豊国神社 (京都市)
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豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。現在の敷地の大部分は、かつて京の大仏を安置する方広寺の寺領であったが、明治新政府により収公され、最終的に豊国神社境内となった [1]。豊国神社の参道に敷かれる石材は、方広寺境内収公にあたり、寛政10年(1798年)の焼失後も残されていた方広寺大仏殿の内部及び基壇に敷かれていた床石材を転用したものである[2]。
- ^ 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
- ^ 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査報告 平成25年度』2014年 p.148
- ^ 神として祀られるには土葬や火葬をしてはならないと考えられていた(河内将芳『秀吉の大仏造立』)。
- ^ 遺体埋葬は死の直後という説もあるが、根拠不明。
- ^ 『伊達日記』・『本阿弥光悦行状記』・『イエズス会日本報告集』など。一説に「新八幡となって大仏を守りたい」と遺言したとされるが、以上の文書にそのことは見えない。
- ^ 『言経卿記』・『義演准后日記』
- ^ a b c d 三鬼清一郎 1987, pp. 206.
- ^ 三鬼清一郎 1987, pp. 200.
- ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館 2008年
- ^ a b c 三鬼清一郎 1987, pp. 204.
- ^ 三鬼清一郎 1987, pp. 204–205.
- ^ 『駿府記』・『武徳編年集成』。
- ^ 現在、神社ではこの五輪塔を「馬塚」と称して「阿弥陀ヶ峰の旧豊国社が徳川氏により取り壊され、その参道を塞がれた後、秀吉公を慕う人々が代拝所として同峰から移霊したもの」(同社パンフレット)としているが、江戸時代の地誌にはこうした説も「馬塚」の名も見えないから、近年になって境内に仏式の塔があることを説明するために、神社によって造られた説か。
- ^ 一説に神体は新日吉神社にひそかに遷されたともされ、現在同社の境内社「豊国社」に祀られている。豊国社はかつて「樹下神社(このもとじんじゃ)」といい、秀吉の旧姓「木下」と幼名「日吉丸」を日吉大社の摂社「樹下神社」の名に託して隠し祀ったものという(新日吉神社由緒書)。
- ^ 土田衛編『かなめいし』、愛媛大学古典叢書、174-5頁
- ^ 蜂須賀家には、豊臣秀吉七回忌を記念して行われた豊国祭礼を描かせた「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)伝岩佐又兵衛」が伝来していた。重要文化財。現:徳川美術館蔵
- ^ 湯本文彦『豊太閤改葬始末』「史学雑誌17-1」1909所収。
- ^ 24年間お蔵入りの豊臣秀吉像を公開 豊国神社「令和見守って」
- ^ a b 【太閤秀吉公像復活】新しい御代の奉祝記念として、阪神大震災にて損傷し長く御蔵に収蔵しておりました「豊臣秀吉公之像」を修復し国宝唐門前に安置致しました。
- ^ “24年間お蔵入りの豊臣秀吉像を公開 豊国神社「令和見守って」”. 京都新聞. (2019年4月27日). オリジナルの2020年9月18日時点におけるアーカイブ。 2020年12月21日閲覧。
- ^ 文化遺産データベース、国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 方広寺大仏殿跡および石塁・石塔 - 文化遺産オンライン(文化庁)
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