角牟礼城跡とは? わかりやすく解説

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角牟礼城跡

名称: 角牟礼城跡
ふりがな つのむれじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 大分県
市区町村 玖珠郡玖珠町
管理団体
指定年月日 2005.03.02(平成17.03.02)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 角牟礼城跡は、大分県西部位置する玖珠盆地北側にあり、標高577mの角埋山山頂部築かれ城跡であり、玖珠盆地から豊前抜け交通の要衝地に立地する三方急峻な斜面囲まれ角埋山は、天然要害と呼ぶにふさわしい切立った険し岩盤露出し古くから石垣のある山城として知られていた。
城跡は、『豊後国志によれば久寿年間(1154~56)に源為朝築城したと伝えるが定かでなく、史料的には「志賀文書」に見え文明7年(1475)が初見である。玖珠盆地は、平安時代から豊後清原氏につながる小田氏返氏、森氏といった玖珠郡衆といわれる武士団によって支配され戦国時代にはこれらの国衆国侍12人おり、盆地周辺築かれた城を共同管理していたとされる天正年間島津氏侵攻に際しては、角牟礼城玖珠郡衆共同立て籠もり守ったとされ、戦国末期地域における拠点城郭であったことがわかる。文禄2年(1593)の大友氏改易により、玖珠を含む豊後国豊臣秀吉蔵入地となり、慶長5年1600)まで秀吉直臣であった毛利高政角牟礼城入城し領地支配蔵入地管理当たったとされている。
平成4年搦手門地区野面積み石垣存在確認により、この城の価値見直しが行われ、玖珠町教育委員会により平成5年度から3箇年発掘調査実施された。その結果本丸地区からは北側石垣隅部で跡を、南側では幅約4m石段虎口検出した跡は毛利氏時代石垣築き、その隅部に造ったのであることが確認された。大手門地区では、桁行約9m、梁行約4.5mの礎石建物門跡検出された。門は、瓦の出土瓦葺きであったことが確認され、扉と思われる位置からかんぬき金具出土している。また、二の丸地区からは桁行5間、梁行3間の礎石建物搦手門地区からは瓦を伴った大手門地区同規模の門跡検出された。搦手門地区石垣は、高さ約7m、長さ100mに及び、穴太積といわれる石積み技法築かれたものである出土遺物としては、輸入陶磁器国産陶磁器などが中心いずれも16世紀後半代が主であり、一部17世紀初頭のものが入っており、毛利氏居城した時期重なる。
角牟礼城跡が位置する地区は、江戸時代森藩久留島氏城下町であり、角埋山南山地域一帯には陣屋武家屋敷跡が配置され往時庭園屋敷地割がよく遺されている。
このように角牟礼城跡は、玖珠地方拠点城郭であり、土造りの城から石垣の城への変遷を知る上でも重要で、その築城技術伝播地域における受容考え上で貴重であり、史跡として指定し保護しようとするものである



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