第2次山縣内閣
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第2次山縣内閣(だいにじ やまがたないかく)は、元老で公爵・元帥陸軍大将の山縣有朋が第9代内閣総理大臣に任命され、1898年(明治31年)11月8日から1900年(明治33年)10月19日まで続いた日本の内閣。
- 1 第2次山縣内閣とは
- 2 第2次山縣内閣の概要
- 3 政策
- 4 脚注
- 5 外部リンク
第2次山縣内閣
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大隈内閣崩壊時、伊藤は外遊中であったが、黒田・西郷・松方・大山ら4元老は、速やかに山縣を首相にするよう答申を行った。これを受けて明治31年(1898年)11月8日に第2次山縣内閣が発足した。閣僚には政党員は一人もおらず、松方・西郷の元老、山縣閥官僚と藩閥官僚からなる超然内閣となった。山縣内閣の課題は軍拡と地租増徴であったが、これには衆議院を抑える必要があり、政党との連携は不可避であった。山縣はかつての憲政党から分裂した旧自由党系の憲政党を取り込むこととし、11月30日に内閣と憲政党の提携が宣言された。 12月20日には5年間の限定実施ながら地租増徴法案(2.5パーセント→3.3パーセント)を含んだ予算案が憲政党の賛成で衆議院を通過、貴族院も27日に通過、成立した。見返りとして憲政党の要求のひとつである府県郡制の改革も行い、明治32年(1899年)3月16日に施行した。これは府県会・郡会の複選制を制限付きながらも直接選挙に変更した上に、郡会定数のうち三分の一を大地主が占める制度を廃止するものであり、憲政党が地方議会に入れる余地を作った。これは地方の名士を政治に加え、地方自治を促すかつての山縣の考えを放棄するやり方だったが、軍拡に必要な財源確保のため憲政党を味方につけ、地租増徴法案を通す方を優先した。一方、猟官を警戒し官選の知事・郡長の権力を拡大し地方支配を強化したが、これも地方自治の後退につながった。 同年2月に衆議院議員選挙法改正案を衆議院へ提出した。山縣自身は選挙権の急激な拡大につながるこの法案を通すつもりはなく、貴族院で修正されるか、審議未了で廃案になることを望んでいたとみられる。山縣の思惑通り貴族院においては山縣直系の船越衛がかなり保守的な修正を提案したが、普段登院しない伊藤の演説によって、政府案に近い線へ微修正された。結果としてこの修正が衆議院に反対され、選挙法改正案は廃案になった。また3月28日には憲政党に相談なく文官任用令を改正し、文官懲戒令、文官分限令を公布し、次官・局長・知事などの勅任官に対しても高等文官試験に合格した者しか任用できないようになり、また罷免も困難となった。これは政党による政治任用が絶たれるものであり、官僚は歓迎した。憲政党にとっては不利な改革であったが、地主らの反対を押し切って地租増徴に賛成した彼らはまだまだ山縣内閣から見返りを受け取る必要があり、しばらく政府との連携は続いた。 外交面では、朝鮮半島への進出を拡大するロシアとの間では次第にきしみが見られつつあり、山縣は次第にロシアに対する不信を持つようになった。明治33年(1900年)6月に清では義和団の乱(北清事変)が発生した。列強の仲間入りを企てる桂陸相の計略で、7月にはイギリスが列強を代表して日本へ派兵要請した。日本は列強で1番多い2万2,000人の軍を出兵し鎮圧に貢献し国際評価を高めた。しかし、鎮圧後に速やかな撤退を求めた伊藤に対し、山縣と青木周蔵外相は応じなかった。北京近くに大兵力を起き、また児玉源太郎台湾総督による厦門への出兵要請にも応じた。さらに事変の収拾を巡って朝鮮に影響力を伸ばそうとしたロシアの要求を拒絶した。山縣が強気となったのは軍拡で陸海軍が飛躍的に強化されたこともあり、青木外相に至っては日露開戦も辞さない姿勢であった。 12月16日、山縣内閣は再度衆議院議員選挙法改正案を提出したが、これは第三次伊藤内閣が提出したものと大きく変わらないものであったが、山縣派の茶話会・幸倶楽部・無所属派が連携したことにより、貴族院では更に保守的なものに修正された。修正された選挙法は、選挙権を得る条件を地租または国税15円以上納税から10円以上に緩和するとともに、選挙区制は小選挙区制から大選挙区制に改め、投票方式は単記無記名制となった。市制を執行している自治体はそれぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、記名投票を秘密投票に改め、被選挙権については小学校教員の立候補を禁止したが、納税要件が撤廃された。この改正選挙法は2月23日に衆議院・貴族院で可決された。3月10日 治安警察法を制定し、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた。政党は取締対象から除外したため憲政党ら既存政党を満足させるものであった。5月19日には陸軍省・海軍省の官制を改正し、軍部大臣は現役の中将以上に限ることとした(軍部大臣現役武官制)。これは強力な政党内閣が出来た際にも、軍の主導権を確保するためのものであった。 山縣内閣は当面の政治課題を片付けたが、明治天皇が後継について松方正義に相談していたこともあり、山縣は辞職を考えるようになった。5月22日、山縣は天皇に辞意を伝え、再三遺留されたが応じなかった。伊藤・松方といった候補者はいずれも辞退し、松方が挙げた桂太郎には天皇が難色を示した。5月31日、天皇は義和団の乱などを理由に留任を求めたが、山縣は1~2ヶ月のみ継続するとして、辞意の撤回には応じなかったが、6月15日には再度留任を求められ、山縣も応じた。伊藤が首相就任を渋ったのは、憲政党や伊藤系官僚が結集した新党・立憲政友会の設立準備中であったためであり、山縣には準備不足のうちに組閣させることで、新党を失敗に追い込もうとする考えがあり、この語も度々伊藤に組閣を依頼している。立憲政友会は9月15日に成立し、これをみた山縣は9月26日に辞表を提出した。伊藤はなおも逡巡していたが、明治天皇や井上馨・松方の説得に抗しきれず、10月6日に首相就任を承諾し、10月19日に山縣内閣は総辞職、第4次伊藤内閣が成立した。
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