聖徳太子建立七大寺
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聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)または、聖徳太子建立七寺(しょうとくたいしこんりゅうななでら)は、聖徳太子建立の伝承のある七つの寺の総称。
- 1 聖徳太子建立七大寺とは
- 2 聖徳太子建立七大寺の概要
聖徳太子建立七大寺
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「聖徳太子建立七大寺」も参照 法隆寺 法隆寺は太子の建立であることが考古学的に確認されており、発掘された若草伽藍がこれに当たると考えられている。史料での初見は、『書紀』推古天皇14年条(606年)の「太子が斑鳩寺に播磨国の土地を施入した」である。しかし『書紀』には四天王寺系の伝承が多く取り込まれた故に、その後の太子信仰では法隆寺は四天王寺の後塵を拝することになった。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘文と薬師如来像の光背銘文を後世の製作とする吉田は、これらの銘文は『書紀』に記された四天王寺系の伝承に対抗するために製作されたものとしている。 法隆寺の中で太子信仰の中心となっている東院伽藍は、行信の嘆願により光明皇后が中心となって造営が進められ天平11年(739年)に完成したとされる。また、これに先立つ天平8年の2月22日(太子の忌日)に、光明皇后は法隆寺に寄進を行い太子を供養している。こうした光明皇后による法隆寺への働きは、天平4年ごろから飢饉や地震、天然痘の流行などの災害が続き、政情が不安定であったことが背景にあると考えられている。 法隆寺は南都七大寺として朝廷の庇護を受け栄えたが、平安遷都を期に徐々に衰退。12世紀前半に興福寺の傘下に組み込まれ太子五百年忌を期して西院に聖霊院が造営される。藤井由紀子は、この時期に興福寺が太子霊場の整備を行ったのは、権勢を強め太子を崇敬した藤原摂関家との関係再構築を図ったためと推測している。 鎌倉時代に顕真と慶政によって東院が太子信仰の霊場として整備されていく。特に顕真は、すでに太子信仰の霊場の地位を確立していた四天王寺に対抗して『目録抄』を著し、また調子丸の子孫を自称して太子信仰の権威となった。また、慶政は東院伽藍を整備して、太子信仰の諸行事や京都での出開帳を行い信仰普及に努めた。この出開帳の目玉となり、法隆寺の権威を高める役割を果たしたのが唐本御影である。この肖像画は早くても8世紀の製作とされるが、文献上の初見は『七大寺巡礼私記』(1140年)で、顕真によって由緒が作られ唐本御影と名付けられた。唐本御影は近世までに多くの模写が作成され、太子の姿として定着していく。 江戸時代にも出開帳が繰り返されたが、明治に廃仏毀釈が行われると法隆寺は再び衰退した。そうした中で法隆寺を訪れたフェノロサは太子をコンスタンティヌス大帝になぞらえて高く評価し、それ以降法隆寺は、太子信仰の霊場であることを強調して積極的に伽藍全体を拝観させるようになった。これ以降、法隆寺は太子建立の寺として教科書などに記されるようになり、太子信仰の中心地となって現在に至っている。 四天王寺 四天王寺に関する最古の記録は『書紀』で「太子が丁未の乱での勝利後に建立」「推古天皇元年に造る」「大化4年に仏像を安置」などと記されている。これらから創建年代について様々な説があるが、発掘調査で出土する瓦の調査では創建は620年から630年の間とされており、推古31年(623年)に新羅・任那の使節がもたらした舎利などを奉納した記述を実際の創建とする説が考古学的に有力とされている。その後、645年に乙巳の変が起きると難波に都が移るが、この頃に四天王寺の伽藍が完成したことが考古学的に確認されており、榊原史子は、都の近隣にあった四天王寺が朝廷によって整備されるなかで、創建説話が創作され『書紀』に盛り込まれたと推測している。 朝廷の庇護のもと、四天王寺は太子創建の寺院として太子信仰の中心地となって発展する。宝亀2年(771年)には聖徳太子絵伝が製作され、平安時代の初めには太子を祀る聖霊院があった事が記録されている。平安時代には延暦寺の僧侶が別当を務めるようになり、その関係の中で浄土信仰との繋がりが生まれたとされる。また10世紀前期には、四天王寺五重塔から太子の遺髪が発見されたことが記録に残っている。本来仏塔は釈迦の遺骨(舎利)を納める場所であり、そこに太子の遺髪が安置されていた事は釈迦と太子を重ね合わせる信仰があったとする説がある。 天徳4年(960年)に四天王寺は伽藍の大部分を焼失して衰退したが、その状況で登場したのが『四天王寺縁起』(根本本)である。これに記された縁起により、四天王寺の西門の先に広がる海の彼方に極楽浄土が在ると信じられ、四天王寺には極楽往生を願う人々が集うようになった。当時の今様はこうした様子を「極楽浄土の東門は、難波の海にぞ向かえたる、転法輪所の西門に、念仏する人参れとて」と謡っている。この頃までに四天王寺には施薬院・療病院・悲田院・敬田院といった社会福祉施設が設けられて、浄土信仰と太子信仰が被差別階級にも広がったことで乞食や病人が集まる場所となっていた。後に四天王寺別当となった律宗僧の忍性は悲田院と敬田院を再興。また、法然や親鸞などの浄土教の高僧や、時宗の一遍や日蓮宗の日蓮なども参詣し、困窮者を救済したと伝わっている。 院政期に熊野詣がブームとなると、四天王寺はその拠点として皇族貴族の参詣を受けるようになる。さらにこれまで延暦寺の影響が強かった四天王寺であるが、12世紀になると延暦寺と対立する園城寺の傘下に入る。藤原経輔の子で園城寺長吏の増誉は白河法皇の熊野先達を務めるなど、園城寺と皇族貴族とのつながりを深めた。後に四天王寺別当に行尊が就くと、行尊に帰依し太子を崇敬する鳥羽上皇や関白藤原忠実の熊野詣に合わせた四天王寺参詣に備えて、四天王寺は新造同様に整備された。 『四天王寺縁起』は今日に至るまで数多くの写本が製作されてきたが、中でも1335年に書写された『四天王寺縁起』(後醍醐天皇宸翰本)は、後醍醐天皇が王法の興隆を太子に祈願して製作したと考えられる。後醍醐天皇は自身の書写に手印を捺して、権者の聖蹟(根本本)を秘すように命じたとされている。 室町時代以降は、応仁の乱や織田信長の石山本願寺攻め、徳川家康の大坂冬の陣などで戦禍に見舞われ、そのたびに再建されてきた。江戸時代には幕府の庇護のもと庶民信仰の場として賑わいを見せた。昭和には室戸台風や大阪大空襲で被害を受けるが、戦後に復興して現在に至っている。 中宮寺 中宮寺は法隆寺に隣接した尼寺である。『伝暦』によれば、太子が母穴穂部間人皇女の為に宮を寺に改め創建されたとされるが詳細は不明である。現在地からやや離れた創建当初の境内からは、飛鳥時代の瓦が出土しており、創建当時は僧寺と尼寺が一組で創建される慣例があったことから、法隆寺と対となる尼寺として太子が建立した蓋然性は高いと考えられる。 平安時代以降に衰退するが、鎌倉時代に信如比丘尼によって中興。その際に法隆寺の蔵から発見されたとされるのが、所在が不明になっていた天寿国曼荼羅繍帳である。繍帳に記されていた銘文は現在ほとんど失われているが、内容は『法王帝説』に記録されており、全文が復元されている。それによれば繡帳は太子没後に妃橘大郎女が菩提を弔って製作したもので飛鳥時代の製作と考えられるが、これらを後世の擬古文とする見解もある。 橘寺 橘寺が在るのは聖徳太子が誕生したと伝わる地で、太子が『勝鬘経』を講じた時に奇端が起きたことに因んで創建されたとされる。史料上の初見は『書紀』天武天皇9年(680年)条の橘寺で火災があったという記録で、発掘調査から実際の創建年代は7世紀後半と推定されている。また、橘寺の北隣にある川原寺と対となる尼寺として創建されたとする説もある。平安中期には太子殿を含む多くの建物があったが、承暦年間に玉虫厨子と金銅四十八体仏が法隆寺に移され、鎌倉時代以降は衰退した。その後、明治に再興されて現在に至る。 なお、太子の生誕地については、奈良時代まで坂田寺と橘寺の両説が併存していたが、13世紀に律宗教団が橘寺の復興事業を進めるなかで霊場化が進められ、15世紀頃には橘寺が生誕地として定着したと考えられる。 葛木寺 葛木寺は、『法王帝説』には「葛木氏に賜ひき」と記されることから葛城氏の氏寺が、後世に太子建立に数えられるようになったと考えられる。この葛木氏は太子の側近で、丁未の乱にも参陣した葛城烏那羅とされる。葛木寺の所在地は不明だが、『日本霊異記』などには豊浦寺の西にあったと記されており、橿原市の和田廃寺に比定する説が有力である。和銅3年(710年)に平城京遷都と共に移転するが、宝亀11年(780年)に落雷により焼失し現存していない。 法起寺 法起寺は、推古天皇14年(606年)に太子が法華経を講説した岡本宮を、太子の遺言によって息子山背大兄王が寺に改めて創建したとされるが、『目録抄』が引用する『法起寺露盤銘』では太子の遺言により舒明10年(638年)に福亮が金堂を建立したと記されている。12世紀頃には法隆寺と同様に興福寺の傘下に入って太子霊場化が進められ、『日本書紀』に記される岡本宮に由来する岡本寺を名乗るようになった。 広隆寺 広隆寺は、『書紀』推古天皇11年(603年)条によれば太子の仏像を譲り受けた秦河勝が創建したと記されるが、実際は『広隆寺縁起』に記される、太子没後に追善する意味を込めて秦河勝が創建したとする由来が正しいと考えられる。創建当時は現在地の北東に位置する北野廃寺跡にあったが、平安京遷都と共に現在地に移転した。なお、太子から譲り受けたとされる仏像は、現存する弥勒菩薩半跏像とする説がある。 広隆寺では太子五百年忌にあたって聖徳太子立像が制作され、現存している。本像は下着姿でその上から実物の着物を着せる稀有な像で、着用する着物は天皇が即位式に着用する黄櫨染の御袍と同じものである。この着物は天皇が即位すると、新しいものが天皇から贈られ着せ替えられるが、この慣習は平安時代から現在まで続いている。また、本像を本尊とする桂宮院本堂は、法隆寺夢殿の影響を受けた八角堂である。建長3年(1251年)ごろの建立で、桂宮院が京都における太子信仰の中心地となった。こうした広隆寺での霊場整備は聖徳太子立像の墨書から天台僧の定海が進めたと考えられるが、藤井は定海と四天王寺の関係性に着目して霊場整備は四天王寺の影響で行われたと推測している。
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