貴賤結婚
貴賎結婚
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「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア」の記事における「貴賎結婚」の解説
1971年スイスの富裕な資本家の娘で、女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリア(英語版)と結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚はいかに亡命王族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたが、ヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ=ヴィネツィア公の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている。王位請求者としての権限で、リコルフィ・ドーリアをナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた。 サヴォイア家の分家であるサヴォイア=アオスタ家の当主アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタは、ヴィットーリオ・エマヌエーレの継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立王位請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派(ヴィットーリオ・エマヌエーレの系統)とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。
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貴賤結婚
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「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の記事における「貴賤結婚」の解説
1907年12月、ミハイルは将校仲間の妻であるナターリア・ヴリフェルト(英語版)と知り合い、1908年から友人関係を始めた。彼女もまた平民出身で、さらに離婚歴を持つ子持ちだった。二人は8月に交際を始め、1909年11月に彼女は二度目の離婚をし、以降はモスクワのアパートでミハイルの仕送りを受けながら暮らしていた。交際を知ったニコライ2世は二人を遠ざけるため、ミハイルをモスクワから遠いオーレルの第17軽騎兵チェルニゴフ連隊長に任命したが、彼はナターリアに会うため月に数回モスクワを訪れた。1910年7月にナターリアはミハイルの息子を生み、彼は死んだ次兄にちなみゲオルギー(英語版)と名付けた。ミハイルは出生日を離婚前の日付にするように配慮し、ニコライ2世はゲオルギーに「ブラソフ」の姓を名乗らせるように命令した。 1911年5月、ニコライ2世はナターリアにモスクワから移動することと「ブラソヴァ」の姓を名乗ることを許可した。1912年5月、ミハイルは伯父フレゼリク8世の国葬に参列するためコペンハーゲンを訪問した。国葬を終えフランスで休暇を過ごしていたミハイルとナターリアは、オフラーナによってサンクトペテルブルクに連れ戻された。ミハイルはサンクトペテルブルクでナターリアと暮らし始めるが、彼女は貴族社会から疎外されたため、数カ月後に彼女をガッチナの別荘に移した。 1912年9月、ミハイルとナターリアは海外に休暇に出かけるが、常にオフラーナの監視が同行していた。ベルリン滞在時に二人は突然カンヌにドライブに行くことを決め、監視には列車でカンヌに来るように指示した。オフラーナは事前に列車で同行するように指示を受けていたためミハイルの指示に従ったが、これはミハイルの意図したことだった。二人はカンヌに向かう途中でウィーンに立ち寄り、10月16日にセルビア正教会の聖サヴァ教会で結婚した。結婚にはナターリアの前々夫との娘が立ち合い、ミハイル夫妻はヴェネツィア、ミラノに立ち寄った後にカンヌに到着した。 二週間後、ミハイルはニコライ2世と母マリアに対し、結婚を報告する手紙を送った。ニコライ2世と母マリアはミハイルの報告にショックを受け、母は「あらゆる想像を絶する酷さ」と述べ、兄は「弟は彼女と結婚しないという誓いを破った」と激怒した。この頃、ニコライ2世の息子アレクセイは血友病が悪化して危険な状態となっており、ニコライ2世は万が一の場合にはミハイルに帝位を継承させるつもりだったため特に怒りを見せた。一方のミハイルも、アレクセイが死に再び帝位継承権第一位になり、ナターリアと結婚できなくなってしまうことを恐れていた。そのため、ミハイルはナターリアとの結婚を強行することで、再び帝位継承権第一位になることを阻止した。ニコライ2世の怒りは収まらず、1912年12月から1913年1月にかけて勅令を出し、ミハイルのロシアからの追放、国内資産の没収、摂政の権利を取り消すことを決定した。これに対し、貴族社会からはミハイルとナターリアに同情する声が挙がった。 追放から半年間、ミハイルとナターリアはフランス・スイスのホテルを転々として生活していた。同じ頃、姉クセニア大公女と従兄弟アンドレイ大公が二人の元を訪れた。その後、ミハイルはロンドン郊外のネブワース・ハウスを1年間賃貸している。ミハイルの資産は全て没収されていたため、生活費はニコライ2世からの送金に頼っていた。
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貴賤結婚
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「エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ」の記事における「貴賤結婚」の解説
1880年6月8日に皇后マリア・アレクサンドロヴナが死ぬと、皇帝は妻の死から1か月も経たない7月6日にエカチェリーナと再婚した。この結婚は皇帝の家族からも民衆からも祝福されないものだったが、皇帝は無理に再婚を急いだ。貴賤結婚のため、エカチェリーナの子供たちは帝位継承権を与えられなかったが、アレクサンドル2世は彼女に「ユーリエフスカヤ公女」の称号を与えた。 コンスタンチン・ポベドノスツェフら一部の宮廷人はエカチェリーナを「下品で醜い」と酷評し、彼女が亡きマリア皇后に取って代わったことに憤った。しかし、アレクサンドル2世は長年日蔭の身においていたエカチェリーナとの関係を晴れて公式のものに出来たことを、非常に喜んでいた。皇帝の甥アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は、「皇帝はエカチェリーナの前では10代の少年のように振る舞っていた。そして、エカチェリーナは皇帝を崇めているようだった」と回想している。アレクサンドル2世の家族は、「皇帝がエカチェリーナを皇后にし、彼女との間の子供たちに帝位継承権を与えて大公や大公女の称号を与えるのではないか」と不安に思っていた。また、皇帝の家族はエカチェリーナが皇帝を愛称の「サーシャ」で呼ぶことにも我慢がならなかった。 アレクサンドル2世とエカチェリーナは幸福に暮らしていたが、皇帝は常に暗殺の脅威と隣り合わせの暮らしをしていた。1880年3月1日、冬宮殿の近くで爆発が起きて正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は「カーチャ!愛するカーチャ!」と叫びながら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走った。エカチェリーナは無事であったが、一方で死を目前にしたマリアは朦朧として爆発にも気づけない状態だった。マリアの兄アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットはその場に居合わせたが、妻のことを全く気にかけない皇帝の振る舞いを見て激怒した。 1880年3月1日の冬宮殿の近くでの爆発のちょうど1年後の1881年3月1日、エカチェリーナは胸騒ぎがしてアレクサンドル2世に出かけないよう懇願したが、彼は妻を宥めて外出した。1時間もしないうちに、重体になったアレクサンドル2世が宮殿に運び込まれた。アレクサンドル2世が爆弾で致命傷を負ったと聞いたエカチェリーナは彼のもとに駆け付け、すでに息絶えた皇帝の遺体に取りすがり「サーシャ!サーシャ!」と叫びながら号泣した。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は回顧録の中で「エカチェリーナは白い衣装を皇帝の血で赤く染めた」と記している。葬儀では、エカチェリーナと子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。また、エカチェリーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。
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