古谷惣吉連続殺人事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > できごと > 事件・事故 > 事件・事故 > 連続殺人事件 > 古谷惣吉連続殺人事件の意味・解説 

古谷惣吉連続殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 02:27 UTC 版)

古谷惣吉連続殺人事件(ふるたに[注 2] そうきち[16][20] れんぞくさつじんじけん)は、1965年昭和40年)10月30日 - 12月12日西日本近畿地方九州地方)で独居老人8人が相次いで殺害された連続強盗殺人事件[1]西日本連続殺人事件[26][27][9][24]西日本連続強盗殺人事件[28]と呼称される場合もある。


注釈

  1. ^ 被害者たちから奪った預金・利付け債権を解約して得た金額[10]。『毎日新聞』1971年4月1日夕刊では「現金505,670円」となっている[9]
  2. ^ a b 姓には、事件当時の『読売新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『中日新聞』『西日本新聞』や、『週刊サンケイ』 (1966) 、教育社 (1993) では、「ふるたに」と読み仮名が振られている[16][17][18][19][20][21][22]。一方、『毎日新聞』の1971年・1974年の記事では、「古谷」に「ふるや」と読み仮名が振られているほか[23][24]、免田 (2004) では「古屋」と誤表記(「ふるや」と読める)されている[25]
  3. ^ a b 「上県郡仁田村志多留」は後の上県町志多留で、現在は「対馬市上県町志多留」。
  4. ^ かつて、『対馬新聞』の記者として事件を取材した明石雅操は、1995年に斎藤充功の取材に対し「1965年当時の志多留集落は厳原から北へ約80 kmほど離れた人口200人足らずの集落で交通事情も悪く、取材のために集落で1泊した。対馬であれだけの犯罪を犯した人物は皆無で、事件当時は地元に大きな衝撃を与えたが、地元の人間は古谷家と何らかの関係があって口が堅かった」「惣吉の姉と古谷家の実家を継いでいる人物(甥)は同年時点でも島内に住んでいる」と述べている[36]
  5. ^ 惣吉は4番目の子供で[37]、姉3人・妹1人の5人兄弟姉妹だったが[37][38]、姉妹たちも姉1人を除き幼少期に死去していた[39]。1965年12月時点で存命者は対馬にいた長女(当時54歳)のみで、彼女も9歳の時に惣吉と別れてからその消息を全く知らなかった[38]
  6. ^ 佐木隆三 (1992) では「3歳の時」となっている[37]
  7. ^ 惣吉の父親は家を空けることが多かった[12]
  8. ^ 父親は妻の死と前後して旅館経営に失敗し、その後後妻(義母)と再婚したが[38]、惣吉はその継母となじめなかった[12]
  9. ^ 惣吉の父は後妻(惣吉らの継母)と子供5人を対馬に残したまま、材木商として朝鮮へ渡り、1年近く帰らなかったほか、継母もその間に行方不明になった[38]
  10. ^ 父親の実兄[42]
  11. ^ 『読売新聞』は「惣吉は8歳になるまでおじに預けられた」と報道している[34]
  12. ^ 後の上県町立伊奈小学校[41][38](2002年3月閉校)。
  13. ^ 地元の尋常小学校[注 12]に在学した[43]。佐木 (1992)は「惣吉は頭は良かったが勉強嫌いだった」と述べている[44]
  14. ^ 明石は斎藤の取材に対し、「地元集落の人間は惣吉を怖がり、『(惣吉のことを)話すと仕返しされる』と恐れていた」と述べている[45]
  15. ^ 『朝日新聞』 (1965) は「惣吉は幼少時から賭け事を好み、学校で友達の物を盗んだり、下級生をいじめたりしており、周囲からは粗暴な素行から嫌われていた」と報道している[38]
  16. ^ 『対馬新聞』は「惣吉は4、5年生ごろまで志多留に住んでいたが、親子の縁が薄い関係などが影響して幼少期から性格が荒かった」と報道している[39]
  17. ^ 佐木 (1992) は、「惣吉が最初に逮捕されたのは、広島市内山陽中学校2年生の時(窃盗)だったが、惣吉の弁護人は控訴審における補充弁論で、この窃盗事件について『在学中に不良仲間と付き合い、警察官の取り調べを受けた際に友人をかばい、“自分がやった”と虚偽の供述をしたためだ』と主張した」と述べている[44]
  18. ^ 『朝日新聞』 (1965) は「惣吉は14歳 - 15歳ごろ、厳原町田淵で帰国した父親とともに約1年間住んでいたが、その後対馬を離れた」と報道している[38]
  19. ^ 『読売新聞』は「同年、広島県内で窃盗事件を起こして逮捕された」と、『毎日新聞』は「同年4月5日に広島区裁判所で懲役3年の判決を受け、岩国刑務所に服役した」と報道している[51]
  20. ^ 当時は少年刑務所で現在は女子収容施設。
  21. ^ 「鹿子生」は「かこう」[54]ないし「かこお」と読む[55]
  22. ^ 坂本の年齢は、最高裁 (1983) および佐久間 (2005) では「(事件当時)19歳10か月(少年)」[59][60]、田島 (1997) で引用された『九州タイムズ』の記事および、『西日本新聞』 (1951) では「(逮捕当時)20歳」とされている[61][62]
  23. ^ a b 坂本と、支援者である元同級生の交流などについては、『天国への凱旋門』(田島惠三 1997)で描写されている[60]。同書では、坂本(作中では実名ではなく、イニシャル「S」と表記)からの手紙を引用して「坂本は1952年6月25日に受洗した」と述べているが[79]、同日は坂本の誕生日だった[80]
  24. ^ 田島 (1997) は『九州タイムズ』の記事を引用して「坂本は引き揚げ後、昭和24年(1949年)に吉塚駅付近で刑事と称する古谷と知り合った」と述べている[62]
  25. ^ 事件発生日は最高裁 (1983) によれば5月15日[59]。『西日本新聞』 (1951) は「殺害時刻は5月16日22時ごろ」と[61]、夕刊紙『九州タイムズ』(1951年7月28日付)は「事件発生は5月16日23時ごろで、遺体発見は5月25日」と報道している[62]。また、『朝日新聞』はSの判決に当たり「5月15日」と報道したが[66]、1955年に古谷に無期懲役が言い渡された際には「起訴状によれば5月23日」と[67]、『読売新聞』 (1965) は「事件発生は5月23日」とそれぞれ報じているほか[34]、池上・斎藤 (1996) は「5月24日」と述べている[58]
  26. ^ 被害者の居住地について、『朝日新聞』 (1951) は「東中洲南新地清流公園(福岡市)の噴水橋下」[66]、池上・斎藤 (1996) は「福岡市大字比恵町(現:福岡県福岡市博多区比恵町:博多駅裏)のバラック小屋」[58]、田島 (1997) は『九州タイムズ』(1951年7月28日付)の記事を引用して「被害者は市内清流公園(現:福岡市博多区中洲一丁目7番)在住」と述べている[69]
  27. ^ 『朝日新聞』西部朝刊(1951年5月25日)は遺体発見現場を「福岡市中比恵の麦畑」と[70]、同紙夕刊(1951年11月7日)は殺害現場を「福岡市犬飼三社町」と報道している[66]。また、田島 (1997) は『九州タイムズ』(1951年7月28日付)の記事を引用して「福岡市犬飼町の田んぼ」と述べている[69]。三社町(大字比恵、大字犬飼)はいずれも現在の博多区博多駅中央街、同区博多駅前、同区博多駅東、同区博多駅南に該当する[71]
  28. ^ 被害者の居住地(事件現場)は、『西日本新聞』 (1951) で「八幡市小鷺田西田山」(現:北九州市八幡西区小鷺田町)と[74]および「八幡市引野山ノ神」(現:北九州市小倉北区引野)[75]、『朝日新聞』 (1951) で「八幡市引野山」[66]および「八幡市引野山字山ノ神の山小屋」と[67]、『読売新聞』 (1965) で「八幡市黒崎」(現:北九州市八幡西区黒崎)と報じられている[34]
  29. ^ 被害品について、『朝日新聞』は1951年に「現金・懐中時計など6点」[66]、1955年に「現金・米6升・洋服上下・時計など」と報道した[67]一方、『読売新聞』は1965年に「現金230円など」と報道している[34]
  30. ^ 佐木 (1992) は「坂本は取り調べに対し、『ソウさん』という共犯者の存在を主張したが、警察はほとんどその共犯者(=古谷)について追及しなかった」と[53]、免田 (2004) は「坂本は裁判では何度も無罪を主張した」と述べている[63]
  31. ^ 田島 (1997) では、坂本が支援者である同級生宛に送った手紙(1952年4月22日付)を引用し、「4月9日に控訴審判決があり、(結果は)原審通り死刑だった」と述べている[77]。その後、坂本は1952年5月1日付の手紙で「4月19日に最高裁へ上告したが、21日に取り下げた」と述べている[78]
  32. ^ 免田 (2004) は「坂本の事件資料を読むと(有罪が)疑わしい点が多数あった。坂本は明らかに冤罪だ」と述べている[25]
  33. ^ 坂本登の死刑執行日は、『西日本新聞』 (1955) では「一昨年(1953年)3月」[76]、『朝日新聞』 (1955) では「1953年3月28日」と報道されている[67]。また、免田 (2004) は「1953年9月16日」[63]、田島 (1997) は「1953年3月27日」と述べている[82]
  34. ^ 免田は「(自身を含め)最高裁で死刑が確定した被告人は死刑確定後に死刑台のある拘置支所に移監されるが、その移監先は当時の福岡刑務所に隣接する『藤崎拘置区』であった」[83]と述べているほか、当該章「刑場に消えた人々」にて福岡刑務所(当時)を「本所」と呼び[84]、坂本の死刑執行について「本所から藤崎拘置区の運動場を横切って刑場に去った」と述べている[63]
  35. ^ 刑事訴訟法第475条「1. 死刑の執行は、法務大臣の命令による。2. 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。」
  36. ^ 『読売新聞』 (1965) は「1951年12月に兵庫県内で恐喝事件を起こして西宮署に検挙された」と[34]、『朝日新聞』 (1965) は「同年12月8日、脅迫容疑で西宮署に逮捕された」とそれぞれ報道している[88]
  37. ^ 『読売新聞』や『週刊新潮』、『西宮市警察史』 (1954) 、神戸サンケイ新聞社 (1978) では「清水正雄」と表記[34][55][90][91]。このほか、佐木 (1992) では「清水政雄」[53]、池上・斎藤 (1996) では「清水定夫」と表記されている[58]
  38. ^ 兵庫県警察 (1999) は「通常ならば起訴猶予執行猶予の可能性が高い恐喝未遂罪でありながら、古谷の場合は複数の前科が考慮されて実刑となった」と述べている[87]
  39. ^ 石田郁夫 (1971) は「古谷は強盗殺人容疑で逮捕された当時、明石刑務所に服役していた」と[93]、神戸サンケイ新聞社 (1978) は「古谷は(恐喝未遂罪で懲役3年の刑に処され)神戸刑務所に収容された」と[94]、池上・斎藤 (1996) は「古谷は1953年(昭和28年)9月に加古川刑務所から仮釈放されたが、出所直後に姫路市内で洋服の窃盗事件を起こして逮捕され、仮釈放も取り消された」と述べている[95]
  40. ^ 『週刊新潮』 (1965) は「出所を控え、郷里の対馬へ手紙を出した」と[55]、神戸サンケイ新聞社・兵庫県警察 (1976) は「仮出所のために必要な身元引受人を頼むため、郷里の友人に手紙を出した」と[94]、兵庫県警察 (1999) は「満期出獄を間近に控え、福岡の知人に便りをした」とそれぞれ述べている[97]
  41. ^ 池上・斎藤 (1996) は「指紋照会から2件の強盗殺人への関与が発覚した」と述べている[95]
  42. ^ 兵庫県警察史 (1999) は「神戸刑務所で服役していた古谷は、1954年5月に突然福岡刑務所へ移送された」と述べている[87]。一方、『朝日新聞』 (1955) は「古谷は福岡刑務所服役中の1954年4月16日、福岡地検に強盗殺人罪で逮捕された」と報じている[67]
  43. ^ 『朝日新聞』 (1955) は「古谷は最初から『人違いだ』と無罪を主張していた」と報道している[67]
  44. ^ 判決宣告時、福岡地裁(佐藤裁判長)は判決理由で「坂本が処刑されたことは結果的に非常に遺憾だが、法執行の経過から見てやむを得ないことだった」「古谷の犯行を立証する証拠が不十分であるため、法律の原則により古谷に有利に判断すべき」と述べた[67]。佐藤は105号事件の解決後、「古谷の裁判の過程で坂本がいないため、完全な事実を突き止められなかったのが心残りではあったが、このような(被告人にとって不利益な事情を裏付ける証拠がない)場合、裁判の原則としては、被告人に不利益に認定することはできないという事情もあって、十年の刑にしたわけだ」と述べている[85]
  45. ^ 福岡高裁刑事三部判決(1955年10月27日)[99]、最高裁第二小法廷決定(1956年2月3日:上告棄却)[100]による。
  46. ^ 当時の主任検事だった佐藤貫一は1965年12月時点で、埼玉県で弁護士を務めていた[85]
  47. ^ 免田 (2004) は「坂本の死刑執行後、本所(福岡刑務所)に『坂本が全部(罪を)負ってくれたから助かった』と言っていた者がいたが、その人物が古屋(古谷)だった」と述べている[25]
  48. ^ 「模範囚に次ぐ一級囚」とする報道もある[72]
  49. ^ 池上・斎藤 (1996) は「古谷に人間らしい心があったとするなら、その安らぎは故郷・対馬を思うときだったろう。自営会の世話になっていたときは、少しは心の安らぎもあったはずだ。『旅愁』の詩に出てくる『旅人』は、犯罪を繰り返して社会を流離っていた古谷自身を指していただろう」と考察している[105]
  50. ^ 当時、地方委員会、保護観察所とも、古谷の父親が死去していた事実は把握していなかった[108]。古谷は旅行後の同年12月8日、保護観察所へ出頭した際、旅行の報告で、「父に会ったが元気だった」と述べている[108]
  51. ^ 『朝日新聞』 (1965) は「2月28日に雇主と喧嘩し、暴力事件を起こして辞めた。その後、3月末に熊本市内の友人宅で一泊し5月に行方をくらました」と[111]、『毎日新聞』 (1965) は「2月28日に雇主の首を絞めて意識不明にさせる事件を起こしたが、5月までは雇主の下で暮らしていた」と報道している[102]。また、神戸サンケイ新聞社 (1976) は「古谷は勤労の尊さを説く知人を殴りつけ、熊本から姿を消して逃避行に出た」と述べている[94]
  52. ^ 『朝日新聞』 (1965) は「古谷は同月3日、自営会の代表に『神戸に行く』と言って2,000円を借りた」と報じている[111]
  53. ^ 古谷が所在不明になって以降も、担当者は20日以上にわたって報告を見合わせていたが、これは古谷の所持品が自営会に預けられたままだったことや、以前期限付きで父の下への旅行を許可した際には予定通り20日で帰ってきたことから、「今回もその時分には帰るだろう」と考えていたためだった[110]
  54. ^ 池上・斎藤 (1996) は「8月19日午後10時(=22時)ごろ」と述べている[117]
  55. ^ 福岡市大字松崎は、現在の福岡市東区名島(四・五丁目)、千早四丁目、水谷(一〜三丁目)、舞松原(二〜五丁目)、若宮(三〜五丁目)、多々良二丁目、松崎(一〜六丁目)、松島(一〜六丁目)に該当する[118]。池上・斎藤 (1996) は「福岡市箱崎[117](現:福岡市東区筥松二丁目。箱崎駅から北方約1 km地点)[119]と述べている。
  56. ^ 二級河川多々良川水系。
  57. ^ a b 訪問する以前から強盗目的で下見していた[117]
  58. ^ 男性Xは1897年(明治30年)3月生まれ[5]
  59. ^ a b c X事件後、古谷は福岡銀行比恵支店で被害者Xの(残高10万円のうち)8万円を、日本興業銀行福岡支店から(残高58万円のうち)40万円をそれぞれ引き出した[138]
  60. ^ 福岡銀行の定期預金証書[12]
  61. ^ 日本興業銀行(現:みずほ銀行)の利付け興業債券預かり証(額面46万円)[12]
  62. ^ 池上・斎藤 (1996) はそれ以外に「Xの腕時計も古谷が奪った」と述べている[12]
  63. ^ 1995年時点の住所は「垂水区海岸通七丁目」で、現場は山陽本線JR神戸線)・垂水駅から西へ約700 mほどの国道2号沿い(鉄道と国道に挟まれた松林の空き地)だった[120]
  64. ^ 男性Aは1907年(明治40年)6月生まれ[5]
  65. ^ 池上・斎藤 (1996) は「被害品は木綿のズボン1本・現金1,000円」と述べている[121]
  66. ^ 昭和42年押第235号の10および24[5]
  67. ^ 昭和42年押第235号の6[5]
  68. ^ 昭和42年押第235号の7[5]
  69. ^ 琵琶湖畔の砂浜(大津駅から北方約4 km、京阪近江神宮駅から東方1.2 km地点)にあった水泳場で、当時の住所は「大津市錦織町番外地[123]。柳が崎水泳場は1993年(平成5年)限りで休止している[124]
  70. ^ 男性Bは1906年(明治39年)3月生まれ[5]。掘立小屋に隣接する売店の店主の好意で居住していた[123]
  71. ^ 男物セイコースポーツマン腕時計(昭和42年押第235の9)[5]
  72. ^ パトロール中の大津警察署滋賀県警察)署員が死体発見[122]
  73. ^ 現在の福岡市東区内。神戸地裁 (1971) では「福岡市原田町一丁目所在原田橋東詰下」と認定されているが[6]、大阪高裁 (1974) は「『福岡市箱崎原田町一丁目所在原田橋東詰下』の明白な誤記」としている[125]。福岡市東区原田は大字箱崎の一部と、大字多田羅の一部(原田四丁目の一部のみ)に住居表示がなされたことで発足した[126]
  74. ^ 男性Yは1926年(大正15年)1月生まれ[6]
  75. ^ a b 福岡事件(C事件)の現場は、X事件(8月19日)の現場から直線距離約5 kmの場所で、被害者男性Cは家族3人で生活していた[127]
  76. ^ 男性Cは1911年(明治44年)4月生まれ[6]
  77. ^ ソニー製・昭和42年押第235号の16[6]
  78. ^ 腕時計は男物キングセイコー腕時計(昭和42年押第235号の17)、バンドは昭和42年押第235号の18[6]
  79. ^ 昭和42年押第235号の22[6]
  80. ^ 昭和42年押第235号の23[6]
  81. ^ 昭和42年押第235号の21[6]
  82. ^ 「京川橋」は鴨川に架かる橋で、D事件の現場は左岸橋下[128]。E事件の現場(名神高速道路・鴨川陸橋)から見て鴨川の800 m下流(南)に位置する[129]
  83. ^ 男性Dは1899年(明治32年)5月生まれ[6](本籍地:京都市下京区東馬場町32番地)[128]
  84. ^ ナイロン製キルティングジャンパー(昭和42年押第235号の19)[6]
  85. ^ 14時40分ごろ、独居者調査のため被害者E方を訪問した九条警察署京都府警察)鑑識係の巡査が、被害者Eの腐乱死体を発見[130]。同日17時20分ごろには同じく独居者調査のために被害者D宅を訪問した伏見警察署刑事課捜査一係の巡査部長が、被害者Dの遺体を発見した[131]
  86. ^ E事件の現場は鴨川陸橋(名神高速道路)の下(名神・京都南ICから西方約200 m)で、D事件の現場(京川橋)から見て鴨川の800 m上流(北)に位置する[129]
  87. ^ 男性Eは1905年(明治38年)11月生まれ[6](本籍地:石川県金沢市味噌蔵東町27番地)[130]
  88. ^ 高槻事件(被害者:男性F)の発生日は近隣住民への聞き込みにより12月7日とほぼ断定され[132]、古谷も取り調べに対し犯行日時を「7日ごろの20時」と自供した[133]
  89. ^ 現場の小屋は芥川に架かる「高槻橋」(国道171号)の橋脚に沿って建っていた[134]
  90. ^ 男性Fは1910年(明治43年)1月生まれ[7]
  91. ^ 事件後、古谷が逮捕された当日(12月12日)には所轄署である高槻警察署(大阪府警)の警官が被害者F宅を訪れて小屋の中を覗き込み、室内に声を掛けたが、その際の報告は「異常なし」だった[134]
  92. ^ 西宮事件の現場は、堀切川(芦屋市の東端)[135]からすぐ東脇(西宮市側)で、波打ち際から数 メートルの場所に建っていた粗末な小屋だった[17]
  93. ^ 男性Gは1914年(大正3年)5月生まれ[7]
  94. ^ 男性Hは1896年(明治29年)4月生まれ[7]
  95. ^ 池上・斎藤 (1996) は「古谷は刑事を詐称し、被害者Xを尋問口調でいろいろと質した。Xはその口車に乗せられ、銀行の預金証書などを見せた直後に首を絞められた」と述べている[137]
  96. ^ 明石は斎藤の取材に対し「惣吉は連続殺人を起こす前の8月に対馬に帰ったが、結果的にそれが最後の帰省だった。姉の家に3泊し、実家に2泊してから内地に帰った」と述べている[45]
  97. ^ 古谷は逮捕後、取り調べで「Aの両手を近くにあったロープで縛り上げ、その紐でAの首をぐるぐる巻きにして後ろから締め付けたところ、Aが窒息死した」と述べている[2]
  98. ^ 古谷はAを絞殺した後、Aの死体に布団を2,3枚被せた[2]
  99. ^ a b 古谷は弁護人主張の供述調書で「被害者Aを殺害してから舞子の海岸の建物で止まり、翌朝5時ごろ起きて徒歩で神戸芦屋西宮・旧伊丹街道および高槻を経由し、山崎街道を歩いているうち、21時ごろに鉄橋付近の無人小屋で寝た」と述べた[113]。弁護人は控訴審で「垂水 - 山崎間は約68 kmあり、歩行速度を毎時約4 kmとすると17時間を要するため、食事・休憩時間を入れれば朝5時に垂水を出て歩いても、21時に山崎に着くことは不可能」と主張したが、大阪高裁 (1974) は「出発・到着時間はおおよその者で、途中で乗り物を利用した可能性も完全には否定できないが、古谷は自らも認めるように従来より各地を広く歩き回るなど、健脚で地理にも明るい。また経路からして平地の一般道路を歩行するため、古谷は平均的歩行者の速度よりも多少足早に歩行することができるため、夜に高槻と山崎の間の地点まで達することは全く不可能ではない」と結論付けた[141]
  100. ^ 大津事件の現場にあった指紋は左手中指・薬指の連続指紋、および左手人差し指の指紋の3個[143]
  101. ^ 被害者Cの死因は右心室刺通による外傷性失血死[6]
  102. ^ 同日、古谷は京阪本線の沿線(稲荷駅 - 東福寺駅のほぼ中間)で建設中だった2階建ての家の中(京都市東山区本町17丁目319番地)で就寝した[148]
  103. ^ 福田洋 (1980) はその人物について「鴨川上流の橋の下に住んでいた拾い屋」と述べている[149]
  104. ^ 昭和42年押第235号の31[7]
  105. ^ D事件後に寝泊まりした工事現場の小屋にあったもの[149]
  106. ^ a b 被害者Hは搬送先の付近の病院で間もなく死亡し、被害者Gも13日3時55分に死亡[17]。司法解剖により2人の遺体には多数の傷が確認され、男性Hの遺体は肋骨6本が折れていた[154]。古谷は「小屋に『飯をくれ』と入ったら、2人(GとH)に『泥棒』と叫ばれたのでカッとなって殴った」と供述したが、司法解剖・現場検証の結果、就寝中の2人を突然金槌で殴り殺したことが判明している[154]
  107. ^ 東福岡警察署は現在の東警察署[156]だが、福岡事件の現場となった新宮町を含む糟屋郡は2021年現在、1994年に同署から分離発足した粕屋警察署の管轄である。
  108. ^ Aは1923年に大浜警察署愛知県警察)に強盗で逮捕された前科があった[140]
  109. ^ 後に被害者と判明する男性Aのズボンが福岡事件の現場で発見されたことから、兵庫県警は福岡県警から応援を求められていた[97]
  110. ^ また同日、近畿管区警察局も兵庫・滋賀の両県で発生した事件(垂水事件・大津事件)を重点事件として指定した[130]
  111. ^ 『朝日新聞』 (1965) では「福岡事件・大津事件それぞれの現場に遺留されていた指紋が古谷と合致した。特に、前者は完全に合致していた」と報道しているが、夕刊フクニチ新聞社 (1976) は「福岡事件では満足な遺留指紋がなく、先に他県の分を割り出して指紋照合を行った」と述べている[30]
  112. ^ 同日、滋賀県警も大津事件の被疑者として、京都府警も伏見事件の被疑者として、それぞれ古谷を指名手配した[165]
  113. ^ 安宿・簡易宿泊所・神社・仏閣など[165]
  114. ^ 現場は西宮市(西宮署管内)だったが、同日に小屋を訪れていた芦屋署検索第6班の警察官3人が、芦屋・西宮両市の境界線付近の海岸(=西宮事件の現場付近)で掘立小屋の撤去問題が起きていることを思い出し、顔見知りである防潮堤外の小屋に住む廃品回収業者を訪ねたところ、偶然古谷と鉢合わせした[32]
  115. ^ 残る1人はそのまま現場にとどまった[166]
  116. ^ この時、古谷と鉢合わせた警察官たちは逃亡防止と110番通報のため、1人が古谷とともに電話ボックスに入って所属する芦屋署に通報し、別の1人が外から扉を押さえていた[166]
  117. ^ その後、被害者2人の死亡が確認されたため、容疑は強盗殺人に切り替えられた[168]
  118. ^ 逮捕当時、古谷の所持金はわずか6円だった[169]
  119. ^ なお、古谷は13日3次50分頃から西宮署で記者団と会って質問に答えたが、当時は興奮状態で、開始からわずか3分後に「俺は帰る」と席を立ち、留置場へ戻った[171]
  120. ^ 西宮事件の現場が西宮市内(西宮署の管轄区域)だったため[168]、同署で留置された[注 119][172]
  121. ^ その理由について、夕刊フクニチ新聞社 (1976) は「2人は『無期(懲役)か死刑が確実な凶悪犯を弁護すると、今後の仕事に影響が出る』と考え、古谷の弁護を拒否したのだろう」と述べている[179]
  122. ^ 夕刊フクニチ新聞社 (1976) は、古谷が取り調べに対し非協力的な態度を取り続けた理由について、「動物的な虚勢もあろうが、最も大きかったのは(小田からの)『無料で弁護人になる』という申し込みがあったからだともいう」と述べている[178]
  123. ^ それまでは「古谷君」と呼んでいたものを呼び捨てにしたほか、捜査員の自費による食料の差し入れなども行わなくなった[178]
  124. ^ 滋賀県警は同月29日に事件記録・証拠品を兵庫県警本部に移送し、滋賀県における105号事件の特捜本部を同日付で解散した[185]
  125. ^ しかし、古谷も小田との接見を盗聴されていたことに気づいていたためか、捜査員に対し「あんたらはメモもしてないのに、なぜ昨日俺が話したことを、別の人間も知り尽くしているのだ」と詰め寄ることがあった[177]
  126. ^ 残りは死体遺棄1件、強盗1件および同未遂1件、窃盗・詐欺各3件、暴行横領恐喝傷害]各1件[209]。なお、兵庫県警 (1966) は「強盗殺人8件+窃盗・強盗など10件の計18件」と述べている[210]
  127. ^ 佐久間 (2005) によれば、古谷は否認した殺人6件のうち4件について、「“岡”の単独犯、もしくは“岡”と第三者らによる複数犯だ」「自分が被害者の小屋に行った際、すでに被害者は死亡していた」「小屋に行ったことはあるが、何も知らない」と供述した[215]
  128. ^ 同日は古谷の57歳の誕生日だった[219]
  129. ^ 後に阪神タイガース独身選手寮「虎風荘」の寮長を務めた沼本喜久雄(ぬまもと きくお)[221][222]。捜査一課に15年間勤務し、1970年(当時は川西警察署刑事課所属・巡査部長)には現職警官ながら、阪神球団から寮長としてスカウトされたことで話題になった[220]。1984年没[222]
  130. ^ 「古谷も生来の犯罪者ではない。仮に物質的に豊かで文化的な環境に育っていれば、真っ当な社会人になれていたはずだ」という考えから[227]
  131. ^ その関係者の話によれば、古谷は実母の死後に妹と2人で実母の妹(叔母)に育てられたが、養母となった叔母から継子いじめを受け、食事も十分に食べさせてもらえないような家庭環境で生育した[235]
  132. ^ 藤田の著書中では実名を伏せ、姓のイニシャル「F」と表記されている[232][238]。なお藤田 (2008) ではその死刑囚「F」について「2か月足らずのうちに強盗目的で8名を殺害した。ほかに4名の殺害容疑があったが、それらは証拠不十分で不起訴になった」[238]「犯行から20年目に死刑を執行された」と述べている[239]
  133. ^ 藤村は1957年・大阪市生まれ[241]。銃刀法違反(拳銃所持)などで起訴され、1989年に出所するまで大阪拘置所の五舎四階(死刑囚および死刑・無期懲役判決を受け上訴中の被告人が収監されていた舎房)に収監されていた[242]。その後、出所後の1990年からカード詐欺に手を染めて大量カード奪取事件・2億円宝石盗難事件により1993年に逮捕され、1997年時点で拘留中だった[241]
  134. ^ 藤村 (1997) は実名を伏せ「本に書かれている人で、バタ屋(くず拾い)を8人か9人殺している老人」と述べている[243]
  135. ^ 藤田は自著 (2007) で「当時の大阪拘置所では死刑執行があった際に収監中の死刑囚たちが拘置所内の仏間に集まって供養する『極刑囚集会』が開かれていたが、その集会は古谷が分解した鋏を隠し持って反目していた死刑囚を襲撃し重傷を負わせた事件がきっかけで廃止になった」と述べている[246]
  136. ^ 被害者の死刑囚のうち1人(当時39歳)は1979年4月17日に死刑確定[247]。(古谷の処刑から2年後の)1987年9月30日に大阪拘置所で死刑を執行された[248]
  137. ^ 村野薫 (2002) は「鋏で襲い1週間の怪我を負わせた事件」と述べている[245]。また藤田は自著 (2008) で「F(古谷)は担当職員から借りた鋏の留め金を外して2つに分解したものを隠し持ち、職員のわずかなスキを狙って集会室でほかの死刑囚を襲い、相手の首筋を刺して重傷を負わせた」と述べている[249]
  138. ^ 藤田 (2008) は「首筋を狙ったのは明らかに確固たる殺意を持っての襲撃であり、普通ならこの事件は傷害または殺人未遂で事件送致されるものだ」と述べている[249]
  139. ^ 藤村 (1997) は「好々爺(古谷)は当時処刑順位が第1位(次の死刑執行で処刑される予定)だった」と述べている[243]
  140. ^ 藤村 (1997) は「古谷の狙いそのものは間違っていなかったが、少なくとも1人を確実に殺さなかったことは誤算だった。もし同事件で被害者が死亡していれば、(同事件は)不起訴にはならず裁判に掛けられ、判決が確定するまで死刑執行を遅延させることができた」と述べている[243]
  141. ^ 古谷と同日に名古屋拘置所で死刑を執行された死刑囚は1978年4月の上告審判決で死刑が確定しており、それから7年が経過した当時も再審請求を行っていなかったため、死刑執行が近いと予想されていた[251]
  142. ^ 2006年(平成18年)12月25日には、長勢甚遠法務大臣が発した死刑執行命令により、東京拘置所で古谷より高齢の死刑囚2人(今市4人殺傷事件の死刑囚〈当時75歳〉と、77歳の死刑囚)が死刑を執行されている[253]
  143. ^ 「厚恩を~」と書かれた古谷からの手紙が元刑事宛てに送られた時期は、福田 (1980) では「(1980年5月から)半年ほど前」[255]、福田 (1999) では「死刑執行の5年前(1980年)」となっている[256]
  144. ^ 斎藤は志多留集落で、古谷家と親しくしていた高齢女性(当時86歳)に取材したところ、「惣吉の遺骨は古谷家の寺には入っていないはずだ」と回答を得た。また、古谷家の墓がある曹洞宗の寺(無住寺)を管理している「桂臨寺」の住職から過去帳を見せてもらったが、1985年(昭和60年)に志多留で死去した人(計8人)の中に惣吉の名前はなく、住職自身も斎藤に対し「惣吉は古谷家に大変迷惑をかけたから、遺骨は(遺族に)引き取ってもらえず、大阪拘置所の墓に埋葬されているだろう」と回答している[259]
  145. ^ 1921年(大正10年)6月2日深夜、東京・東大久保で、東京市電の運転手を務めていた李判能が、隣部屋や離れたところに住んでいた日本人の同僚宅を玄能で襲い、さらに翌朝、牛込町付近で通行人を次々と襲撃した[262]。一連の事件で7人が死亡し、10人が重傷を負った(うち2軒の同僚宅襲撃で6人が死亡、3人が重傷)[262]。李は事件の3年前である1918年(大正7年)に朝鮮から日本に渡り、東京市電の運転手をしていたが、事あるごとに対立して喧嘩となり、その原因を「朝鮮人へのいわれのない差別」として恨みを募らせた末、最終的には「日本人が朝鮮人を圧迫し、理由もなく苦しめる。警察に訴えても不公平な扱いばかりをする。広く知らせるためには世の注意を引くようなことをしなければだめだ」と犯行におよんだ[262]。1923年(大正12年)2月27日、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡されている[263]

出典

  1. ^ a b c d e f g 読売新聞』1985年6月1日東京朝刊第14版第二社会面22頁「【大阪】老人8人連続殺人鬼 古谷に死刑執行」(読売新聞東京本社
  2. ^ a b c d e 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 169.
  3. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 160–161.
  4. ^ a b c d e f 『読売新聞』1971年2月16日東京夕刊第4版第二社会面8頁「【神戸】“連続殺人魔”古谷に死刑求刑」(読売新聞東京本社)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 刑事裁判資料 1981, p. 111.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 刑事裁判資料 1981, p. 112.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 刑事裁判資料 1981, p. 113.
  8. ^ a b c d e f g 最高裁第三小法廷 1978, p. 1.
  9. ^ a b c d e 毎日新聞』1971年4月1日夕刊第4版第一社会面9頁「【神戸】神戸地裁 殺人鬼・古谷に死刑」(毎日新聞社
  10. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 140.
  11. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 153–154.
  12. ^ a b c d e f g h i 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 146.
  13. ^ a b 刑事裁判資料 1981, pp. 111–113.
  14. ^ a b c d 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 323.
  15. ^ a b c d e f 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 174.
  16. ^ a b c 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第14版第一社会面15頁「連続殺人鬼「古谷」つかまる 芦屋(兵庫)で第六の凶行 二人を殺した現場で “金ほしさ”と自供」(読売新聞東京本社)
  17. ^ a b c d e 『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一総合面1頁「連続殺人 容疑者古谷 西宮で逮捕 また二人を打殺す 海岸の小屋を襲って 巡回三警官お手柄」(朝日新聞西部本社
  18. ^ 『中日新聞』1965年12月13日朝刊第11版第一社会面15頁「西日本連続殺人 容疑者 古谷惣吉を逮捕 芦屋の掘立小屋で 新たに浮浪者二人を傷害 京都の老人殺しも 現場指紋つぎつぎ」(中日新聞社)
  19. ^ 『西日本新聞』1965年12月13日朝刊第19版一面1頁「【西宮】連続殺人鬼 古谷を西宮で逮捕 深夜、第六の犯行直後に 海岸の小屋で殺傷 逃げ出したところを格闘 “一〇五号警戒”の勝利 自供始む」「【西宮】逮捕されてニヤリ “大てがらだな”」(西日本新聞社)
  20. ^ a b c 『毎日新聞』1965年12月13日東京朝刊第13版一面1頁「【西宮】 連続殺人の「古谷」逮捕 西宮で また二人殺傷の直後 六人殺し一人に傷害」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1965年(昭和40年)12月号317頁
  21. ^ 週刊サンケイ 1966, p. 17.
  22. ^ 教育社 1993, p. 554.
  23. ^ 『毎日新聞』1971年2月16日夕刊第4版第一社会面7頁「八人殺しに死刑 『悪鬼のようだ』と求刑 古谷 神戸地裁」(毎日新聞社)
  24. ^ a b c d e f 『毎日新聞』1974年12月13日夕刊第4版第二社会面10頁「高裁も死刑支持 西日本連続殺人の『古谷』」(毎日新聞社)
  25. ^ a b c 免田栄 2004, p. 92.
  26. ^ 第2編/第4章/第1節/4 安定期―昭和40年~49年”. 昭和51年版 犯罪白書. 法務省 (1976年). 2013年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月10日閲覧。
  27. ^ a b c 更生保護 1966, p. 40.
  28. ^ 兵庫県警察 1999, p. 788.
  29. ^ a b c d e 中日新聞』1985年6月1日朝刊第12版第一社会面23頁「独居老人ら8人殺し 古谷の死刑執行」(中日新聞社
  30. ^ a b c d e 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 314.
  31. ^ a b c d 福田洋 1999, p. 28.
  32. ^ a b c 兵庫県警察 1999, p. 314.
  33. ^ a b c d e f 刑事裁判資料 1981, p. 109.
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”幼少から放浪癖 四つで母親と死別 おじの家で育つ 14年前にも連続殺人」(読売新聞東京本社)
  35. ^ a b c d e 『読売新聞』1971年4月1日東京夕刊第4版第一社会面9頁「【神戸】連続殺人 『古谷』に死刑の判決“史上例のない残忍さ”」(読売新聞東京本社)
  36. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 148–150.
  37. ^ a b c d e 佐木隆三 1992, p. 152.
  38. ^ a b c d e f g h i 朝日新聞』1965年12月13日大阪朝刊第15版第一社会面15頁「【厳原】古谷 親類までおどす」(朝日新聞大阪本社
  39. ^ a b 『対馬新聞』1965年12月15日付発行「殺人魔古谷捕まる 八月に歸郷し 親戚を訪ねる 上県町生れの前科八犯」(対馬新聞社)
  40. ^ a b c d 刑事裁判資料 1981, p. 116.
  41. ^ a b c d e f 週刊サンケイ 1966, p. 18.
  42. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 322.
  43. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 147.
  44. ^ a b 佐木隆三 1992, p. 153.
  45. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 150.
  46. ^ 刑事裁判資料 1981, pp. 109–110.
  47. ^ a b c d e f g h i j k l 刑事裁判資料 1981, p. 110.
  48. ^ a b c d e 更生保護 1966, p. 42.
  49. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 322–323.
  50. ^ a b c d 週刊サンケイ 1966, p. 19.
  51. ^ 『毎日新聞』1965年12月13日朝刊第13版第二社会面14頁「【福岡・熊本・対馬】犯人の『古谷』 犯行-服役-出所繰り返す」(毎日新聞社)
  52. ^ a b c d e f g h i j 更生保護 1966, p. 41.
  53. ^ a b c d 佐木隆三 1992, p. 154.
  54. ^ a b c d 『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版1第一社会面15頁「【福岡】福岡県警の鹿子生さん 古谷と宿命の対決 これで三度目に」(朝日新聞西部本社)
  55. ^ a b c d e f g h i 週刊新潮 1965, p. 124.
  56. ^ a b 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 312–313.
  57. ^ 石田郁夫 1979, p. 93.
  58. ^ a b c d e f g h 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 153.
  59. ^ a b c d e f g h i j k 最高裁 1983, p. 670.
  60. ^ a b c d 佐久間哲 2005, p. 176.
  61. ^ a b c d e f 『西日本新聞』1951年7月28日朝刊3頁「バタ屋殺し捕る “小金欲しさ”」(西日本新聞)
  62. ^ a b c d e 田島惠三 1997, p. 40.
  63. ^ a b c d e f g h 免田栄 2004, p. 91.
  64. ^ 田島惠三 1997, p. 216.
  65. ^ 田島惠三 1997, p. 34.
  66. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1951年11月7日西部夕刊第3版2頁「バタ屋殺し死刑判決」(朝日新聞西部本社)
  67. ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』1955年6月16日西部夕刊第5版3頁「バタ屋殺し判決 無期求刑から懲役10年 主犯死刑で確証なし」(朝日新聞西部本社)
  68. ^ a b c d 死刑事件判決総索引 1981, p. 108.
  69. ^ a b 田島惠三 1997, pp. 39–40.
  70. ^ 『朝日新聞』1951年5月25日西部朝刊第5版3頁「他殺?バタ屋風の死体」(朝日新聞西部本社)
  71. ^ 坂田大『改訂版 福岡市の町名』1990年7月5日発行(初版:1983年9月5日発行)、60-63頁
  72. ^ a b c d e 『朝日新聞』1965年12月13日西部夕刊第6版第一社会面7頁「古谷 盲点ついた戦前型犯罪 超人的―歩いて出没 体力十分、新聞も読まず」(朝日新聞西部本社)
  73. ^ a b c d 最高裁 1983, p. 671.
  74. ^ a b c d 『西日本新聞』1951年7月31日朝刊2頁「福岡のバタ屋殺し 八幡の山小屋殺人も自供」(西日本新聞社)
  75. ^ a b c d 西日本新聞』1951年11月7日夕刊2頁「強盗殺人に死刑判決」(西日本新聞社
  76. ^ a b c d e 『西日本新聞』1955年6月16日夕刊第7版第一社会面3頁「バタヤ殺しに10年 共犯は死刑・否認のまま判決」(西日本新聞社)
  77. ^ 田島惠三 1997, p. 60.
  78. ^ 田島惠三 1997, p. 75.
  79. ^ 田島惠三 1997, p. 92.
  80. ^ 田島惠三 1997, p. 220.
  81. ^ 免田栄 2004, pp. 91–92.
  82. ^ 田島惠三 1997, pp. 145–146.
  83. ^ 免田栄 2004, pp. 64–65.
  84. ^ 免田栄 2004, p. 88.
  85. ^ a b c d e f g 週刊新潮 1965, p. 125.
  86. ^ a b 神戸サンケイ新聞社 1978, p. 195.
  87. ^ a b c 兵庫県警察 1999, p. 312.
  88. ^ a b 『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一社会面15頁「【京都】14年前の元教員殺しも?」(朝日新聞西部本社)
  89. ^ a b c 神戸サンケイ新聞社 1978, p. 196.
  90. ^ a b c 西宮市警察局 1954, p. 108.
  91. ^ a b 神戸サンケイ新聞社 1978, pp. 195–196.
  92. ^ 西宮市警察局 1954, pp. 107–108.
  93. ^ 石田郁夫 1971, p. 193.
  94. ^ a b c d e f 神戸サンケイ新聞社 1978, p. 198.
  95. ^ a b c d e 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 154.
  96. ^ 兵庫県警察 1999, pp. 312–313.
  97. ^ a b c 兵庫県警察 1999, p. 313.
  98. ^ 週刊新潮 1965, pp. 124–125.
  99. ^ a b c d 刑事裁判資料 1981, p. 127.
  100. ^ 「刑事決定(1) (昭和31年)2月3日 第二小法廷 昭和30年(あ)第3369号 強盗殺人、窃盗 古谷惣吉」『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和31年2月分』、最高裁判所事務総局、8頁。  - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第112号(昭和31年1月 - 3月)の付録。NDLJP:1349141/506国立国会図書館書誌ID:000001203693
  101. ^ a b c 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 324.
  102. ^ a b 『毎日新聞』1965年12月13日東京朝刊第13版第二社会面14頁「【福岡】犯人の『古谷』 凶暴、すぐに腕力 14年前にも二人を殺す」「【福岡、熊本、対馬】犯行…服役…出所くりかえす」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1965年(昭和40年)12月号330頁
  103. ^ 更生保護 1966, pp. 41–42.
  104. ^ 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”案外よい身だしなみ」(読売新聞東京本社)
  105. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 178.
  106. ^ a b 石田郁夫 1979, p. 98.
  107. ^ 石田郁夫 1971, p. 198.
  108. ^ a b c d e f g h 更生保護 1966, p. 43.
  109. ^ 更生保護 1966, pp. 42–43.
  110. ^ a b c d e f 更生保護 1966, p. 44.
  111. ^ a b 『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一総合面1頁「連続殺人 容疑者古谷 西宮で逮捕 【熊本】五月まで熊本にいた古谷」(朝日新聞西部本社)
  112. ^ 更生保護 1966, pp. 43–44.
  113. ^ a b c d 刑事裁判資料 1981, p. 149.
  114. ^ 刑事裁判資料 1981, p. 115.
  115. ^ 刑事裁判資料 1981, p. 152.
  116. ^ 刑事裁判資料 1981, p. 147.
  117. ^ a b c d e f g 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 145.
  118. ^ 坂田大『改訂版 福岡市の町名』235頁
  119. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 155.
  120. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 156.
  121. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 160.
  122. ^ a b c d e f 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 159.
  123. ^ a b c 滋賀県警察 1968, p. 1105.
  124. ^ 山田剛史、広谷博史「水浴場の糞便汚染の変動とバクテリオファージを用いた汚染源の推定」『陸水研究』第1巻、日本陸水学会近畿支部会、2014年3月14日受付、18頁、 オリジナルの2020年3月9日時点におけるアーカイブ、2020年3月9日閲覧 
  125. ^ a b 刑事裁判資料 1981, pp. 155–156.
  126. ^ 坂田大『改訂版 福岡市の町名』23-24頁
  127. ^ a b c d e f 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 161.
  128. ^ a b c 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 165.
  129. ^ a b 『朝日新聞』1965年12月12日西部朝刊第16版第一総合面1頁「【京都】京都でも連続犯行か 老人二人の死体見つかる」(朝日新聞西部本社)
  130. ^ a b c d e f 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 162.
  131. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 165–166.
  132. ^ a b c 福田洋 1980, p. 148.
  133. ^ 福田洋 1980, p. 150.
  134. ^ a b c d 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 167.
  135. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 315.
  136. ^ a b c 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 143.
  137. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 145–146.
  138. ^ 『朝日新聞』1966年1月14日東京夕刊第3版第一社会面7頁「【福岡】福岡でも強盗 古谷自供」(朝日新聞東京本社
  139. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 155–156.
  140. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 157.
  141. ^ 刑事裁判資料 1981, pp. 148–149.
  142. ^ 刑事裁判資料 1981, p. 148.
  143. ^ a b 『毎日新聞』1965年12月13日東京朝刊第13版第一社会面15頁「【福岡、滋賀】 モンタージュが手掛り」(毎日新聞東京本社)
  144. ^ a b c 『朝日新聞』1965年12月12日西部朝刊第16版第一総合面1頁「【福岡】連続殺人事件 有力な容疑者浮ぶ 現場(福岡・滋賀)指紋合う 福岡県警 割出した古谷」(朝日新聞西部本社)
  145. ^ a b 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 308–309.
  146. ^ 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”九月、四国に現われる」(読売新聞東京本社)
  147. ^ 福田洋 1980, pp. 204–205.
  148. ^ 福田洋 1980, pp. 205–206.
  149. ^ a b c 福田洋 1980, p. 205.
  150. ^ 刑事裁判資料 1981, pp. 141–142.
  151. ^ 刑事裁判資料 1981, pp. 112–113.
  152. ^ 刑事裁判資料 1981, pp. 152–153.
  153. ^ 刑事裁判資料 1981, p. 153.
  154. ^ a b 『朝日新聞』1965年12月14日西部朝刊第16版第一社会面15頁「【西宮】西宮の殺人 なぐって踏殺す? 解剖結果 古谷、就寝中襲う」(朝日新聞西部本社)
  155. ^ a b サンデー毎日 1965, p. 115.
  156. ^ 福岡県警察 1993, p. 517.
  157. ^ a b 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 310.
  158. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 310–311.
  159. ^ a b c 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 311.
  160. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 311–312.
  161. ^ a b 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 312.
  162. ^ a b c d 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 313.
  163. ^ 『朝日新聞』1965年12月10日大阪朝刊第15版第一社会面15頁「【神戸・大津】難航の連続殺人捜査 三県警 関連性追及に全力」(朝日新聞大阪本社)
  164. ^ a b c d e f g 神戸新聞』1965年12月13日朝刊一面1頁「連続殺人犯、西宮で逮捕 二人を殺傷した直後 前科七犯、指名手配の古谷」(神戸新聞社
  165. ^ a b 福岡県警察 1993, p. 520.
  166. ^ a b 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 316.
  167. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 316–317.
  168. ^ a b c d e f 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 317.
  169. ^ 佐久間哲 2005, p. 175.
  170. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 144.
  171. ^ 『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一総合面1頁「【西宮】連続殺人 容疑者古谷 西宮で逮捕 記者団と一問一答」(朝日新聞西部本社)
  172. ^ 『神戸新聞』1965年12月13日朝刊一面1頁「連続殺人犯、西宮で逮捕 興奮しては…ケロリ 異常性格をのぞかせる」(神戸新聞社)
  173. ^ 『朝日新聞』1965年12月15日大阪朝刊第15版第一社会面15頁「連続殺人、全事件の確証そろう 着衣と足跡から 古谷の自供待たず」(朝日新聞大阪本社)
  174. ^ 福田洋 1980, p. 146.
  175. ^ 福田洋 1980, p. 151.
  176. ^ 福田洋 1980, pp. 186–187.
  177. ^ a b c d 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 320.
  178. ^ a b c d e 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 318.
  179. ^ a b c 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 319.
  180. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, pp. 318–319.
  181. ^ a b 『朝日新聞』1965年12月28日西部夕刊第6版第二社会面6頁「古谷、強殺で起訴 移送に不敵な笑い まず『西宮事件』で」(朝日新聞西部本社)
  182. ^ 『西日本新聞』1965年12月28日夕刊第9版第一社会面7頁「【神戸】古谷、西宮事件で起訴」「【神戸】身柄を兵庫県警へ移す」(西日本新聞社)
  183. ^ 福田洋 1980, pp. 170–173.
  184. ^ 福田洋 1980, pp. 174–175.
  185. ^ a b 滋賀県警察 1968, p. 1108.
  186. ^ 福田洋 1980, pp. 182–183.
  187. ^ 福田洋 1980, pp. 184–185.
  188. ^ 福田洋 1980, p. 186.
  189. ^ 福田洋 1980, p. 187.
  190. ^ 福田洋 1980, pp. 187–188.
  191. ^ a b 福田洋 1980, p. 194.
  192. ^ 福田洋 1980, p. 196.
  193. ^ 福田洋 1980, pp. 197–198.
  194. ^ 福田洋 1980, p. 199.
  195. ^ 福田洋 1980, p. 203.
  196. ^ a b c 福田洋 1980, p. 211.
  197. ^ 福田洋 1980, pp. 211–212.
  198. ^ 福田洋 1980, p. 212.
  199. ^ 福田洋 1980, pp. 151–152.
  200. ^ a b c 福田洋 1980, p. 155.
  201. ^ 福田洋 1980, p. 153.
  202. ^ 福田洋 1980, p. 154.
  203. ^ a b 福田洋 1980, p. 152.
  204. ^ 福田洋 1980, pp. 152–153.
  205. ^ 福田洋 1980, pp. 210–211.
  206. ^ a b c d 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 321.
  207. ^ 『朝日新聞』1966年7月2日東京夕刊第3版第一社会面11頁「京都の殺人は時効 古谷の決め手つかめず」(朝日新聞東京本社)
  208. ^ 福田洋 1980, pp. 212–213.
  209. ^ a b c 福田洋 1980, pp. 213–215.
  210. ^ 兵庫県警察 1966, p. 124.
  211. ^ a b 福田洋 1980, p. 215.
  212. ^ a b c 『読売新聞』1966年6月29日東京夕刊第11版第二社会面11頁「【神戸】“殺人魔”古谷の初公判開く」(読売新聞東京本社)
  213. ^ a b 『神戸新聞』1966年6月29日夕刊第4版第一社会面7頁「連続殺人の古谷初公判 殺害事実は認める」「古谷 でたらめだ…と憤然 “殺害動機”で詰め寄る」(神戸新聞社)
  214. ^ a b c 京都新聞』1971年4月1日夕刊第6版一面1頁「西日本連続殺人 古谷に死刑判決 神戸地裁「極悪非道な犯罪」」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1971年(昭和46年)4月号29頁。
  215. ^ 佐久間哲 2005, pp. 175–176.
  216. ^ a b c d 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 325.
  217. ^ a b c 『京都新聞』1971年4月1日夕刊第6版第一社会面11頁「古谷、狂暴性むき出し 傍聴へ「この野郎」 “入廷”撮影され興奮」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1971年(昭和46年)4月号29頁。
  218. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 175.
  219. ^ 福田洋 1980, p. 217.
  220. ^ a b 週べ60周年記念 太田殿下故郷に帰る/週ベ回顧(1970年8月31日号)」『週刊ベースボールベースボール・マガジン社、2020年2月17日。2020年4月28日閲覧。オリジナルの2020年4月28日時点におけるアーカイブ。
  221. ^ 『人名よみかた辞典 姓の部 新訂第3版』(第1刷発行)日外アソシエーツ(編集・発行)、2004年9月27日、342頁。ISBN 978-4816918636 
  222. ^ a b 『日本著者名・人名典拠録 新訂増補第3版―75万人収録―』 3(に~ん)(第1刷発行)、日外アソシエーツ(編集・発行 / 発行人:大高利夫)、2012年5月25日、106頁。ISBN 978-4816923586 
  223. ^ a b 週べ60周年記念 野村克也監督は二刀流が好きだった?/週べ回顧(1971年3月8日号)」『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2020年4月6日。2020年4月28日閲覧。オリジナルの2020年4月28日時点におけるアーカイブ。
  224. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 177.
  225. ^ 『神戸新聞』1971年4月12日夕刊第5版第一社会面11頁「西日本連続殺人 古谷が控訴」(神戸新聞社)
  226. ^ 福田洋 1980, p. 218.
  227. ^ a b 福田洋 1980, p. 219.
  228. ^ 『読売新聞』1971年12月13日東京夕刊第4版第二社会面10頁「【大阪】8人殺しの『古谷』 控訴審も死刑」(読売新聞東京本社)
  229. ^ 『読売新聞』1978年11月28日東京夕刊第4版第二社会面10頁「『古谷』の死刑確定 老人8人殺人」(読売新聞東京本社)
  230. ^ 最高裁第三小法廷 1978.
  231. ^ 『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和54年1月分』(最高裁判所事務総局)21頁「古谷惣吉 1979年1月26日 第三小法廷 判決訂正申立棄却決定 昭和53年(み)第7号 強盗殺人、強盗、強盗未遂」 - 集刑第214号の付録。
  232. ^ a b c 藤田公彦 2007, pp. 52–54.
  233. ^ 夕刊フクニチ新聞社 1976, p. 326.
  234. ^ 『毎日新聞』1977年1月6日大阪朝刊神戸市内版16頁「“死刑囚”に愛の定期便 元刑事が差入れ 涙流す殺人犯・古谷 凍った心温めて6年間」(毎日新聞大阪本社・神戸支局) - 神戸市立中央図書館に蔵書。
  235. ^ 前坂俊之 1993, p. 76.
  236. ^ 前坂俊之 1993, pp. 76–77.
  237. ^ 前坂俊之 1993, pp. 77–78.
  238. ^ a b 藤田公彦 2008, p. 26.
  239. ^ 藤田公彦 2008, p. 48.
  240. ^ 藤田公彦 2008, pp. 27–28.
  241. ^ a b 藤村昌之 1997, p. 198.
  242. ^ 藤村昌之 1997, p. 199.
  243. ^ a b c d e f g h 藤村昌之 1997, p. 200.
  244. ^ FOCUS』第1巻第9号、新潮社、1981年11月27日、24頁。  - 1981年11月27日号(通巻:第9号)
  245. ^ a b 村野薫 2002, p. 26.
  246. ^ 藤田公彦 2007, pp. 56–58.
  247. ^ a b 村野薫 2006, p. 141.
  248. ^ 村野薫 2006, p. 238.
  249. ^ a b c 藤田公彦 2008, p. 47.
  250. ^ a b c 『朝日新聞』1985年6月1日東京朝刊第一社会面23頁「強盗殺人犯、古谷の死刑を執行 大阪拘置所」(朝日新聞東京本社)
  251. ^ a b c 『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』(1986年8月28日初版発行)6頁「愛知の資産家一家コンクリート詰め殺人事件」(村野薫)
  252. ^ 佐久間哲 2005, p. 177.
  253. ^ 『読売新聞』2006年12月25日東京夕刊一面1頁「4人の死刑執行 昨年9月以来、3拘置所で」(読売新聞東京本社)
  254. ^ 佐久間哲 2005, p. 173.
  255. ^ 福田洋 1980, p. 220.
  256. ^ a b c 福田洋 1999, p. 29.
  257. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, p. 142.
  258. ^ 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 148–151.
  259. ^ a b 池上正樹 & 斎藤充功 1996, pp. 150–152.
  260. ^ a b 石田郁夫 1979, p. 107.
  261. ^ 前坂俊之 1985, p. 167.
  262. ^ a b c 前坂俊之 1985, p. 141.
  263. ^ 前坂俊之 1985, p. 142.
  264. ^ 前坂俊之 1985, pp. 168–169.






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古谷惣吉連続殺人事件」の関連用語

古谷惣吉連続殺人事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古谷惣吉連続殺人事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの古谷惣吉連続殺人事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS