葺石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 04:19 UTC 版)
葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設の1つ[注釈 1]で、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたもの。「葺き石」の表記もみられる。その祖形は弥生時代の墳丘墓(弥生墳丘墓)に認められる。前期古墳と中期古墳に多いが、後期は葺石をともなわない古墳が大多数をしめる。
注釈
- ^ 墓本体に対し、葺石、埴輪列、濠、石垣などを古墳の外部施設あるいは外部構造と呼んでいる。葺石はとくに外表施設と呼ばれることも多い。
- ^ a b 終末期古墳に多い墳丘裾部にめぐらされたものは「外護列石」と称し、通常は区別する[1]。
- ^ 尚、関東平野に限ってみれば、この平野の主要部を占める関東ローム層から成る台地及びこれの浸食で生成した沖積平野は著しく石材に乏しく、後世の近世城郭において他の地域で石垣が普通に使われる場面であっても佐倉城にみるように盛り土の露出したままで済ませるのが通例であった。中央政府の座として全国諸大名に軍役を課して石材を供出させて巨大な石垣を建造した江戸城は例外に類する。
- ^ 讃岐(いまの香川県)が古くより石文化の盛んな地であったことは、『播磨国風土記』にも、景行天皇の時代、播磨の伊保山の石工集団が讃岐の羽若から移住したという記事があることでも知られる。また、古墳時代に先行する弥生時代において石器素材として讃岐産のサヌカイトと称される安山岩石材が、交易により広く流通した前史を有する。
- ^ 箸墓古墳の石室の用材と同じ石が、古墳所在地付近の土中にふくまれており、この石は大和川左岸の芝山(大阪府柏原市)頂上付近でみられる芝山火山岩であることが判明しており、芝山は、古く「大坂」と呼ばれた地域のなかにふくまれる[7]。
- ^ 『日本書紀』崇神10年9月条に以下の記載がある。是(こ)の墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。故(かれ)、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おおみたから)相踵(あいつ)ぎ、手遞伝(たごし)にして運ぶ。時人(ときのひと)歌(うたよみ)して曰わく、
大坂に継ぎ登れる石群を手遞伝に越さば越しかてむかも - ^ 福岡市東区に所在する名子道2号墳(西新式古段階の弥生土器が出土)は長径7メートルの弥生墓(長方形墳)であるが、葺石をともなっている[8]。
- ^ 寺沢薫 (1988) は「纒向型前方後円墳」、和田晴吾 (2004) は「纒向前方後円形周溝墓」と呼称している。
- ^ 岡山市の都月2号弥生墳丘墓などはその典型例に相当する[12]。
- ^ 4世紀後半造営とみられ、古市古墳群との関連も指摘される古墳である。
- ^ 5世紀から6世紀にかけての古墳が分布する遺跡。
- ^ 青木の掲げた表では、1類が5事例、2類が11事例、4類が5事例であるのに対し、3類は46事例にのぼる[26]。
- ^ 鴫谷東1号墳では、保存状態のよい葺石と埴輪列が検出されている。裾部の葺石配置には一定の施工単位が認められる。葺石における大小の石はきわめて精緻に並べられ、最も外側の石は大きなものが選択されて、さらにその外方に一定間隔を置いて埴輪列を並べるという処理が施されている[28]。
- ^ なお、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、当該地域最大の古墳が古代の港湾との関係で出現している[33]。
- ^ 森浩一は、五色塚古墳について、「葺石というよりも積石墳の仲間にいれてもよいほど、大量の礫で墳丘をおおいつくしている」と表現している[37]。
- ^ 五色塚古墳の葺石の石材産地は淡路島と推定されている[39]。
- ^ 五色塚古墳の調査成果については、現状では概報があるのみで、未だに正式な報告書が刊行されていない。古墳整備事業の先駆的取り組みであるとして本報告のなされることを待ち望む声も多い[40]。
出典
- ^ 岩崎 (1992) p.8
- ^ a b c d e f 青木 (2003) p.188
- ^ 大塚・小林 (1982) p.362
- ^ 寺沢 (2000) p.301
- ^ 石塚 (1992) p.63
- ^ a b 森 (1985) p.60
- ^ a b 森 (1986) p.235
- ^ 柳田 (1986) p.164
- ^ 石野 (1990) p.5
- ^ 白石(2002)p.49
- ^ a b c 近藤 (2001) p.141
- ^ 近藤 (2001) p.141
- ^ 石塚 (1992) p.60、原出典は今西 (1915)
- ^ a b 石塚 (1992) p.60-61、原出典は高橋 (1922)
- ^ a b c 青木 (2003) p.179
- ^ 石塚 (1992) p.61
- ^ 原口・西谷 (1967)
- ^ 石塚 (1992) p.62
- ^ 石塚 (1992) p.62-67
- ^ 石野ほか『古墳時代の研究 7』 (1992) 図版
- ^ 石塚 (1992) p.67。原出典は中沢 (1983)
- ^ 「第6章 葺石構築法とその変化」、青木 (2003) p.179-193
- ^ 青木 (2003) p.180。なお、青木はこのなかで「基底石」の呼称を、今後議論と検討を重ねる必要のある便宜的呼称であると断っている。
- ^ 青木 (2003) p.180。原出典は和田 (1987)
- ^ 青木 (2003) p.180。原出典は石野 (1995)
- ^ 青木 (2003) p.181
- ^ 青木 (2003) p.185-187
- ^ 石野ほか『古墳時代の研究 7』 (1992) 図版
- ^ 大塚・小林 (1982) p.345.ほか多数
- ^ 広瀬 (2003) p.134、p.179
- ^ a b 広瀬 (2003) p.180
- ^ 青木 (2003) p.189
- ^ 森 (1986) p.288
- ^ 森 (1986) p.278
- ^ 広瀬ほか『古墳時代の政治構造』 (2004) p.32-33
- ^ 新納 (1992) p.160
- ^ 森 (1986) p.282
- ^ 石塚 (1992) p.61-62
- ^ 森 (1986) p.276-278
- ^ 青木 (2003) p.179
葺石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 03:12 UTC 版)
発掘調査時の葺石の残存状況は良好。石材は最大径が40-60センチメートル、20-30センチメートル、10センチメートル前後の3種類を使用。 基本的な葺き方は、墳丘の下段の裾石には40-60センチメートルのものを、墳丘上段の葺石裾および区画石列には20-30センチメートルのものを使用し、区画の中を20-30センチメートルおよび10センチメートル前後の石材で充填する方法である。 以上の3種類の葺石とは別格に、直径1メートル前後の不整円形の大型岩石2個を、くびれ部に近い後方部上段中位に嵌め込んでいる。 使用石材の60%は片麻岩類、22%が珪質岩、15%が花崗岩類、1.6%が輝石安山岩類、残りいずれも1%未満で石灰岩類、火砕岩類、結晶質石灰岩、デイサイトが続く。 これらのうち、主たる片麻岩類、珪質岩、花崗岩類、火砕岩類、結晶質石灰岩の5種は、古墳群がある眉丈山一帯に分布する新第三紀中新世の礫岩層や火砕岩類から洗い出された礫が古墳付近の谷川に散在し、それらを採石したらしい。輝石安山岩は、古墳群から離れた志賀町・灘浦地域の海岸の漂礫や原岩を採石したらしい。デイサイトは、能登半島北部に分布する新第三紀中新世前期の穴水累層内のものを採石したらしい。
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葺石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 03:12 UTC 版)
後円部・前方部とも明瞭な裾石を確認。葺石石材の大きさは1号墳と同様らしい。しかしながら前方部前面の裾石・葺石は、後円部のそれより小さな石が多いようである。
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葺石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 14:26 UTC 版)
亜円礫すなわち漂礫による葺石を認める。 全面に葺石を施していたわけではなく、最小限の範囲で葺石を施工したとみている。 葺石が確認できた範囲は、上段が後円部斜面および前方部左右斜面、中段が後円部後方の北西から東くびれ部までの斜面と前方部東側斜面、および東側造り出し斜面。確認できた以外でも、前方部上段は左右斜面の葺石の存在から、あったことを推定できるとする。前方部中段の葺石は不明。 下段斜面の葺石は、発掘調査の限りでは確認できなかった。たとえあったとしても、後円部北東の一部に限られるとする。 使用石質は27種類あり、その中でも、石英安山岩質火山礫凝灰岩が22.4%、石英安山岩が20%、安山岩質火山礫凝灰岩が18.8%と多い。葺石石材の原産地としては、手取川扇状地南翼の下流域の白山市源兵島・出合島・水島・橘一帯と判断するという。
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葺石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:55 UTC 版)
墳丘各段の斜面には、葺石が葺かれる。石1つの大きさは、上段・中段のもので直径15-30センチメートル、下段のもので直径5-10センチメートルを測る。数・重量は、上段・中段では1平方メートル辺り平均約70個・約220キログラム、下段では1平方メートル辺り平均約240個・約80キログラムで、古墳全体としては2,233,500個・2,784トンにも達する。 石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定される。下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産と推定される。『日本書紀』神功皇后紀の記事(後述)では、淡路島の石を運んで赤石(= 明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目される。 近年の復元整備に際しては、前方部の葺石は出土した石を利用し、後円部の葺石は新たに入れた石を利用することで再現されている。
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