金野潤 (柔道)
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金野 潤(こんの じゅん、1967年3月20日 - )は、日本の柔道家。選手として全日本選手権やアジア大会での優勝経験を持ち、日本大学柔道部監督および文理学部准教授を務める。
注釈
- ^ ただし、この両者の対戦は1993年の全日本選手権決勝で小川が足車で一本勝ちした試合を除いては、際どい接戦になる事が殆どで、1990年体重別選手権準決勝、1995年の講道館杯決勝、1996年の全日本選手権準々決勝などは金野の勝ちになっても必ずしもおかしくないほど微妙な内容の試合であった。また1995年の体重別準決勝では、牽制しあうあまり両者反則負けにもなっている。
- ^ 結局、引退までオリンピック・世界選手権への出場は無かった。世界選手権が制定された1956年以降に全日本選手権を獲得した人物で、オリンピックか世界選手権へ出場経験が無いのは、竹内善徳と金野の2人のみである(現役選手を除く)。
- ^ 蟹挟については、1991年の同大会準々決勝でも金野による蟹挟で正木嘉美が骨折している。1980年の全日本体重別選手権において山下泰裕が遠藤純男の蟹挟で骨折して以来、技の制限について永く議論されてきたが、IJFでは1994年までにルール改正で禁止技となった。
- ^ その後増地克之が金野の記録を更新し、2019年現在は棟田康幸の15度出場が最多記録となっている。
- ^ 日本の柔道場では師範の指導内容に対して質問や口応えはご法度とする風潮があるのに対し、米国では礼儀作法は日本以上に厳しく指導しつつも、上下関係を問わず疑問を感じた事はすぐに質問・意見を言える文化がある。日本に合うか否かは別にして、金野はその師弟関係の在り方に共感したという[1]。
- ^ 以前は斉藤仁が強化委員長を務めていたが、斉藤が2015年1月に急逝した為、山下が斉藤の遺志を継いでリオデジャネイロオリンピックまで強化委員長を務めていた。
出典
- ^ a b c d e f g h “転機-あの試合、あの言葉 第6回-金野潤-”. 近代柔道(2002年4月号)、42-45頁 (ベースボール・マガジン社). (2002年4月20日)
- ^ a b c d e “CLOSE-UP 金野潤”. 近代柔道(1997年7月号) (ベースボール・マガジン社). (1997年7月20日)
- ^ “平成23年全日本柔道選手権大会(日本武道館) 大会結果”. 全日本柔道連盟 (2011年4月29日). 2019年12月28日閲覧。 “全日本選手権大会として初となる国際柔道連盟試合審判規定”
- ^ 若林太郎「全日本柔道選手権大会」『格闘技通信』第9巻第14号、ベースボールマガジン社、1994年6月23日、120頁“国際ルールでは禁止”
- ^ 小俣幸嗣、松井勲、尾形敬史『詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版』大修館書店(原著2004-8-20)。ISBN 4-469-26560-8。"1998年の改正で禁止技とされた"。
- ^ 「特集◎審判を考える【パート1】」『近代柔道』第20巻第3号、ベースボール・マガジン社、1999年3月20日、17頁“今後はすぐに反則負けになる”
- ^ “決定版!柔道技名まるわかりBOOK -実演者紹介 金野潤-”. 近代柔道 (ベースボール・マガジン社). (2008年1月10日)
- ^ “【陸前高田】柔らの道一直線 日大・金野監督が指導”. 岩手日報 -被災地ニュース- (岩手日報社). (2011年11月28日)
- ^ “現役世界王者の前に涙…原沢は絶対王者にあと一歩 山部は組み勝つも技が出ず”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2016年8月13日) 2016年9月15日閲覧。
- ^ “全柔連強化委員長に金野氏就任 新体制、女子代表監督は増地氏”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2016年9月14日) 2016年9月14日閲覧。
- ^ “金野氏“改革”に意欲 外国人コーチも示唆”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2016年9月15日) 2016年9月15日閲覧。
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