りくぐん‐なかのがっこう〔‐なかのガクカウ〕【陸軍中野学校】
陸軍中野学校
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陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、大日本帝国陸軍の情報機関の一つで、諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした軍学校である。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号は東部第33部隊。
- ^ 田中俊男『陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦』p108
- ^ a b ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月
- ^ 畠山 清行『秘録陸軍中野学校』p165、p170
- ^ 「後方勤務要員養成所乙種長期第一期学生教育終了ノ件報告」 アジア歴史資料センター Ref.C01004653900
- ^ 近現代史編纂会『陸軍師団総覧』p62、新人物往来社
- ^ 近現代史編纂会『陸軍師団総覧』p62-p63、新人物往来社
- ^ [陸軍中野学校「忍術」教えた、1期生資料で判明]:『読売新聞』2012年6月18日
- ^ 近現代史編纂会『陸軍師団総覧』p64、新人物往来社
- ^ 野村昌二 (20180630T113000+0900). “「捨て石の捨て石」沖縄戦で招集された少年ゲリラ兵「護郷隊」の真実 〈AERA〉”. AERA dot. (アエラドット). 2020年1月23日閲覧。
- ^ 川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』 吉川弘文館 (2018/4/18) pp. 149-154
- ^ 秦郁彦「裕仁天皇五つの決断」講談社 昭和59年 97頁
- ^ 秦郁彦「裕仁天皇五つの決断」講談社 昭和59年 94‐144頁
- ^ 惠谷 治 (2010-08-25). “養成所 日本で暗躍する北朝鮮スパイは「陸軍中野学校」を手本にしている”. Sapio (小学館): 36-38.
- ^ 高橋 浩祐. “北朝鮮スパイと「陸軍中野学校」を結ぶ点と線 日本は貴重な歴史の教訓に目を向けるべきだ”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2023年12月26日閲覧。
- ^ 【戦後74年 令和に語り継ぐ】(2)漫画家 竹宮恵子 さん69/中野学校 消された軍歴『読売新聞』朝刊2019年8月11日(1面)。
- ^ 福川 2001, 342頁.
陸軍中野学校
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陸軍中野学校出身の幹部将校15名は9月に沖縄入りした。小隊長以下の兵員は地元出身者が多く、名護にあった沖縄県立第三中学校の三中鉄血勤皇隊や県立水産学校の水産鉄血勤皇隊、そして国民学校の生徒など、地元の地理に詳しい者が集められていた。9月半ばから、北部を視察した士官らは、北部 各地の国民学校(名護校、謝花校、羽地校)や中学校(三中・水産学校)の生徒名簿を入手してリストを作成し、10月から学校や役場を通じて少年たちを召集していった。 その役目は、第32軍(沖縄守備軍)が壊滅してもなお、沖縄で遊撃戦を続けることで本土決戦を先延ばしにするという、捨て石の延長を狙ったものだった。ゆえに第32軍牛島満司令官に「敵が上陸し玉砕した場合に、われわれが最後まで敵の後方を撹乱し、大本営に情報提供します」と任務を説明した際に、長勇参謀は笑いながら「我々の骨を拾いに来たのか」と冷やかした。 護郷隊はいずれも14歳から17歳の少年を防衛召集していたが、その法的根拠は、鉄血勤皇隊や通信隊と同様に法令ではなく、軍令としての陸軍省令第59号『陸軍召集規則』第58号『防衛召集規則』で、「前縁地帯」と規定された沖縄県と奄美諸島などに限り14歳以上17歳未満で志願の防衛召集をさせた。法的な問題があっただけではなく、護郷隊では学徒動員よりもさらに強制的であり、役場から呼び出しの連絡が来て小学校に集められ、そのまま召集された。少年たちには「護郷」「自分の故郷は自分で守れ」という意識を徹底的に植え付けられる厳しい訓練がなされた。 第一、第二護郷隊の戦死者は、約160人にものぼり、なかには、集合に遅れたというだけで制裁のために仲間うちで銃殺させられたり、軍医に殺されたりした少年兵もいた。
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陸軍中野学校
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終戦が決まると国体の護持があやふやであることから、秘密戦要員の陸軍中野学校出身者は天皇の身辺に最悪の事態あれば決起し、アメリカ将校の暗殺などを行う組織結成を決めた。そのための国体護持を目的とした全国的地下組織の編成案を猪俣甚弥少佐が提案する。その案に参謀本部課長白木末成大佐が同意して「占領軍監視地下組織計画書」を作る。河辺虎四郎参謀本部次長、有末精三第二部長の決裁をもらい中野学校へ命令される。中野学校は8月15日正午の玉音放送のときにはすでに必要なことはすべて手配を終了させていた。 終戦で椎崎二郎中佐、畑中健二少佐らが抗戦クーデターを行う前に中野学校の久保田一郎少佐に相談に来たが久保田は中野はまた別に考えて動くと返事をした。椎崎は久保田に広瀬栄一陸軍次官秘書官に相談するように言った。中野学校は推崎らのクーデターが始まっても加担せずに地下工作に専念することにしたが、久保田は後に広瀬に会いに行った。広瀬はそこで以前から考えていた皇統を護持するため皇族を匿う案を中野学校に任せようと決め、久保田はそれを受け取った。広瀬は匿う皇族は血統が正しく目立たない北白川宮道久王とし、匿う場所は新潟県六日町の翼賛壮年団副団長今成拓三(地元有力者で軍要路に顔が広く信頼があった)に頼ることにして紹介状を書いて渡した。 中野学校が地下活動へ入る際に久保田は皇族を匿うメンバーを6人選出した。今成も了承したが、今成はすでにビルマ首相バー・モウも匿っており、久保田らはその面倒も見ることになった。内部で意見対立があったものの妥協し、バー・モウを匿う「東計画」と道久王を匿う「本丸計画」を行うことになった。また道久王が母宮と2、3名の女官とともに住める隠れ家を六日町周辺に探した。猪俣は道久王の偽の戸籍を用意した。 しかし活動の中で会社経営やバー・モウ工作などに熱中する久保田らを見て自主的に解散するものもいた。中野学校の地下組織も1946年ごろには機能を停止していた。連合軍のバー・モウ追及の過程で準備を進めていた中野組織は逮捕されて取り調べを受けて作戦も暴露した。後に釈放されて作戦はそのまま消滅した。
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