金森五郎八とは? わかりやすく解説

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金森長近

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 15:17 UTC 版)

金森 長近(かなもり ながちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名。名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。正四位下兵部卿、飛騨守。


  1. ^ 詳細不詳。公家出身とも、徳川家康伯母とも。
  2. ^ 「長篠合戦図屏風」飛騨高山まちの博物館所蔵
  3. ^ 残りは同じく美濃から侵入し戦功を挙げた原長頼勝山勝山城)を領した。
  4. ^ 『郡上八幡町史』 岐阜県
  5. ^ 『岐阜県史通史編 近世上』 岐阜県、1968年、533頁
  6. ^ 織田家を継ぐ予定の信忠には、信長の家臣とは別に”信忠直参の将”を身近に配置されており、将来の信忠政権を担うスタッフとして養成されていた。彼ら新世代の人材が日常から、すなわち当日の二条新御所においても信忠に近侍していたため、変により皆が揃って討ち死にすることとなった。このことから、長則が将来の織田家の一角を担うことを期待された人材であったこと、金森家が信長に信用されていたことが窺い知れる。
  7. ^ この合戦時の寝返りの件においても、後世の知名度が高い前田利家の行動としてはよく知られているが、金森長近も、であることはあまり知られていない。
  8. ^ 佐々はほとんど抵抗らしい抵抗をしていない。
  9. ^ 向牧戸城を守備していたのは川尻氏信で、金森勢は兵糧攻めを行い、遠藤慶隆が家臣や領民に懐柔工作を行った、とする説もある。
  10. ^ 数か月後の同年11月29日、和睦成立を祝う宴を行う予定で集っていた内ヶ島氏は、天正地震の被害により帰雲城ともども一族ほぼ滅亡した。
  11. ^ 領していた石徹白村の在地氏族と思われる。
  12. ^ 「照蓮寺起請文」勝鬘寺文書『高山別院史 上』
  13. ^ 『太閤軍記』
  14. ^ 関ヶ原の合戦以前に武儀郡鉈尾山城を支配していたのは佐藤方政。佐藤は西軍に付いたため改易。方政の室は長近の姉。
  15. ^ 『東本願寺創立と教如上人』 本願寺教務所、平成19年、書状は八尾市立博物館所蔵
  16. ^ 『信長公記』「丹羽兵蔵御忠節の事」、太田 & 中川 2013, pp.55-56
  17. ^ 『利休百会』 記録に千利休の茶会にも再三招かれている。
  18. ^ 『岐阜県史通史編 近世上』 岐阜県、1968年、535頁
  19. ^ 『岷江記』「明了等安と名付く事」
  20. ^ 『有馬温泉記』
  21. ^ 旧領主は佐藤方政。長近の姉の子。
  22. ^ 『堺市史』
  23. ^ 金森氏雑考


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