絹本著色宇喜多能家像とは? わかりやすく解説

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絹本著色宇喜多能家像

主名称: 絹本著色宇喜多能家像
指定番号 1958
枝番 00
指定年月日 1997.06.30(平成9.06.30)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 絵画
ト書 大永四年八月九峯宗成の賛がある
員数 1幅
時代区分 室町
年代 1524
検索年代
解説文:  宇喜多能家備前国邑久【おく】郷を本拠とする室町時代武将で、守護代浦上宗助宗らに仕えた宇喜多家は孫の宇喜多直家の代に浦上氏滅ぼして備前支配するに至る。豊臣政権五大老一人となった秀家は直家の子であり、能家の曾孫にあたる。
 本図掛幅装。画絹は一幅一鋪。四周には補絹がつけ回されている。直家の像は、右手金扇握り左手握っての上に置き、向かって斜め右を向いての上安座する。肉身は墨で輪郭され、輪郭沿って褐色の隈をとり、肌色を塗る。頭髪や眉、髭は墨線による丁寧な毛描きによって表される。腰には小刀差し、柄の部分には黒色かいらぎを表すように粒状盛り上げている。目貫には三つの丸が並ぶが、紋は剥落のため不明である。頭に戴く烏帽子輪郭盛り上げ大紋黒地で堀塗りによって表す。胸、袖、腰、膝部の紋は二つ向かい一つ向かいからなる。紋の地色薄青鶴亀白色描かれている。胸元には薄青色の緒が結ばれている。
 画絹上部には墨線で罫線画した中に、款記を含めて三二行にわたる長大な賛がある。款記は大永四年(一五二四)八月、九峯宗成によるものである。賛の款記の末には三つの印があるが、現在は判読できない。像主の宇喜多能家は、この款記の一〇年後の天文三年一五三四)に島村豊後守に攻められ砥石城邑久町)で自害しているので、本図寿像ということになる。
 賛の内容明応六年(一四九七)に伊福郷を攻めた浦上宗助松田氏の兵に囲まれたとき、単身宗助の塁に入って敵を破ったことから、大永二年(一五二二)に浦上村宗方の重臣として村国戦ってこれを破るまでの歴戦記録がほとんどである。なお、本賛は『続群書類従』にも収められている。賛者の九峯相成は詳しい伝記はあまり明らかではない。足利義政の子松王丸出家したものかとされ、寛正四年(一四六三)に喝食として、相国寺入っているが、延徳年間一四八九九一以降消息不明とされる。その法脈一山派に属し雪村友梅雲渓支山-啓宗承祖-九峯宗成と継承されている。雪村友梅雲渓支山が播磨赤松氏菩提寺である法雲寺宝林寺住職つとめていることが、この像の賛者選ばれたことと関係があるのかもしれない
 本図顔貌描写優れたもののある戦国時代の武将像として貴重な作品いえよう。なお、本図宇喜多氏菩提寺である紅岸寺(廃寺)に伝来したのである



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