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高望山大造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/23 06:25 UTC 版)
| 本来の表記は「髙望山大造」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
高望山 大造(こうぼうやま だいぞう、1957年8月15日 -)は、宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)出身の元大相撲力士。1973年から1990年まで、高嶋部屋と熊ヶ谷部屋に所属して活躍した。本名は蓬田 光吉(よもぎだ こうきち)。最高位は西関脇(1984年1月場所)。現役時代の体格は179cm、142kg。得意手は押し、もろ差し、寄り。
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来歴
肉牛を飼育する農家の三男として生まれた。蓬田兄弟は全員運動神経に長けていて、長兄と弟は相撲が、次兄はバレーボールが得意であった。築館中学校に入学してから本格的に相撲を始め、中学時代は2年連続して全国中学相撲選手権大会の宮城県予選の個人戦で優勝という実績を残した。2年生の時に高嶋親方(元大関・三根山)の勧誘を受けたが、その時点では高校への進学を希望していたために断っている。中学卒業前、再び勧誘された時はその熱意に押し切られ、高校進学を諦めて角界入りを決意した。
1973年春、上京して高嶋部屋に入門し、同年3月場所で初土俵を踏んだ。この年は、中学生の入門が禁止されてから初めて3月卒業見込みの者を入門させることが許可された年であったので、同期生が多かった。その中には、同じ一門(立浪・伊勢ヶ濱連合)である宮城野部屋の後の前頭・竹葉山(現・宮城野親方)もいた。
必ずしも出世は早いほうではなかったが、23歳で迎えた1981年5月場所にて、新十両昇進を果たした。この時点で竹葉山は既に十両を経験していたが、同場所では幕下に在位していたので、ここで追い抜いたことになる。十両は3場所連続勝ち越しで通過して、同年11月、24歳で新入幕。大受以来、高嶋部屋からの久し振りの幕内力士として期待された。しかし、師匠が健康を害して部屋経営を断念したため、1982年11月場所から同部屋の所属力士(高望山を含め2名)は同門の熊ヶ谷部屋(師匠は、高嶋親方の現役時代の弟弟子・芳野嶺(元前頭8枚目))に移籍した。
師匠から徹底した押し相撲を仕込まれた甲斐があり、出足の速さは当時の相撲界では際立っていた。押し相撲だが、両差しで一気の速攻も冴えた。新しいタイプの技能派力士と言われ、親方の教えが1982年7月場所と翌年11月場所における技能賞受賞にも繋がっている。不成績や右足首の怪我により新入幕の後に2度十両に陥落したが、いずれもすぐに番付を戻し、3度目の入幕を果たした1983年3月場所からは幕内に定着。1990年1月場所まで42場所連続して幕内の座を維持した。1984年1月場所では、最高位となる西関脇に昇進している。しかし、出足の後の攻めにやや力強さを欠いたため、幕内上位では二桁黒星を喫することが多く上位や三役に定着するには至らなかった。横綱戦では17戦全敗と、結局1度も勝つことはできなかった。大関戦でも2勝35敗と苦戦した(なお、2勝は朝潮と北天佑から)。故郷である栗原郡築館町では、高望山が勝利した日には花火を打ち上げて町民に知らせていた(勝ち越しが決まった時は花火は2発打ち上げられた)。
現役晩年は十両に下がり、西十両11枚目に在位した1990年11月場所中、成績不振で幕下陥落が見えてきたところで引退を決意する。
引退後は年寄・高島を襲名して熊ヶ谷部屋付きの親方となったが、1993年5月に同部屋から独立して高島部屋を再興した。しかし関取を輩出することはかなわず、2011年6月17日に所属力士が0人になったために高島部屋は消滅し、高島は同門の春日山部屋に転属となった[1]。
その他
- 初土俵が同期だった竹葉山とは、互いに引退後も同じ立浪一門所属の親方として交流が続いている。元々は高島部屋に入門する予定だったモンゴル出身の龍皇は、その時点で同部屋にモンゴル出身力士の旭天鵬(大島部屋)の弟である不動山が在籍していたため、「外国人2人の面倒を見るのは大変だから、親方、1人お願いしますよ」という高島からの依頼により宮城野部屋が引き受けたという経緯を持つ。
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- ^ 高島部屋が消滅 親方ら春日山部屋に移籍 日刊スポーツ 2011年6月17日
- 1 高望山大造の概要
- 2 主な戦績
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