駅伝制
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駅伝制(えきでんせい)とは、国の中央から辺境にのびる道路に沿って適切な間隔で人・馬・(馬)車などを常備した施設を置き、施設から施設へと行き来することで逓送(リレー)し情報を伝え、また使者が旅行する交通・通信の制度を指す[1]。伝馬制ともいう。この施設のことを、古代中国で「駅」と「伝」と呼んだ。
- ^ a b c 世界大百科事典 第2版「駅伝制」
- ^ a b c d e f g 世界史の窓「駅伝制」
- ^ An ancient Persian institution served as the model and inspiration for the United States Postal Service and other such delivery services. BBC 更新日:26th June 2020
- ^ 『山川出版社 詳説世界史B』2017年3月5日発行 168ページ
- ^ [1]
- ^ 武部健一 2015, p. 39.
- ^ a b 武部健一 2015, p. 40.
- ^ 武部健一 2015, p. 36.
- ^ a b c 武部健一 2015, pp. 39–40.
- ^ a b 武部健一 2015, pp. 36–37.
- ^ a b 武部健一 2015, pp. 37–39.
- ^ a b c d 武部健一 2015, pp. 40–41.
- ^ 中村太一 2000, p. 35.
- ^ 『靜岡縣史料』4輯、靜岡縣、1938年、178-179頁。
- ^ 『靜岡縣史料』4輯、靜岡縣、1938年、178頁。
駅制
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駅制は中央と地方との間相互の緊急情報伝達を主眼とした駅路・駅家・駅馬が備えてあるシステムであり、そのため中央から地方へのびる幹線道路たる駅路と駅路沿いの一定距離ごとに駅家を整備して駅馬が常備され、通信連絡の駅使や一部の重要な官史の旅行など便宜を図るものである。情報伝達者(駅使)は駅鈴を必ず携帯し、駅家に各5 - 20疋(ひき)置かれた駅馬を利用して駅路上を通行していた。駅使の行程は、普通でも一日8駅以上(約128キロメートル以上)とされ、緊急の場合は駅使は飛駅(ひえき)と呼ばれ、一日10駅以上(約160キロメートル以上)を疾駆した。木簡などの通行手形から官道自体も固定的なものでなく、便宜に応じて、駅家の再配置も行われ、時代によりコースを変えていった可能性が高い。 駅路は目的地に最短距離で到達するように直線的路線をとって計画的に敷設され、幅10メートル前後の大道であった。七道のそれぞれに駅路が引かれ、原則として30里(約16キロメートル)を基準に 駅家(うまや・やくか)を配置し、定められた駅馬(えきば・はゆま)を置き、駅使の休憩・宿泊に備えた。各駅家は既存集落とは無関係に計画的に配置され、常備する駅馬の数は、その駅路の重要性や地形により増減された。駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分されたが、中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部は、外国の使節が通行し宿泊する事が想定されたため、七道の中で唯一の大路に格付けされ最重視された。また中央と東国を結ぶ東山道・東海道が中路、それ以外が小路とされていた。 駅制機能の事実が最初に記録に現れたのは壬申の乱(天武天皇元年、672年)のときで、天智天皇が亡くなった671年に、吉野に隠棲していた大海人皇子(後の天武天皇)が政権掌握をするべく軍勢をつけるために東国入りを断行した際、駅馬利用のため駅鈴の交付を申請したが拒否される。駅路を速やかに通過する術を奪われた大海人皇子一行は、強行突破の策として吉野から東国へ向かう途中で、深夜に隠馬家(なばりのうまや、三重県名張市)、伊賀駅家(いがのうまや、三重県伊賀市)を焼いたという記録が残されている。また、『上野国交替実録帳』という史料に、670年(天智9年)に「駅家戸四」の記述により、駅家の仕事をする家が4戸あったことが示されており、この時点で東山道が上野国(現・群馬県)まで伸びていたと考えられている。これらの記録から、天智天皇の時代に駅路が機能し始め、天武天皇の時代には、全国的な展開がなされたというのが、古代交通史研究者の一般的な見方とされている。
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