第十号海防艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 13:27 UTC 版)
第十号海防艦[注釈 2](だいじゅうごうかいぼうかん)は、日本海軍の海防艦。第二号型海防艦(丁型)の5番艦。船団護衛中に撃沈された。
|
- ^ この数字は特修兵を含まない。
- ^ 本来の艦名表記は第十號海防艦。
- ^ 本艦の第一海上護衛隊への編入日は、呉防備戦隊戦時日誌(昭和19年3月1日-31日)では3月28日、第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年3月1日-31日)では3月25日。本記事では第一海上護衛隊が3月25日から本艦の行動を記録しているため、同隊への編入日を3月25日として扱う。
- ^ 以上、1944年4月中の行動は第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年4月1日-30日)による。本艦が東松6号船団の護衛として参加した事実は無い。駒宮『戦時輸送船団史』p. 161に本艦の艦名は無く、第七護衛船団司令部戦時日誌(昭和19年4月9日-30日)にも本艦の艦名は存在しない。ただし、ch10(第10号駆潜艇)の記述は第七護衛船団司令部戦時日誌の随所に見られる。なお、海防艦を表す略号はCHではなくCD(第10号海防艦の場合はCD10)である。
- ^ 本艦の連合艦隊作戦指揮下への編入日は、海上護衛総司令部戦時日誌(昭和19年5月1日-31日)による。第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年5月1日-31日)では5月14日とある。
- ^ その後、山形県酒田市の捕虜収容所で終戦を迎え、帰国後は産業医、スポーツ医として活躍したリチャード軍医は、米潜水艦が我が物顔に猛威を振るっていた危険な海域で、身の危険をも顧みず、艦を停止して救助してくれた日本の海防艦の艦長や家族にお礼を言いたいので、是非捜して欲しいとPOW研究会に依頼し、同研究会は読売新聞社に依頼して一ノ瀬志朗艦長の消息を探したが、見つかることはなかった。
- ^ 『三菱長崎造船所史 続篇』 主要製品目録 p. 86。
- 1 第十号海防艦とは
- 2 第十号海防艦の概要
- 3 脚注
- 第十号海防艦のページへのリンク