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飯島幡司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 07:13 UTC 版)

飯島 幡司
人物情報
生誕 (1888-05-12) 1888年5月12日
日本大阪府大阪市
死没 1987年1月11日(1987-01-11)(98歳)
出身校 東京高等商業学校
学問
研究分野 経済学
研究機関 神戸高等商業学校
学位 経済学博士
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飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年5月12日 - 1987年1月11日)は日本の経済学者実業家神戸高等商業学校(現神戸大学)教授、大阪鐵工所専務、朝日放送社長、関西経済連合会会長を務めた。

人物

1888年、現在の大阪市西区江戸堀で生まれた。1897年に受洗。明星商業学校(現明星中学校・高等学校 (大阪府))、神戸高等商業学校を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業した。東京高商ではのちに大阪市長となる関一教授からも教えを受け、関西財界人となった後も交流が続いた[1]

1914年、神戸高等商業学校(現神戸大学)講師に就任。同校教授を経て、津村秀松の誘いを受けて1918年に久原財閥の久原商事に入社。大阪鉄工所(現日立造船)の専務を務め、会長を務めた津村とともに経営難に陥っていた同社を立て直した。1932年に津村ともに退任。同年に朝日新聞社入社。同社論説委員、出版局局長、監査役を経て、朝日放送社長に就任した。1947年には第2代関西経済連合会会長も務めた。他に1946年に大阪ロータリークラブ会長、海洋社代表取締役、日本汽船取締役、横浜鉄工所取締役、日本産業常務、昭和商事部取締役、向島船渠取締役などを務めた[2]

受賞・栄典

著書

  • 『社會問題の根本觀念』宝文館, 大正2
  • 『金融經濟論』東京宝文館, 大正7
  • 『金融經濟講義』東京宝文館, 大正11
  • 『蓮華草』昭和2
  • 『力を求める心』昭和3
  • 『造船を中心として』ぐろりあそさえて, 昭和5
  • 『世界恐慌に続くもの』朝日新聞社, 昭和8
  • 『遍路』朝日新聞社, 昭和9
  • 『南遊記』朝日新聞社, 昭和10
  • 『支那幣制研究』昭11
  • 『見る読む想ふ』人文書院, 昭11
  • 『支那幣制研究』1936
  • 蒋政權の崩壞と支那の經濟』渡邊翁記念文化協會, 1938.6.

脚注

  1. ^ 産経新聞2011.10.3
  2. ^ 「津村、飯島両氏−久原関係を去る」大阪毎日新聞 1932.??.12 (昭和7)
先代
関桂三
関西経済連合会会長
第2代:1947年
次代
中橋武一


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