老河口作戦
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老河口作戦(ろうかこうさくせん)とは、日中戦争中の1945年4月から6月の間に行われた、河南省西部および湖北省北部での日本軍と中国軍の攻防戦である。正式な作戦符号はウ号作戦(インパール作戦のそれと重複)。中国側呼称は豫西鄂北会戦。日本軍は老河口飛行場の占領に成功して戦略目標を達成したが、中国軍から激しい反撃を受けた。
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- 1 老河口作戦とは
- 2 老河口作戦の概要
- 3 経過
- 4 結果
老河口作戦
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1946年6月。老河口作戦で、第12軍は老河口で国民党軍に包囲され離脱できずにいた。第1軍は包囲の圧力を軽減させるため国民党軍を牽制するよう命令された為、第5独立警備隊は山西省の他の部隊を指揮し、この任務につくことになった。 王茅鎮から補給を受けるため河南省会起鎮に向かった後、指示された部落で集結した。この途中、地雷を避けるため、部隊の先頭を付近の住民4-5人に歩かせたり、日本軍を避けるために無人となった村で略奪などを行った。 部隊終結後、汾官作戦を開始する。この作戦は、国民党軍が占拠する汾道口と官道口という二つの拠点の攻撃が目的である。汾道口攻略では、敵の強固なトーチカに阻まれ激戦となったものの占領するにいたる。次いで官同口攻撃では、町を覆う強固な城壁と攻勢の国民党軍に阻まれ、突撃に失敗し部隊は撤退した。この時の突撃では、砲撃して城壁を破壊した後に突撃を行う予定だった。しかし、火力不足により城壁が破壊できずにいたにもかかわらず、大隊長は船田中隊長に対し無謀な突撃を強要した結果、船田中隊長は戦死、同中隊は多数の被害を出す結果となった。 王茅場鎮の大隊本部に帰還すると、湯浅に潞安陸軍病院への帰隊命令が届く。1945年7月中旬、第5独立警備隊本部(運城)へ出頭した後、潞安へ向かう。途中、申告のため太原の第1軍軍医部へ寄った後、盲腸と腹膜炎を併発し、太原陸軍病院に入院した。
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