自然主義的誤謬
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自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう、英語: Naturalistic fallacy)とは、メタ倫理学において、善を快いとか好ましいといった自然的性質で還元的に説明することは誤りであるという主張である[1]。この用語は、イギリスの哲学者G・E・ムーアが1903年に出版した著書『倫理学原理』の中で初めて用いられた[1]。
- ^ a b c d e f g Moore, G.E. Principia Ethica § 10 ¶ 3
- ^ 言語行為と規範倫理学(05)ムーアの自然主義的誤謬批判 | 永井俊哉ドットコム
- ^ ハンス・ケルゼン「正義とは何か」木鐸社、1975年、p57-64、服部栄三, 高橋悠訳「マルクス主義法理論の考察」(ケルゼン選集2)木鐸社、1974年、p30-31.
- ^ 兼子義人「法学とイデオロギー・イデオロギー批判」法哲学年報 1982 年 1981 巻 p. 42-56
- ^ Hans Kelsen, The Communist Theory of Law, 1955, Stevens & Sons Limited,Frederick A.Praeger.
- ^ Reginald Parker,The Communist Theory of Law by Hans Kelsen ,1956,Case Western Reserve Law Review,Volume 8 Issue 1 Article 13, https://scholarlycommons.law.case.edu/caselrev/vol8/iss1/13
自然主義の誤謬 (Naturalistic fallacy)
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「詭弁」の記事における「自然主義の誤謬 (Naturalistic fallacy)」の解説
詳細は「自然主義の誤謬」を参照 A「私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だからこれからもそうするべきだ」 B「Aさんはホットケーキが好きだ。だからホットケーキを食べさせてあげるべきだ」 Aの発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYすべきである」という形式の文)の結論を導いている。この形式を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と言う。この推論はあらゆる場合に間違い(偽)というわけではないが、あらゆる場合に正しい(真)わけでもなく、この種の論法が論理的な推論法としてもし有効であるなら、あらゆる改革や変更は許容されなくなる。Aの発言は「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」という主張と論理構造が等しい。「である」という観察事実から「べきである」という指針を引き出すことはできないとの主張はヒュームの法則といい、この種の誤謬はIs-ought problem(である-べきであるの混同)とも言う。また帰納法の誤謬を含めた広義の意味では「である」という観察事実から「であろう(予測)」という指針を引き出すことも出来ない(帰納法参照)。
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