阿史那默啜
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阿史那 默啜(呉音:あしな もくせち、漢音:あしだ ぼくせつ、拼音:Āshǐnà Mòchuò、? - 716年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。阿史那骨咄禄の弟。『オルホン碑文』におけるカプガン・カガン(古テュルク語: - Qapγan qaγan)[1]にあたる。
- ^ 従来はカパガン・カガン(Qapaγan qaγan)と読まれてきたが、D.Sinor『Qapγan』(1954年)、G.Clauson『A Note on Qapγan』(1956年)、R.Giraud『L'Empire des Turcs Célestes.Les régnes d'Elterich,Qapghan et Bilgä (680-734)』(1960年)などにより、カプガン・カガン(Qapγan qaγan)とする説が有力となっている。
- ^ 「国家を糾合したる」の意。
- ^ 咸亨年間(670年 - 674年)に、東突厥諸部落の来降附者の多くは、豊・勝・霊・夏・朔・代の六州に移住させられた。これを降戸と言う。
- ^ シャド(Šad、設、察、殺)とは、突厥や回鶻における官職の一つ。
- ^ タルカン(Tarqan、達干)とは、突厥や回鶻における官職の一つ。
- ^ テギン(Tägin、特勤)とは、突厥や回鶻における皇太子もしくは王子に与えられる称号。
- ^ イルテベル(頡利発、Iltäbär)とは、突厥可汗国の統制下において、突厥可汗によって各部族長に与えられた称号の一つ。
- 1 阿史那默啜とは
- 2 阿史那默啜の概要
- 3 参考資料
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