聖徳太子建立七大寺とは? わかりやすく解説

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聖徳太子建立七大寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/19 18:49 UTC 版)

聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)または、聖徳太子建立七寺(しょうとくたいしこんりゅうななでら)は、聖徳太子建立の伝承のある七つの寺の総称。




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聖徳太子建立七大寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)

太子信仰」の記事における「聖徳太子建立七大寺」の解説

「聖徳太子建立七大寺」も参照 法隆寺 法隆寺太子建立であることが考古学的に確認されており、発掘され若草伽藍これに当たる考えられている。史料での初見は、『書紀推古天皇14年条(606年)の「太子斑鳩寺播磨国土地施入した」である。しかし『書紀』には四天王寺系の伝承多く取り込まれ故にその後太子信仰では法隆寺四天王寺後塵を拝することになった法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文薬師如来像光背銘文後世の製作とする吉田は、これらの銘文は『書紀』に記され四天王寺系の伝承対抗するために製作されたものとしている。 法隆寺の中で太子信仰中心となっている東院伽藍は、行信嘆願により光明皇后中心となって造営進められ天平11年(739年)に完成したとされるまた、これに先立つ天平8年2月22日(太子忌日)に、光明皇后法隆寺寄進行い太子供養している。こうした光明皇后による法隆寺への働きは、天平4年ごろから飢饉地震天然痘流行などの災害続き政情が不安定であったことが背景にあると考えられている。 法隆寺南都七大寺として朝廷庇護を受け栄えたが、平安遷都期に徐々に衰退12世紀前半興福寺傘下組み込まれ太子五百年忌期して西院聖霊院が造営される。藤井由紀子は、この時期興福寺太子霊場整備行ったのは、権勢強め太子崇敬し藤原摂関家との関係再構築図ったためと推測している。 鎌倉時代顕真慶政によって東院太子信仰霊場として整備されていく。特に顕真は、すでに太子信仰霊場地位確立していた四天王寺対抗して目録抄』を著し、また調子丸の子孫を自称して太子信仰権威となったまた、慶政東院伽藍整備して太子信仰諸行事や京都での出開帳行い信仰普及努めた。この出開帳目玉となり、法隆寺権威高め役割果たしたのが唐本御影である。この肖像画早くて8世紀の製作とされるが、文献上の初見は『七大寺巡礼私記』(1140年)で、顕真によって由緒作られ唐本御影名付けられた。唐本御影近世まで多く模写作成され太子の姿として定着していく。 江戸時代にも出開帳繰り返されたが、明治廃仏毀釈が行われると法隆寺は再び衰退したそうした中で法隆寺訪れたフェノロサ太子コンスタンティヌス大帝なぞらえて高く評価しそれ以降法隆寺は、太子信仰霊場であることを強調して積極的に伽藍全体拝観させるようになった。これ以降法隆寺太子建立の寺として教科書などに記されるようになり、太子信仰中心地となって現在に至っている。 四天王寺 四天王寺に関する最古の記録は『書紀』で「太子丁未の乱での勝利後に建立」「推古天皇元年造る」「大化4年仏像安置」などと記されている。これらから創建年代について様々な説があるが、発掘調査出土する瓦の調査では創建620年から630年の間とされており、推古31年(623年)に新羅任那使節もたらした舎利などを奉納した記述実際創建とする説が考古学的に有力とされている。その後645年乙巳の変起きると難波に都が移るが、この頃四天王寺伽藍完成したことが考古学的に確認されており、榊原史子は、都の近隣にあった四天王寺朝廷によって整備されるなかで、創建説話創作され書紀』に盛り込まれたと推測している。 朝廷庇護のもと、四天王寺太子創建寺院として太子信仰中心地となって発展する宝亀2年(771年)には聖徳太子絵伝製作され平安時代初めに太子祀る聖霊院があった事が記録されている。平安時代には延暦寺僧侶別当務めるようになり、その関係の中で浄土信仰との繋がり生まれたとされる。また10世紀前期には、四天王寺五重塔から太子遺髪発見されたことが記録残っている。本来仏塔釈迦遺骨(舎利)を納める場所であり、そこに太子遺髪安置されていた事は釈迦太子重ね合わせる信仰があったとする説がある。 天徳4年(960年)に四天王寺伽藍大部分焼失して衰退したが、その状況登場したのが『四天王寺縁起』(根本本)である。これに記され縁起により、四天王寺西門先に広がる海の彼方に極楽浄土在る信じられ四天王寺には極楽往生を願う人々集うようになった当時今様はこうした様子を「極楽浄土東門は、難波の海にぞ向かえたる、転法輪所の西門に、念仏する人参れとて」と謡っている。この頃までに四天王寺には施薬院療病院・悲田院敬田院といった社会福祉施設設けられて、浄土信仰太子信仰被差別階級にも広がったことで乞食病人が集まる場所となっていた。後に四天王寺別当となった律宗僧の忍性悲田院敬田院を再興また、法然親鸞などの浄土教高僧や、時宗一遍日蓮宗日蓮なども参詣し困窮者を救済したと伝わっている。 院政期熊野詣がブームとなると四天王寺はその拠点として皇族貴族参詣を受けるようになる。さらにこれまで延暦寺影響強かった四天王寺であるが、12世紀になると延暦寺対立する園城寺傘下に入る。藤原経輔の子園城寺長吏増誉白河法皇熊野先達務めるなど、園城寺皇族貴族とのつながり深めた。後に四天王寺別当行尊が就くと、行尊帰依し太子崇敬する鳥羽上皇関白藤原忠実熊野詣に合わせた四天王寺参詣備えて四天王寺新造同様に整備された。 『四天王寺縁起』は今日に至るまで数多く写本製作されてきたが、中でも1335年書写された『四天王寺縁起』(後醍醐天皇宸翰本)は、後醍醐天皇王法興隆太子祈願して製作した考えられる後醍醐天皇自身書写手印を捺して、権者聖蹟(根本本)を秘すように命じたとされている。 室町時代以降は、応仁の乱織田信長石山本願寺攻め徳川家康大坂冬の陣などで戦禍見舞われそのたび再建されてきた。江戸時代には幕府庇護のもと庶民信仰の場として賑わい見せた昭和には室戸台風大阪大空襲被害を受けるが、戦後復興して現在に至っている。 中宮寺 中宮寺法隆寺隣接した尼寺である。『伝暦』によれば太子が母穴穂部間人皇女為に宮を寺に改め創建されたとされる詳細不明である。現在地からやや離れた創建当初境内からは、飛鳥時代の瓦が出土しており、創建当時僧寺尼寺一組創建される慣例があったことから、法隆寺と対となる尼寺として太子建立した蓋然性は高いと考えられる平安時代以降衰退するが、鎌倉時代に信如比丘尼によって中興その際法隆寺から発見されとされるのが、所在不明になっていた天寿国曼荼羅繍帳である。繍帳記されていた銘文は現在ほとんど失われているが、内容は『法王帝説』に記録されており、全文復元されている。それによれば繡帳太子没後に妃橘大郎女菩提弔って製作したもので飛鳥時代の製作と考えられるが、これらを後世擬古文とする見解もある。 橘寺 橘寺在るのは聖徳太子誕生したと伝わる地で、太子が『勝鬘経』を講じた時に奇端が起きたことに因んで創建されたとされる史料上の初見は『書紀天武天皇9年(680年)条の橘寺火災があったという記録で、発掘調査から実際創建年代7世紀後半推定されている。また、橘寺の北隣にある川原寺と対となる尼寺として創建されたとする説もある。平安中期には太子殿を含む多く建物があったが、承暦年間玉虫厨子と金四十八体仏法隆寺移され鎌倉時代以降衰退したその後明治再興されて現在に至る。 なお、太子生誕地については、奈良時代まで坂田寺橘寺両説併存していたが、13世紀律宗教団橘寺復興事業進めるなかで霊場化が進められ15世紀頃には橘寺生誕地として定着した考えられる葛木寺 葛木寺は、『法王帝説』には「葛木氏に賜ひき」と記されることから葛城氏氏寺が、後世太子建立数えられるようになった考えられる。この葛木氏は太子側近で、丁未の乱にも参陣した葛城烏那羅とされる葛木寺所在地不明だが、『日本霊異記』などには豊浦寺の西にあった記されており、橿原市和田廃寺比定する説が有力である。和銅3年(710年)に平城京遷都と共に移転するが、宝亀11年(780年)に落雷により焼失し現存していない。 法起寺 法起寺は、推古天皇14年(606年)に太子法華経講説した岡本宮を、太子遺言によって息子山背大兄王が寺に改め創建したとされるが、『目録抄』が引用する法起寺露盤銘』では太子遺言により舒明10年(638年)に福亮金堂建立した記されている。12世紀頃には法隆寺同様に興福寺傘下入って太子霊場化が進められ『日本書紀』記される岡本宮由来する岡本寺名乗るようになった広隆寺 広隆寺は、『書紀推古天皇11年(603年)条によれば太子仏像譲り受けた秦河勝創建した記されるが、実際は『広隆寺縁起』に記される太子没後追善する意味を込めて秦河勝創建したとする由来正しいと考えられる創建当時現在地北東位置する北野廃寺跡にあったが、平安京遷都と共に現在地移転した。なお、太子から譲り受けたとされる仏像は、現存する弥勒菩薩半跏像とする説がある。 広隆寺では太子五百年忌にあたって聖徳太子立像制作され現存している。本像は下着姿でその上から実物着物を着せる稀有な像で、着用する着物天皇即位式着用する黄櫨染の御袍と同じものである。この着物天皇即位すると、新しいものが天皇から贈られ着せ替えられるが、この慣習平安時代から現在まで続いている。また、本像を本尊とする桂宮院本堂は、法隆寺夢殿影響受けた八角堂である。建長3年(1251年)ごろの建立で、桂宮院京都における太子信仰中心地となったこうした広隆寺での霊場整備聖徳太子立像墨書から天台僧の定海進めた考えられるが、藤井定海四天王寺関係性着目して霊場整備四天王寺影響行われた推測している。

※この「聖徳太子建立七大寺」の解説は、「太子信仰」の解説の一部です。
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