吉野鉄道電機51形電気機関車とは? わかりやすく解説

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吉野鉄道電機51形電気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 08:07 UTC 版)

吉野鉄道電機51形電気機関車(よしのてつどうでんき51がたでんききかんしゃ)[1]は、吉野鉄道(現在の近鉄吉野線の前身)が保有した電気機関車の1形式である。吉野鉄道の大阪電気軌道による吸収合併、大阪電気軌道を中心とした私鉄統合によって関西急行鉄道を経て近畿日本鉄道へ承継され、関西急行鉄道時代以降はデ51形としてそのまま吉野線となったかつての吉野鉄道線を中心に運用された。


注釈

  1. ^ 電機1形は端子電圧750V時1時間定格出力52.2kWのBBC製GDTM-6を4基搭載していた[5]
  2. ^ 電化直後に撮影されたと見られる、電機1がパンタグラフを下ろした状態のテハ1形を牽引する写真が残されている[6]が、この機関車が旅客列車牽引に用いられたかどうかは定かではない。なお、テハ1形のグループは電動車(6両)に対する制御車(14両)の両数の比率が異様に高かったモハ201形のグループとは異なり、テハ1形8両、テハニ100形2両、ホハ11形6両、ホハニ111形2両よりなり、電動車と制御車の両数比(MT比)が1:1であった[7]
  3. ^ 大阪鉄道からの直通乗り入れ車は日本初の20m級鋼製電車であるデニ500形を筆頭とする、ウェスティングハウス・エレクトリックWH-586-JP-5(端子電圧750V時1時間定格出力127kW、定格回転数815rpm)を搭載する自重40t超の大型電車群[8]であり、従来自重31tクラスで1時間定格出力41.03kWと非力な電動機を搭載したテハ1形(後の近鉄モ5151形)[9]を主力としていた吉野鉄道線でこれらの大型車を運用するには、従来の3倍以上にもなる大きな電力消費と3割以上も増える軌道負担に耐えられるよう、変電所と軌道の大がかりな増強・強化工事を要した[1]
  4. ^ 大型機となった背景として、奥野利夫は同時製作の付随車サハ301形)などを4両から5両程度連結した編成を牽引して旅客列車に充当することや、畝傍線(※畝傍線は現在の近鉄橿原線の旧称であるが、これは前後の文脈や状況から、鉄道省畝傍 - 橿原神宮前間3.4kmを結んでいた吉野鉄道線の延長線部分、後の小房線のことを指すと思われる)経由での鉄道省線からの団体列車誘致を企図していたのではないか、と推測している[1]
  5. ^ このため本形式の出入り口は前後各1カ所、合計2カ所しか用意されていない[10]
  6. ^ 川崎造船所→川崎車輌→川崎重工業は1996年までに合計821両の電気機関車を製作・納入したが、同社は伝統的に受注数が多く量産効果の出やすい国鉄向け機関車の受注を最重視しており、私鉄向けは戦前に22両、戦後に至ってはわずか1両、凸型の十和田観光電鉄ED400形ED402(製番241[11])を製作したのみで、戦前製作分の22両も国鉄向けを含めた1,067mm軌間向け本線用電気機関車の処女作となった庄川水力電気庄水3号形4両(製番4 - 7[2])を筆頭とする、箱形車体の前後に抵抗器を収めるためのごく小さなボンネットを設けた独特の凸型機や、伊勢電気鉄道501形(製番26・27[2])のような小型の凸型機が過半数を占めた。また、産業用も戦前戦後を通じて蓄電池機関車を含めても合計30両とごく少数にとどまっており、しかもその多くが日本製鐵日本鋼管、昭和製鋼のような製鉄所日本化成工業や三菱化成工業のような化学工場、あるいは満洲炭礦向けの凸型・L型機である。このため、国鉄向け以外の川崎車輌による国内向け箱形電気機関車は、富士身延鉄道200形5両、本形式2両、小田原急行鉄道101形1両のわずか8両にとどまる。さらに、輸出機も箱形は南満洲鉄道3000形5両以外では1982年より85両を量産・納入したF形交流機の中国国鉄6k型(製番705 - 789)のみとなっている[12]
  7. ^ 川崎造船所→川崎車輌→川崎重工業の場合、製番は各車種ごとに個別に付与されているため、このDF40 1の製番14は1930年製作の同社最初の内燃機関車より始まる、電気機関車とは別系統の番号となる[13]
  8. ^ この種の丸い側窓は、日本国内の機関車では他に西武鉄道E851形4両に採用されたのみである。もっとも、日本国外ではフランス国鉄(SNCF)のCC7100形をはじめとする、1940年代末から1950年代中盤にかけてのフランス・アルストム社製電気機関車(輸出向けを含む)[14]で多用された他、ベルギー国鉄126形・140形[15]などヨーロッパを中心にいくつかの量産形式で採用例があり、また日本国内でも電車については、1920年代前後の日本車輛製造製車両に戸袋窓を丸窓としたものが幾つか存在する。
  9. ^ 社名変更で川崎重工業となり、分社化されて川崎電機製造となった後、1968年富士電機に吸収合併。
  10. ^ なお、新造直後に撮影された現車写真においては、総括制御用ジャンパケーブルの他、台車端梁部分にブレーキ管と元空気溜管とおぼしき2組の空気配管用コック付きゴムホースが装着されているのが確認できる。[17]
  11. ^ メーカー作成の製造実績一覧では本形式をはじめとする私鉄・輸出向け箱形電気機関車の軸配置を特に「B+B」として通常の「B-B」と区分して記載[2]しており、先台車こそないものの、台車と台車の間を中間連結器で連結する、本形式の直前に製作された鉄道省向けEF52 7(製番28:川崎造船所→川崎車輌としての国鉄向け電気機関車第1号機[2])のような鉄道省向け制式電気機関車と同様の構造(実際にもこの構造を採る鉄道省向け電気機関車の軸配置を製造実績一覧では「2C+C2」などと表記している)を採っていたことを明示している[2]。この構造の場合、台車間にブレーキシリンダーを装架してそこから連動ロッド経由で各台車の基礎ブレーキ装置を駆動する、という設計当時の日本の鉄道車両で一般的であったブレーキ機構は構成するのが困難であったため、必然的に台車シリンダー式として各台車で個別に基礎ブレーキ装置を駆動する必要が生じた。

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