篠塚和典
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篠塚 和典(しのづか かずのり、1957年7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ちの元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ。本名及び1992年6月29日までの登録名は篠塚 利夫(しのづか としお)。愛称は「シノ」、「シノさん」
注釈
- ^ 2007年に小学生への指導経験から出版した「6歳からの広角打法」という指導書では、当初は「阪神ファンだったので藤田平さんにあこがれていた」としている。
出典
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(1/3ページ) Full-Count 2020.10.20 (2021年8月22日閲覧)
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」 朝日新聞社編 1989年
- ^ a b c 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(2/3ページ) Full-Count 2020.10.20 (2021年8月22日閲覧)
- ^ 今でも破られていない「6糸差」の首位打者争い 其の一34
- ^ 【あの名場面の裏側】G戦士編 初のクリーンアップで猛打賞、名選手・篠塚の誕生 「二塁は原で決まり」の絶望感を打ち破る (1/3ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
- ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 11』講談社、2005年。
- ^ 読売新聞1991年8月20日21面「巨人・篠塚に罰金百万円」読売新聞1991年8月p.853
- ^ 日刊スポーツ1992年7月1日2面
- ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART9 1992年編』(2021年10月刊)76頁
- ^ 読売新聞1993年5月16日21面「内角球にマト読みがズバリ」読売新聞縮刷版1993年5月p.579
- ^ a b 読売新聞1993年6月10日17面「SBO たった1球失投 9回二死、篠塚逃さず」読売新聞縮刷版1993年6月p.457
- ^ 読売新聞1994年11月16日18面「『惜しまれてやめます』篠塚」読売新聞縮刷版1994年11月p.776
- ^ 槙原寛己『パーフェクトとKOのあいだ ここ一番の投球心理』カッパ・ブックス、2002年、p.114
- ^ 【イチローの憧れ&驚き秘話】本物のプロはここまでこだわる!バット・グローブ論【篠塚モデル】【篠塚和典さん4/5】
- ^ 【vol.6】イチローのバットの起源 バットの握りに隠された秘密とは
- ^ 数ある木の角材の中から、良質な一本を選び抜く。イチローがメジャーで3000回も響かせてきた快音は、バット職人の妥協なき姿勢が生んだものだった。
篠塚利夫(しのづか としお)
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「ミラクルジャイアンツ童夢くん」の記事における「篠塚利夫(しのづか としお)」の解説
巨人の内野手。背番号6。サンダーバキュームボールの練習で背中を痛めていた童夢の異変に気付く。最終回ではファインプレーでチームのピンチを救った。
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