記紀
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 18:37 UTC 版)
記紀のうち、『古事記』には、神器(神から受け伝える宝器)またはそれに類するものの伝承はあるものの、格別に天皇践祚に際してとなると目に付く記事は無い。しかし『日本書紀』には以下のように記載されている。 ※原文の表記について、文字は旧字体、約物は現代の補足。書き下し文の表記について、文字は新字体、振り仮名は歴史的仮名遣。卷第十三 允恭天皇元年十二月条 ── 《 原 文 》 爰大中姬命仰歡、則謂群卿曰「皇子將聽群臣之請、今當上天皇璽符。」於是、群臣大喜、卽日捧天皇之璽符、再拜上焉。 《書き下し文》 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}爰(ここ)に大中姫命(おほなかつひめのみこと) 仰(あふ)ぎ歓(よろこ)び、則(すなは)ち群卿(まちきむたち) に謂(い)ひて「皇子(みこ)、群臣(まへつきみたち) の請(ねがひ)を聴(ゆる)したまひて、今(いま)当(まさ)に天皇(すめらみこと)の璽符(みしるし)を上(たてまつ)るべし。」と曰(のたま)ふ。是(ここ)に、群臣(まへつきみたち) 大(おほい)に喜(よろこ)びて、即(そ)の日(ひ)、天皇(すめらみこと)の璽符(みしるし)を捧(ささ)げて、再拝(をが)みて上(たてまつ)る。 卷第十五 清寧天皇前記十月(雄略天皇廿三年十月)条 ── 《 原 文 》 (...略...)大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子。 《書き下し文》 大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)、臣(おみ)・連(むらじ)等(ら)を率(ゐ)て、璽(しるし)を皇太子(ひつぎのみこ) に奉(たてまつ)る。 卷第十五 顯宗天皇前記十一月(清寧天皇五年十一月)条 ── 《 原 文 》 (...略...)百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、(...略...)。 《書き下し文》 百官(もものつかさ)大(おほい)に会へり、皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)、天皇(すめらみこと)の璽(みしるし)を取りて、天皇(すめらみこと)の坐(みまし) に置きたまふ、 卷第十七 繼體天皇元年二月条 ── 《 原 文 》 大伴金村大連、乃跪、上天子鏡劒璽符、再拜。(...略...)乃受璽符、是日、卽天皇位。 《書き下し文》 大伴金村大連(おおとものかなむらのおほむらじ)、乃(すなは)ち跪(ひざまづ)きて天子(みかど)の鏡(みかがみ)・剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上(たてまつ)りて再拝(をが)みたてまつる。(...略...)乃(すなは)ち璽符(みしるし)を受(う)く。是(こ)の日に、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。 卷第十八 宣化天皇前記十二月(安閑天皇二年十二月)条 ── 《 原 文 》 群臣奏上劒鏡於武小廣國押盾尊、使卽天皇之位焉。 《書き下し文》 群臣(まへつきみたち)、奏(そう)して、剣(みはかし)・鏡(みかがみ)を武小広国押盾尊(たけをひろくにおしたてのみこと)に上(たてまつ)りて、即天皇之位(あまつひつぎしろしめ)さしむ。 卷第廿二 推古天皇前記十一月条 ── 《 原 文 》 百寮上表勸進至于三、乃從之、因以奉天皇璽印。 《書き下し文》 百寮(もものつかさ)、表(まうしぶみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめまつ)る。三(みたび)に至(いた)りて、乃(すなは)ち従(したが)ひたまふ。因(よ)りて天皇(すめらみこと)の璽印(みしるし)を奉(たてまつ)る。 卷第廿三 舒明天皇元年正月条 ── 《 原 文 》 (...略...)大臣及群卿、共以天皇之璽印、獻於田村皇子。 《書き下し文》 大臣(おほおみ)及び群卿(まちきむたち)、共に天皇(すめらみこと)の璽印(みしるし)を以(もち)て、田村皇子(たむらのみこ)に献(たてまつ)る。 卷第廿五 孝德天皇前記六月条 ── 《 原 文 》 天豐財重日足姬天皇、授璽綬禪位。 《書き下し文》 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、璽綬(みしるし)を授(さづ)けたまひて位(みくらゐ)を禅(ゆづ)りたまふ。 【参考:卷第廿七 天智天皇七年是歳条 ── 新羅の僧による草薙剣盗難事件が起こる。】 卷第卅 持統天皇四年正月条 ── 《 原 文 》 (...略...)物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。 《書き下し文》 物部麻呂朝臣(もののべのまろのあそみ)、大盾(おほたて)を樹(た)て、神祇伯(かむづかさのかみ)の中臣大嶋朝臣(なかとみのおほしまのあそみ)、天神寿詞(あまつかみのよごと) を読み、畢(をわ)りて忌部宿禰色夫知(いみべのすくねしこぶち)、神璽(かみのしるし)の剣(みはかし)・鏡(みかがみ)(※異説では、神璽(かみのしるし)・剣(みはかし)・鏡(みかがみ))を皇后(きさき)に奉上(たてまつ)り、皇后(きさき)、天皇(すめらみこと)の位(みくらゐ)に即(つ)く。
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記紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:35 UTC 版)
日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那藝剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那藝剣(大刀)とのみ記される。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:33 UTC 版)
仲哀天皇元年 - 仲哀天皇が妻の神功皇后と九州の熊襲(くまそ)の平定のために関門海峡へ進軍。翌年、穴戸の国(長門国)に豊浦宮(御所)を置いた(今の忌宮神社の場所)。 仲哀天皇8年9月 - 仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征伐のため博多の香椎宮を訪れる。そこで、神懸かりした神功皇后から「新羅を攻めよと天照大神と住吉三神のお告げ(ご信託/託宣)を受けたものの、仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行う。しかし、ご信託の通り天皇軍は敗北し撤退。さらに翌、仲哀天皇9年2月、仲哀天皇自身が筑紫で熊襲の矢に打たれ崩じた。遺体は武内宿禰により海路穴門(※当時は関門海峡の一部は繋がっており、そこに巨大な穴が空いていて潮が行き来していたという説がある)を通って豊浦宮で殯された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:52 UTC 版)
『古事記』と『日本書紀』(本文)の相違で、『古事記』では伊弉冉尊(いざなみのみこと)は火の神(火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ))を生み火傷を負い亡くなるが、『日本書紀』(本文)では別の筋書きになっており伊弉冉尊は死ぬことなく生きていく。このため、伊弉諾尊が死後の伊弉冉尊に会いに黄泉国を訪問する神話は、『日本書紀』においては本文から逸れ「一書」についての記述となる。 『古事記』は黄泉国から脱出した後、禊をする直前に伊弉諾尊の身に着けていた諸々から成る。 『日本書紀(一書)』は黄泉国から逃げる途中、伊弉冉尊と対峙し決別の誓いをたてた後、伊弉諾尊の身に着けていた諸々から成る。 神話は道俣神と開囓神の箇所のみ。詳細は「神生み」を参照。
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