黄海の戦いとは? わかりやすく解説

黄海の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/28 07:31 UTC 版)

黄海の戦い(きのみのたたかい)は、1057年天喜5年)11月陸奥国・黄海で行われた前九年の役における合戦である。




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黄海の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)

源頼義」の記事における「黄海の戦い」の解説

詳細は「黄海の戦い」を参照 頼時討伐勲功出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1800程を率いて安倍軍の籠る河崎柵へ進軍した対す貞任精兵4000率いて黄海(きのみ)にて迎撃試みた(黄海の戦い)。慣れない土地柄の上折から風雪慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に安倍軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗喫した将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家活躍九死に一生得たとされる。この時の義家活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、安倍軍も懼れ散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子義家獅子奮迅の活躍窮地脱したものの敗走する頼義に従うものは義家含め藤原景通大宅光任、清原貞広、藤原範季藤原則明の僅か6騎で、30年来の忠臣であった佐伯経範はじめとして藤原景季和気致輔、紀為清などの多く家人をこの戦いで失う大打撃受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人藤原茂頼は「将軍討死」の報を受けて大い悲しみ出家して頼義の遺体探す最中生存していた頼義と再会している。

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黄海の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:37 UTC 版)

前九年の役」の記事における「黄海の戦い」の解説

詳細は「黄海の戦い」を参照 頼義は同年9月朝廷頼時戦死報告するも、論功行賞を受けることができなかった。11月、頼義は再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃した。この時の頼義の兵力最大見積もって国衙の兵2,000程度と、傘下武士500名ほどであった推測されている。 安倍軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000名ほどの兵力集め黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した冬期遠征疲弊し補給物資乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝国府軍は佐伯経範藤原景季らが戦死し、頼義自身長男義家を含む七騎でからくも戦線離脱した

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