鹿内春雄とは?

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鹿内春雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/05/25 02:14 UTC 版)

鹿内 春雄(しかない はるお、1945年5月15日 - 1988年4月16日)は、フジサンケイグループコミュニケーション会議議長。北海道出身。初代議長である鹿内信隆の長男として生まれる。14歳までは信英という名前だったが、15歳のときに春雄と改名(その理由に母の帰依していた霊能祈祷師の影響があったと言われる)。妻の美津子(頼近美津子)は元NHKアナウンサー。姉は女優奈月ひろ子(旧姓・鹿内)。姪(姉・ひろ子の娘)は現フジテレビプロデューサーの鹿内植鹿内宏明は義弟(妹・厚子の夫)。愛称は「議長」。

目次

来歴・人物

生い立ち

フジサンケイグループ総帥の後継者として期待する両親の元で、反発しつつも屈折した学生時代を送る。慶應義塾高等学校を落第しアメリカへ留学ボストン大学に入学するも中退する。

フジサンケイグループへ

帰国後、経団連植村甲午郎会長秘書ニッポン放送勤務等を経て、1977年産経新聞社取締役。1986年に代表取締役会長、フジサンケイグループコミュニケーション会議議長に就任。

「FCG構想」

1985年に「FCG構想」を発表し、フジサンケイグループの統一シンボル『目玉マーク』の制定、テレビ放送の高品位化、産経新聞の紙面カラー化とタイトル刷新などメディア改革を行う。

父親である信隆が進めた「正論」路線は継承するものの、「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「夢工場」や映画『ビルマの竪琴』『南極物語』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。

黄金期

これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を日枝久などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離していた。制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。このとき組合書記長だった日枝久や横澤彪など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。

そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し外部委託だった制作部門を左遷させた社員とともに、フジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。また組合員の復権も行い実力があれば重用する人事も行った。その後の躍進に功績があった人物を後継者におき日枝久も40代であったが役員に抜擢した。

こうした実力主義による改革はフジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる。

早すぎた死

若々しく甘いマスクでグループの指揮をふるう姿は、フジサンケイグループ社員のみならず社外からも支持を集めた。だがその復興のさなかの1988年4月16日、肝炎の発症等により42歳の若さで急逝。

エピソード

  • 八木亜希子元フジテレビアナウンサーのフジテレビ入社最終面接で、“ミュージカルが得意”と履歴書に書かれていた文言に目を付け、その場で実際に踊らせた。
  • 頼近美津子との交際が噂されている当時、フジテレビ社内では「頼近と結婚するか」を賭けてトトカルチョがおこなわれたが、結婚しない方に賭ける人が一人も現れずに賭けは不成立になった。なお、結婚式は横澤彪が演出を務めた。
  • 学生時代より肺結核や肝臓に障害等、健康を害していたが、祈祷師を信仰する実母が、近代医学の治療を受けさせなかったのが遠因のひとつといわれる。実母の漢方薬への執着は異常なほどであったようで、春雄が若き頃に肝炎を発症した際、医者にろくろく診察させず漢方薬のみに頼っていた、という話がある。また、春雄の死後、信隆が入院した際も、漢方薬があれば治る、と思い込んでいたらしい。
  • 死後に「鹿内春雄遺稿集」が社員全員に配られた。
  • いわゆる「ジュニア」であり、フジサンケイグループ各社への要職に就いた時期もリストラの最中に行われたという「七光り」振りであったが、経営手腕は上記の如く信隆とはまた異なる評価を得る事になった。
  • 経営方針など信隆とは異なるところもあったが、春雄自身は信隆を大いに尊敬しており、「尊敬できる人物は親父だけ」、「日本のUHFテレビを作ったのは親父」と公言していた。
  • リオデジャネイロを観光した際、豪華ヨットでサンバショーを体験した。後年、大成功したイベントであるコミュニケーションカーニバル 夢工場'87の発想はこの時に生まれたものであると語っている。

映画作品

外部リンク

先代:
浅野賢澄1982年1985年
フジテレビ会長
第3代(1985年~1988年
次代:
鹿内宏明(1988年~1992年




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