魏晋南北朝時代
魏晋南北朝
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244年、三国時代の魏の部将、毌丘倹は高句麗を攻め、丸都を蹂躙した。魏は259年に再び攻めたが敗けた。『三国史記』によれば中川王は精鋭騎兵5,000で魏軍を攻め、8,000人を斬ったという。同時代の遼東公孫氏の公孫度は高句麗を討伐して遼東政権を築いたことで知られる。 高句麗がその支配を遼東にまで広げると、313年に最後の漢四郡である楽浪郡を美川王が支配して朝鮮半島の北部を手に入れた。これにより400年続いた中国の朝鮮半島の支配を終わらせた。 342年冬、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に丸都を落され、臣従した。前燕は扶餘も346年に攻撃し、朝鮮半島への移動を誘発している。355年には前燕から征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に冊封された。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従した。385年、故国壌王が前燕の後継である後燕を攻撃した。400年、後燕は好太王の高句麗を攻撃したが敗けた。402年、好太王は後燕の都龍城の近くの宿軍城を陥落させた。405年と406年、後燕軍は高句麗の遼東城と木底城を攻撃したが、いずれも敗けた。好太王が遼東全体を支配したことにより、高句麗は古朝鮮の領土を支配したという。遼東の支配は7世紀まで及んだ。
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魏晋南北朝
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後漢末の戦乱以降は貨幣の品質が急落し、魏晋南北朝時代を通じて国家による貨幣の発行は減って私鋳銭や変造銭が増えた。三国時代の三国鼎立によって貨幣は地域別に発行され、それ以降の地域的分裂の原因となった。この時代に重量基準に代わる貨幣単位として文・陌・貫が成立したと考えられている。各政権がさまざまな基準の硬貨を発行したために、重量によって硬貨の価値を計らなくなり、硬貨の枚数もしくは一定数量を1組とした銭さし(銭繦/銭貫)の数で計算するようになった。魏・西晋ののちに枚数の単位として文が使われ、北朝では1000文=1貫、南朝では100文=1貫となった。さらに、100枚未満の銭さしを100文の価値があるとみなす短陌の習慣も定着した。重量が貨幣単位でなくなる現象は貨幣名にも影響し、成漢は中国史上初の年号銭である漢興銭を発行した。この時代には以下のような貨幣が使われた。 金貨・銀貨:南北朝時代の北魏では金貨・銀貨が流通した。黄金1斤=10万銭にあたる。ペルシアからの金も流入したとされる。また、この時代に金の単位は斤から両へと替わっていった。 銅貨:三国時代の魏では、一時期は布帛が普及したのちに五銖銭を発行した。呉は大泉五百などの大型の銅貨を発行した。蜀は五銖銭のほかに直百五銖などを発行した。南北朝時代に入ると北魏は大型の銭を発行し、五銖銭10枚分として通用させた。銅不足が厳しくなったため、南朝宋では二銖銭も発行された。 鉄貨・鉛貨:南朝梁の武帝は青銅でなく鉄貨の五銖銭を発行して、銭100枚の重さを1斤2両(432銖)と定めたがインフレーションが起き、南朝梁の経済は崩壊した。 物品貨幣:布帛・穀物・塩など。五銖銭の発行が再開するが銅不足は解消されず、物品貨幣である布帛・穀物・塩の流通が盛んとなった。やがて鉄片、裁断した革、重ねた紙なども貨幣として流通した。 国家では五銖銭の発行や大型銭の発行などを行ったが、貨幣の価値設定は失敗に終わり、唐の開元通宝の発行まで貨幣の混乱は続いた。 魏晋南北朝時代の貿易と貨幣 青銅貨のなかには貿易で国外に運ばれたものがあり、青銅器の原料としても使われた。『魏志倭人伝』の一支国の首都とされる原の辻遺跡では副葬品ではない五銖銭が出土しており、原の辻遺跡は港をもつ交易地であることから、交易で貨幣として流通していたとする説もある。方孔銭の形状は、運ばれた各地の貨幣に影響を与えた。
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魏晋南北朝
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呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。また、呉は山越の征伐をたびたび実施し、漢族の支配領域を広めていき、南朝のさきがけとなる。 三国時代には会稽郡に始寧県・永康県が新設された。257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、266年(宝鼎元年)には諸曁・剡両県以南に東陽郡を設置した。 魏志倭人伝において邪馬台国の位置を示す記述の中で会稽の名が出てくる。そこでは、邪馬台国は「其の位置は会稽、東冶の正に東」と記されている。 晋代になると会稽郡の管轄県は山陰・上虞・余姚・句章・鄞・鄮・始寧・剡・諸曁・永興(266年に余曁県より改称)の10県となり、現在の紹興市・寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯となった。 東晋以降も晋制が沿襲名されたが、南朝梁・陳では会稽郡東部に揚州(587年に呉州と改称)が一時的に設置されている。 東晋の書家の王羲之・南朝宋の詩人の謝霊運などがこの地に移住した。謝霊運は、詩作に励んだのみでなく、この地域の農地開発にもつとめた。
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