砂漠の狐作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 07:10 UTC 版)
イラクは1997年以降、アメリカ側の意図が査察団に影響していることや、元アメリカ軍の諜報関係者であったUNSCOMの主任検査官スコット・リッターによる抜き打ちの捜査に反発し、UNSCOMの査察を妨害し始めた。安保理は安保理決議1115、1134、1137でイラクを批判したが、イラクの姿勢は改善されなかった。 1998年1月28日、アメリカのオルブライト国務長官はイラクが査察を受け入れない場合、アメリカは単独攻撃を行うと表明した。しかし、支持を表明したのはイギリスと日本(当時は安保理非常任理事国)だけで、ロシア、フランス、中国などはいずれも反対の構えを見せた。2月23日、国際連合のコフィー・アナン事務総長とイラクのターリク・アズィーズ副首相の会談で、イラクは査察受け入れを表明した。日本はイギリスと共に、イラクの査察受け入れ違反は「イラクにとって最も重大な結果(severest consequences)をもたらす」と最大級の文言で警告する内容の決議案を提出し、3月2日、決議1154として成立した。小和田恒国連大使は「最も重大な結果」の文言について、「武力行使を容認するとかしないとか言っているのではない」と主張したが、アメリカ側には「(軍事)行動に移す権限を認めたもの」(クリントン大統領)と受け止められた。8月には大量破壊兵器についての査察協議は物別れに終わる。10月31日、イラクの最高指導機関である革命指導評議会はUNSCOMとの協力を全面的に停止することを決定した。11月15日、安保理は決議1205でイラクを非難した。イラクは17日からUNSCOMの査察を受け入れたものの、12月15日にはバトラーUNSCOM委員長から「イラクの完全な協力は得られなかった」と安保理に報告がなされた。 これを受けてアメリカはイギリスとともに、12月16日から19日にかけて、トマホーク325基以上とB-52からの空中発射巡航ミサイル(AGM-86C CALCM)90基によるミサイル空爆を行なった(砂漠の狐作戦)。湾岸戦争後最大の軍事行動であるこの作戦においては、コーエン米国防長官は「作戦は非常に成功した」と述べ、「この攻撃で(イラクの)生物・化学兵器を運搬する能力を削減できた」と語った。 この攻撃は国連安保理の承認を得ておらず、国際連合事務総長コフィー・アナンは空爆に遺憾の意を表明した。安保理では15ヶ国(安保理非常任理事国10ヶ国含む)のうち、12ヶ国が遺憾の意を表明した。一方、日本は小渕恵三首相が「我が国として米国と英国による行動を支持する」と支持表明を出した(支持を表明したのは日本、カナダ、韓国、ドイツ、スペインなど)。 1999年12月にはUNSCOMに代わり、UNMOVIC(国連監視検証査察委員会)の成立を定めた国際連合安全保障理事会決議1284が採択された。しかしイラクはUNMOVICの受け入れも行わず、抵抗を続けた。
※この「砂漠の狐作戦」の解説は、「イラク武装解除問題」の解説の一部です。
「砂漠の狐作戦」を含む「イラク武装解除問題」の記事については、「イラク武装解除問題」の概要を参照ください。
- 砂漠の狐作戦のページへのリンク