂神社 由緒”. 八坂神社 (2022年7月12日). 2022年7月12日閲覧。

参考文献

外部リンク





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