羽鳥ダム
羽鳥ダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:59 UTC 版)
1876年(明治9年)、明治天皇東北巡幸の際、白河藩から没収し官有地となった矢吹ヶ原一帯の開発利用の建言などから皇室財産に収納され、宮内省直営農場となった。1885年(明治18年)、矢吹ヶ原一帯の開発なくして農民の繁栄はないと考えた大和久村(現大田原市)の星吉右衛門は当時の福島長官村上楯朝に開田計画の建白書を提出。これは羽鳥集落地内に丘堤を設置し、鶴沼川の流水を貯留、トンネルを掘り西白河郡西郷村真名子に導水して阿武隈川を利用し矢吹ヶ原一帯を開田するというもの。しかし、会津の鶴沼川下流域の反対にあい採用されなかった。10年以上が経過した1897年(明治30年)、計画を修正し再度申請したものの採用されることは無かった。1915年(大正4年)、地元有志と協議し矢吹ヶ原の開田実施計画を繰り返し福島県知事に申請し、ようやく県は羽鳥地区の実地調査を行った。また、1919年(大正8年)に角田某が事業実施に尽力したものの、目的を果たすことなく敢えなく中止となった。 1885年(明治18年)から絶え間なく続いた地域活動は時の地方産業振興の目的と合致し、1924年(大正13年)に農林省土地利用計画として樹立。勢いそのままに1927年(昭和2年)、鶴沼川を羽鳥地内で堰き止め、矢吹ヶ原一帯を灌漑する計画で本格的な調査に着手することとなった。その後、調査や実測などにより訂正・補正が繰り返され、1930年(昭和5年)の計画完成を目標としていたものの政府の方針変更や地質などの諸事情により、幾多の陳情請願が重ねられた。また、当時鶴沼川の水利権を握っていたのは会津電力会社で既に鶴沼川下流に田代発電所建設を計画していた。そのため福島県は1928年(昭和3年)に鶴沼川の水の使用について同社と締結。そして星吉右衛門が建白書を提出してから半世紀以上が経過した1939年(昭和14年)、第75議会で協賛を得て1941年(昭和16年)に矢吹ヶ原開墾国営事業所開設の段取りで羽鳥湖築造並びに矢吹ヶ原開墾の計画が本格的に始動することとなった。1941年(昭和16年)8月、2ヶ月の予定で測量調査隊が羽鳥山中に入り、実測と並行し堰堤数カ所の地質並びに基礎地盤を調査。この時、堰堤の築造箇所について3つの候補地が提案された。1つの案は鶴沼川を羽鳥地区の下流で堰き止めるというもので、残す2つは羽鳥地区の住民の立ち退き回避のため上流で堰き止めるという案だった。そのうち貯水池として効果の高いものは下流で堰き止めるという案で、最終的にこの案が採択された。翌年4月、工事監督員詰所が設置され本格的な作業に移った。しかしながら太平洋戦争の戦時体制に入ったことで、長い年月と地元民の尽力を要し発足した大事業にまたも障害が立ちはだかり歩みを遅めた。1945年(昭和20年)、日本が戦争に敗れて食糧難の時代に入り、食料増産対策が進み当事業が改めて国策として取り上げられた。そして、1949年(昭和24年)には羽鳥ダム築造工事が本格的に着手されることとなった。途中、戦災復興建設工事で支障があったものの、食糧増産につながる工事として羽鳥湖築造工事も早期完成が望まれていたため工事は順調に進んだ。山奥に位置した現場は電気が通っていなかった頃とは打って変わって電灯がつき、ラジオが鳴り響き、各地から視察見学者が訪れ活気に満ちて工事は進行した。尚、工事は三幸建設が宮城・宇都宮刑務所などの囚人430人を駆使し行われていた。 勿論、羽鳥地区の住民は故郷を捨てなければならず、立ち退き補償なども絡むことから賛成派・反対派で対立が生じた。総戸数57戸のうち賛成派25戸、反対派32戸となった。また反対派の中にもただ移転を拒否する者だけでなく、完工後の羽鳥湖や周辺の観光資源の開発・利用の権利を盛り込む要望などもあった。対立中は、反対派が「反対闘争」と書かれた看板を掲げるなど溝は深まり、暴力沙汰に発展するほどとなっていた。この対立は1947年(昭和22年)まで続き、会合で繰り返し意見の交換が行われたものの統一した結論に達することなく全戸が近隣の矢吹町・鏡石村などに分散移住することとなった。
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