茨木機関とは? わかりやすく解説

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茨木機関

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:53 UTC 版)

茨木機関(いばらぎきかん)は、1944年シンガポール(当時の昭南特別市)で、第7方面軍参謀部2課の石島少佐(通称:茨木少佐)が立ち上げた特務機関で、シンガポール周辺の内陸の防諜謀略を担当し、戦争末期には連合軍進攻後のゲリラ戦に備えて元特別操縦見習士官を受け入れ、ゲリラ要員の訓練を行うなどした。終戦直後に戦犯追及をおそれて「インドネシア独立を支援する」として集団でスマトラ島へ脱出しアチェ州へ向かったが、北スマトラに展開していた第25軍近衛第2師団によって拘束され計画を中止、機関員の多くは英軍によってマレー半島に抑留された後1946年に日本に帰国した。茨木少佐は英軍に逮捕・監禁されたが、後に脱走し日本に帰国したとされる。[1]


  1. ^ この記事の主な出典は、中西(1994)、本田(1988)および篠崎(1981)。
  2. ^ ブラッドリー(2001) 203-205頁
  3. ^ 本田(1988) 38-39頁、篠崎(1976) 195頁
  4. ^ 1943年10月以降、シンガポールの特別警察隊の憲兵がテクロアンソンタパー英語版で商社員に扮して偵諜を行い、同年12月にイポーで李亜青、1944年4月にはイポーの南方 カンパル英語版136部隊英語版林謀盛中国語版らが検挙された(大西(1977) 163-167頁)
  5. ^ 中野校友会(1978) 348頁
  6. ^ 中野校友会(1978) 552頁
  7. ^ 中野校友会(1978) 557頁
  8. ^ 本田(1988) 38-39頁
  9. ^ 本田(1988)25頁に「茨木誠一少佐」とあるが、中西(1994)104,138頁および篠崎(1981)52頁によると「いばらぎ」、「茨城」ないし「茨木」は仮名で本名は「石島」であり、中野校友会(1978)556頁のスマトラ治安工作に関する記述から本名は「石島唯一」とした。また南洋商報(1986)135頁では「飯島機関」の「飯島少佐」としているが、拠点や活動内容の記述から茨木機関に関する説明と解した。
  10. ^ 篠崎(1981) 52頁
  11. ^ 本田(1994) 26,64頁
  12. ^ 中西(1994)138頁、本田(1988)25頁、篠崎(1981) 52頁。
  13. ^ 中西(1994)138頁、本田(1988)37,39頁、篠崎(1981) 52頁、中野校友会(1978) 556頁
  14. ^ 中西(1994)138頁、南洋商報(1986) 135頁、本田(1988)37頁
  15. ^ 中西(1994)138頁、本田(1988)37-38頁、中野校友会(1978) 554-557頁
  16. ^ 南洋商報(1986) 135頁。浪機関の組織強化については中野校友会(1978) 553頁でも触れられている。
  17. ^ 本田(1988)38頁。南洋商報(1986) 135頁では、茨木機関を立ち上げ、浪機関設置(1944年初頃)の3,4ヵ月後にスパイ組織を強化した、と記述しており、この順によると茨木機関の成立は1944年の「春頃」になりそうだが、機関の設置時期を特定している本田(1988)38頁により「暮頃」とした。
  18. ^ 本田(1988)25頁に「正式名称は『岡機関』」とあるが、他の文献にはなく、中野学校(1978)557-558頁では「茨木機関」の名で言及がある
  19. ^ 本田(1994) 38,44頁、南洋商報(1986) 135頁
  20. ^ 北緯1度17分45秒 東経103度50分22秒 / 北緯1.295965度 東経103.839505度 / 1.295965; 103.839505 (リバー・バレー路)
  21. ^ 中西(1994)105頁、本田(1988)37頁
  22. ^ 本田(1988) 39,45-46頁。中西(1994)138-139頁では「無線の傍受や、暗号解読、捕まえた敵のスパイを利用して偽の情報を送る等の諜報活動を行っていた」としている。本部には、捕えられて機関に協力していた中国人スパイや、運搬係、炊事夫、マレー人の女中やボーイ、インド人庭師なども含めて、20人以上が住み込みで働いていた(中西(1994)139頁、本田(1988) 39,45頁)
  23. ^ 徴用された女性5人が缶詰や椰子の実に火薬を詰める作業をしていた(本田(1988) 48頁)
  24. ^ 中西(1994)139頁、本田(1988) 40,48-49頁
  25. ^ 本田(1988)40,49,50-53頁
  26. ^ ともに中野学校出で茨木少佐の後輩にあたり、それぞれスマトラの東海岸州、アチェ州の特高科長としてスマトラ治安工作を実行した後(本田(1994) 38頁、中野校友会(1978) 555-557頁)、茨木少佐とともに茨木機関を立ち上げた(本田(1994) 38頁)
  27. ^ 本田(1988)40頁、中西(1994) 140頁。占領後期になると、日本軍は、憲兵隊による共産党員の検挙・弾圧を続ける一方で(大西(1977) 167-170頁)、共産軍の討伐が不可能なことを悟り、連合軍反攻の場合に腹背に敵を受けないよう、特務機関を使って共産軍に接近し、アジア人の団結を強調し、ある程度の自治権を認めるなど譲歩することで、協力関係を打ち立てることを目標にしていた(本田(1988) 40,53-56頁)。しかし、共産軍はそれ以前から英軍と手を結び、136部隊英語版の指導と武器、食糧等の供給を受けていたため、仮に日本軍が大幅に譲歩したとしても、妥協は困難だったとみられている(同)。
  28. ^ 本田(1988)40頁。中西(1994) 138頁では安達大尉はジョホール州、近藤大尉はアチェ州に部下の工作員を展開させていた、としているが、本田(1988)40頁では安達大尉はジョホール州南部、近藤大尉はジョホール州北部に展開しており、アチェ州への展開は準備中だったとしている。
  29. ^ 北緯1度29分00秒 東経103度44分00秒 / 北緯1.483333度 東経103.733333度 / 1.483333; 103.733333 (ジョホール・バル)
  30. ^ 本田(1988)40頁
  31. ^ 本田(1988)40,55-58頁
  32. ^ 同月1日付で、戦争末期の飛行機・ガソリン不足により、マレー・ジャワで飛行訓練を受けていた特操の南方要員約420名が訓練を中止して情報要員に転用されることになり、同月中に南方軍の各軍団の参謀部第2課に配属された(本田(1988)8-9,22-23頁、中西(1994) 99,102頁)
  33. ^ 本田(1988)29頁、中西(1994) 99,102頁
  34. ^ 北緯1度17分43秒 東経103度50分23秒 / 北緯1.295177度 東経103.839702度 / 1.295177; 103.839702 (インスティテシューション・ヒル)
  35. ^ 40人ずつ2班に分けてそれぞれ中国語とマレー語を教えた(中西(1994) 138-140頁、本田(1988) 29-35頁)
  36. ^ 中西(1994) 138-140頁、本田(1988) 29-35,90頁
  37. ^ 元中華民国の軍人(大佐)で、シンガポール陥落後、残置諜者として12名ほどで島内のジュロン地区に潜伏し、無電で重慶へ情報を送っていたところを検挙・逮捕され、参謀部2課で助命するかわりに、重慶へ偽情報を流させたり、抗日分子の所在など治安対策について助言を受けていた(中西(1994) 139頁、本田(1988) 41頁)。
  38. ^ 元中華民国の軍人・工作員で、スマトラ島のメダンで残置諜者をしていたところを一味6人とともに第25軍の憲兵隊に捕まり、死刑になるところを近藤大尉により助命されて機関に協力、近藤大尉とともに主にスマトラで活動していた(中西(1994) 139頁、本田(1988)41頁)。
  39. ^ 多数のジャンクを所有し、黒十字会を主宰し、浪機関で米の密貿易を担っていた(中西(1994) 139頁、本田(1988) 41-43頁、篠崎(1981))。
  40. ^ 中西(1994) 139-140頁、本田(1988) 41,46頁
  41. ^ 本田(1988)59,66頁
  42. ^ 本田(1988)71-72,92頁、中西(1994)140-141頁
  43. ^ 中西(1994)144頁、本田(1988)71-72,74頁。篠崎(1981) 52頁に「茨木機関の全員は、少佐と行を共にした」、「女子の機関員もこれに従った」云々とあるが、中西(1994)144頁、本田(1988)74,90頁によると、同行したのは機関幹部と特操の軍人が主で、現地職員(女性5人を含む)は希望者少数のみが同行した。
  44. ^ 本田(1988)60-66頁、中西(1994)140-141頁
  45. ^ 本田(1988)61,90頁。「わいわいがやがやで結論が出ない。だが勇ましいことをいう方が、大勢を制する。組合大会の議論と同じである。反対派は次第に沈黙し、賛成派の張り切った声だけが聞こえるようになった。翌日になると、スマトラ行きの命令が出た、という話になった。だれが聞いてきたのか分からない。(…)気が動顚しているので、冷静な判断ができず、盲目的に信じてしまうのだ。迷った家畜の群が、一頭のふとした動きにつられて、ぞろぞろと、ついていくようなものである。いつの間にか、全員がスマトラ行きという空気になってしまった」(本田(1988)61頁)。
  46. ^ 本田(1988)68-71頁、中西(1994)142-143頁。茨城少佐は、茨木機関の本部の機関員には同行を命令したが(本田(1988)65-66頁)、総軍班では「ついて来たい者だけついて来い」と話し(本田(1988)60-61頁、中西(1994)140-141頁))、埠頭で膨大な物資と総軍班の特操ほぼ全員が集合したのを見て、「"貴様等、ようこんなに集めたのう"と呟くように言いながら、終始不機嫌な面をしていた」とされる(中西(1994)145頁)。
  47. ^ 本田(1988)91-92頁によると、物資調達にあたって方面軍司令部から命令が出ていたかどうかに関しては、許可していなかった、事前に参謀部を通して許可を得ていた、脅迫して命令書を書かせた、など関係者の証言は分かれている。
  48. ^ 同月17日深夜には、機関本部を爆破して機関員が自決爆死したことを装い、爆発に驚いた第7方面軍・板垣征四郎司令官の面前に茨木少佐が連行されたとされる(篠崎(1981) 52頁)。本田(1988)・中西(1994)には爆発の記述はないが、中西(1994)144頁に「爆薬班のあったオーチャード・ロードの建物等機関の主な施設は、爆薬を仕掛け、夜中に爆破出来るように」した、とある。また篠崎(1981) 52頁では、その際に板垣は機関員のスマトラ脱出の意図を諒承したとしているが、本田(1988)・中西(1994)にはこの話はない。
  49. ^ 本田(1988)78-79頁、中西(1994)144頁。共産軍のゲリラに捕まっていた、入院していたなどの事情で出発に間に合わず、他の部隊に転属した機関員もいた(中西(1994)145頁、本田(1988)81-89頁)。
  50. ^ 中西(1994)144頁、本田(1988)90-94頁。1945年8月19日夜10時に茨木少佐・近藤大尉と茨木機関の機関員が「パカンバル丸」で、翌20日午後4時に安達大尉と総軍班が「暁丸」でシンガポールを出航した(本田(1988)93頁)。約160名のうち特操出身者は茨木機関の者が約40名、総軍班約80名の計約120名だった(本田(1988)90頁)。篠崎(1981)52頁では「サフラン丸以下3,000トン級汽船3隻に分乗」としている。
  51. ^ 北緯0度30分27秒 東経101度26分50秒 / 北緯0.507590度 東経101.447117度 / 0.507590; 101.447117 (パカンバル)
  52. ^ 本田(1988)96-98頁。パカンバル丸は8月21日午後4時頃に、暁丸は1日遅れて翌22日午後4時頃にパカンバルに到着した(同)。
  53. ^ 北緯0度20分28秒 東経101度01分39秒 / 北緯0.341241度 東経101.027534度 / 0.341241; 101.027534 (バンキナン)
  54. ^ 本田(1988) 94-97頁
  55. ^ 本田(1988)97-98頁
  56. ^ 本田(1988)98頁
  57. ^ 北緯0度18分13秒 東経100度22分57秒 / 北緯0.303507度 東経100.382460度 / 0.303507; 100.382460 (ブキチンギ)
  58. ^ 本田(1988)99-102頁
  59. ^ 北緯3度35分44秒 東経98度40分19秒 / 北緯3.595688度 東経98.671963度 / 3.595688; 98.671963 (メダン)
  60. ^ 本田(1988)102-107頁
  61. ^ 北緯1度44分13秒 東経98度47分06秒 / 北緯1.737047度 東経98.785015度 / 1.737047; 98.785015 (シボルガ)
  62. ^ 北緯2度00分45秒 東経98度58分46秒 / 北緯2.012438度 東経98.979357度 / 2.012438; 98.979357 (タルトン)
  63. ^ 北緯2度12分08秒 東経98度58分55秒 / 北緯2.202218度 東経98.981907度 / 2.202218; 98.981907 (シボロンボロン)
  64. ^ 北緯2度20分02秒 東経99度05分00秒 / 北緯2.333862度 東経99.083252度 / 2.333862; 99.083252 (バリゲ)
  65. ^ 北緯2度39分25秒 東経98度56分20秒 / 北緯2.656985度 東経98.939006度 / 2.656985; 98.939006 (プラパット)
  66. ^ 北緯2度57分55秒 東経99度03分44秒 / 北緯2.965286度 東経99.062296度 / 2.965286; 99.062296 (ペマタン・シアンタル)
  67. ^ 本田(1988)102-107,119-120頁
  68. ^ 北緯4度16分45秒 東経98度03分51秒 / 北緯4.279147度 東経98.064120度 / 4.279147; 98.064120 (クアラシンパン)
  69. ^ 北緯4度01分10秒 東経98度16分55秒 / 北緯4.019339度 東経98.282027度 / 4.019339; 98.282027 (パンカラン・ブランダン)
  70. ^ 北緯5度13分19秒 東経96度43分02秒 / 北緯5.221974度 東経96.717159度 / 5.221974; 96.717159 (ビルン)
  71. ^ 北緯4度08分38秒 東経96度07分40秒 / 北緯4.143823度 東経96.127657度 / 4.143823; 96.127657 (ムラボー)
  72. ^ 本田(1988)108-119頁
  73. ^ 本田(1988)118-119,120-123頁
  74. ^ 北緯0度42分51秒 東経100度31分38秒 / 北緯0.714198度 東経100.527161度 / 0.714198; 100.527161 (ウジャンバト)
  75. ^ 北緯0度48分07秒 東経100度35分15秒 / 北緯0.801864度 東経100.587539度 / 0.801864; 100.587539 (コタインタン)
  76. ^ 所在地不明
  77. ^ 本田(1988) 155-160頁
  78. ^ 本田(1988) 160-166頁
  79. ^ このとき多くの隊員は生活に疲れて潜伏を中止し、10人を残してメダンへ引揚げた(本田(1988)167-170頁)
  80. ^ 1人が帰隊したが、他の隊員は他所へ移動していて見つからなかったり、遭遇しても警戒して説得に応じなかったりした(本田(1988)171-177頁)
  81. ^ 1946年1月に1人が自ら潜伏を中止してブキチンギの第25軍司令部に帰着し、メダンに合流した(本田(1988)177-184頁)
  82. ^ 2人はロカン河の下流バガン・シアピアピ(北緯2度09分32秒 東経100度48分58秒 / 北緯2.158999度 東経100.816114度 / 2.158999; 100.816114 (バガン・シアピアピ))に出てブギス人の警察署長に保護されていたが、日本軍の逃亡兵がいるという噂が町に広まったため、ブキチンギに出頭し、1946年夏にメダンの本隊より先に復員した(本田(1988)189-201頁)。
  83. ^ うち1人は早い時期に手榴弾により自殺(本田(1988)177-184頁)、2人はプムーダ(青年隊)英語版に殺害され(本田(1988)188頁)、3人は1947年9月から年末にかけてパダン、ブキチンギ地区のインドネシア軍が日本軍の脱走兵を一斉に拘禁、殺害した際に殺害されたとみられている(本田(1988)187-188頁、中西(1994) 187頁)
  84. ^ 北緯2度50分57秒 東経98度55分20秒 / 北緯2.849163度 東経98.922141度 / 2.849163; 98.922141 (シダマニック)
  85. ^ 本田(1988)202-205頁、中西(1994)157-161頁。無為に過ごし、野砲兵連隊の慰安所やシアンタルへ遊びに行く者が多かったため、性病を患う者が続出した(同)。
  86. ^ 特操が野砲兵連隊の慰安所に通ったことで同連隊と揉めるなど、特操出身者の放埓な行動が摩擦の原因となっていたとされる(本田(1988)206-207頁、中西(1994)174-175頁)
  87. ^ 北緯2度53分47秒 東経98度43分22秒 / 北緯2.896429度 東経98.722660度 / 2.896429; 98.722660 (チガルング)
  88. ^ 本田(1988)206-211頁、中西(1994)161-165頁。このとき、特操出身の機関員1人が、安達大尉の了解を得て脱走し、西アチェへ潜行した(本田(1990) 53-60頁)
  89. ^ 本田(1988)205頁
  90. ^ 本田(1988)205-206頁。近藤大尉はその後、日本に帰国したが、オランダから戦犯容疑者の指名を受けて逮捕・連行され、1946年末から1947年初頃、メダンの刑務所に収監されていた(本田(1990)134頁)。アチェ州に潜行していた元機関員たちが近藤大尉の奪還を計画したが、諦めたとされる(同)。篠崎(1981)52-53頁では、茨木少佐は第7方面軍司令部の桑参謀の説得に応じてシンガポールに戻り、英軍に捕まってチャンギー刑務所に送られたとしている。
  91. ^ 本田(1988)211頁。シアンタルの機関員は中国人の家に下宿して中国語の勉強を命ぜられており、茨木少佐は中国人社会に紛れ込んで戦犯追及を逃れるつもりだったとみられている(本田(1988)232頁)。
  92. ^ 本田(1988)211-221頁
  93. ^ 戦前のインドネシアでオランダの支配体制に組み込まれていたため、独立闘争の標的となっていた(本田(1988)252頁)。
  94. ^ 本田(1988)241-242,252-253頁。独立運動の支援とは相容れない活動だったが、引揚げが決まったため1週間程度で終わりになった(本田(1988)252-253頁)。終戦に伴い、連合軍がスマトラ島に進駐し、抑留されていたオランダ人が解放されると、戦前の所有地等に復帰しようとしたオランダ人とインドネシア人の間で摩擦が起きて独立運動が急激に盛り上がり、連合軍に協力して連合国人の保護を命じられていた日本軍もインドネシア軍の標的になりつつあったため、脱走してインドネシア軍に投じる者が出る一方で、復員が急がれた(中西(1994)180頁)
  95. ^ 北緯3度47分05秒 東経98度41分39秒 / 北緯3.784587度 東経98.694060度 / 3.784587; 98.694060 (ベラワン)
  96. ^ 本田(1988)254頁、中西(1994)183-187頁
  97. ^ 北緯1度50分56秒 東経102度55分44秒 / 北緯1.848805度 東経102.928919度 / 1.848805; 102.928919 (バトパハ)
  98. ^ 終戦後、南方軍総司令部や第7方面軍司令部が置かれていた(本田(1988)254頁)。北緯1度53分05秒 東経103度24分00秒 / 北緯1.884655度 東経103.399917度 / 1.884655; 103.399917 (レンガム)
  99. ^ 所在地不明
  100. ^ 中西(1994)190-195頁。当地では麻雀が流行した(中西(1994)194頁)。本田(1988)254頁では帰国までの3カ月間アイルマニスに滞在したとしている。本田ら2人の機関員はアイルマニスへ行く前にレンガムの南馬来軍司令所に転属になっており、その後1947年10-12月にかけて復員帰国した(本田(1988)254-255頁)。
  101. ^ 中西(1994)の著者である中西淳は、4月頃デング熱でシンガポールの陸軍病院に入院し、治癒後も病院に居座っている間に本隊が帰国したため残留し、シンガポールの捕虜収容所に移された(中西(1994)201-202頁)。ほかに3名が残留した(本田(1988)254-255頁)。
  102. ^ 本田(1988)254-255頁
  103. ^ 本田(1990)85-90頁
  104. ^ 本田(1990)85頁-。詳細は同書を参照。
  105. ^ 本田(1988)254頁。本田(1988)254頁では機関幹部と特操14名(中西を含む)が3月まで残留していた、としているが、中西(1994)183-187頁では中西は1月末頃に仲間とともにスマトラを離れたとしており、また同書190頁では、その船上で茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報があって仲間は騒然となった、としている。
  106. ^ 篠崎(1981) 53頁では、茨木少佐は英軍によってシンガポールのチャンギー刑務所に収容された後、篠崎が翻訳・通訳として働いていた東南アジア軍の保安隊(篠崎(1978)17頁によると、英東南アジア軍情報部直属の野戦保安隊(フィールド・セキュリティー・フォース)は1946年末頃にはシンガポールのバルモーラル路(Balmoral road)にあった)に引き取られてきたとされている
  107. ^ 中西(1994)202-206頁。シンガポールの捕虜収容所に入った中西は、蔡の手引によってイギリス情報部にジョンゴス(召使い)として住み込んで茨木少佐と蔡の連絡役をつとめ、脱走の実行前に巻き添えにならないように職を辞してシンガポールの渉外部に移った(同)。英軍情報部の取調べはマレー共産軍の動向に関する情報の提供が主で、戦犯事件の取り調べではなかったため、茨木少佐は戦犯に問われるのか、情報提供後釈放されるのか分からず、判断に迷っている様子だった(中西(1994)205-206頁)。篠崎(1981) 53頁では保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。
  108. ^ 北緯2度26分00秒 東経103度50分00秒 / 北緯2.433333度 東経103.833333度 / 2.433333; 103.833333 (メルシン)
  109. ^ 南洋聖教総会の主席で、孔子の教えを奉ずる一派だった(篠崎(1981)54頁)
  110. ^ 北緯22度16分01秒 東経114度11分17秒 / 北緯22.267度 東経114.188度 / 22.267; 114.188 (香港)
  111. ^ 篠崎(1981) 54頁
  112. ^ 北緯33度56分46秒 東経130度57分40秒 / 北緯33.945979度 東経130.961235度 / 33.945979; 130.961235 (門司)
  113. ^ 篠崎(1981) 54頁。篠崎は、1951年に日本を訪問した蔡の依頼で浪機関の吉永大尉を通じて茨木少佐と連絡をとり、東京・八重洲で4人で顔を合わせたとしている(篠崎(1981)54頁)。中野校友会(1978)840,843頁には、生存者として石島唯一、安達孝の名があり、死亡者(戦死者とは別)として近藤次男の名がある。


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