銘苅墓跡群とは? わかりやすく解説

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銘苅墓跡群

名称: 銘苅墓跡群
ふりがな めかるはかあとぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 沖縄県
市区町村 那覇市
管理団体
指定年月日 2007.07.26(平成19.07.26)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日 平成19.07.26
解説文: 銘苅墓跡群は、沖縄県沖縄本島南部首里城跡西方3kmにある、沖縄グスク時代から琉球王府時代明治時代に続く大規模な墓跡群である。周辺琉球石灰岩地帯で、墓跡群は緩やかな起伏のなかを北西方向へ流れ小河川沿いの谷に営まれている。西方約1.5kmには東シナ海を臨む。
 この一帯214ha戦後米軍住宅施設として使用されていたが、昭和62年全域解放され土地区画整理事業が行われることとなった事業地内には亀甲形外観を持つ亀甲墓のうち最大規模伊是名殿内の墓をはじめ、多く古墓存在することが知られていた。伊是名殿内の墓都市公園予定地内一部古墓については保存されることとなったが、他のものは那覇市教育委員会により平成2年から15年まで断続的に発掘調査された。調査が進むにつれ、多様な形式の墓が330以上に及び、その成立14・15世紀遡ることなどが明らかとなったこのうち成立が最も古く被葬者像などが明らかで、沖縄地方墓制成立と展開考え上で最も重要な銘苅川北岸の地区29基について、計画変更現状保存図った
 伊是名殿内の墓銘苅川と大湾川の合流点付近にある、南北約30m、東西約22mの規模をもつ大規模な亀甲墓で、墓室は西に開口する。伊是名殿内琉球王府において伊是名島伊平屋島総地頭つとめた上級士族である。伊是名家の創設19世紀前半であるが、墓の型式18世紀遡る可能性指摘されている。亀甲墓17世紀後半中国華南地方から伝わったとされ、琉球王府時代には士族用いられることが一般的であったが、近代以降広く普及した沖縄地方独特の型式である。本墓はこうした亀甲墓のなかで傑出した規模を持つものである
 伊是名殿内の墓の東約100m位置する保存地区には、崖面の岩陰前面石積みをして墓室とした囲込岩陰墓2基、琉球石灰岩下層堆積した粘土層に横穴掘り込んで墓室とした掘込墓26基、亀甲墓1基がある。いずれも基本的に墓室にいったん納めて白骨化させたのちに、これを清めて改め葬る洗骨葬である。囲込岩陰墓からは36体の風葬人骨出土し、それがその谷上営まれグスク時代集落、ヒヤジョー毛遺跡同時期であり両者関係する考えられる。墓の多くには蔵骨器厨子甕)が納められており、それに被葬者氏名役職死亡洗骨年月日などを墨書記した銘書をもつものが他の地区よりもかなり多いことが注目される。この銘書により墓の被葬者は主に琉球王府首里士族であったことが確認できる
 このように銘苅墓跡群は岩陰における洗骨葬グスク時代成立し近世以降、掘込墓などが展開したことを示すとともに中国から伝わった最大規模亀甲墓があり、文字資料により具体的な被葬者像明らかにできるなど、墓跡としては極めて貴重な事例である。ここにみる墓制葬送儀礼沖縄地方歴史と文化独自性象徴するものでもある。よって、史跡指定し保護図ろうとするものである
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