石黒氏とは? わかりやすく解説

石黒氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 05:31 UTC 版)

石黒氏
本姓 藤原北家利仁流
家祖 藤原叙用
種別 武家
主な根拠地 越中国
著名な人物 石黒成綱
石黒信由
凡例 / Category:日本の氏族

石黒氏(いしくろし)は、越中国呉西に存在した、藤原北家魚名流利仁流の名族。

出自

石黒氏は、藤原北家魚名流利仁流の流れを引くとされる。

越中国石黒荘を本貫の地とし、福光を中心に栄えた。家紋は、丸に石文字(まるにいしもじ)など。

「越中石黒系図」への疑問視

史料の少ない石黒氏(利波臣)に関する系譜・伝承を伝えるものとして、礪波地域の在地領主である石黒氏の「越中石黒系図」が注目されてきた。しかし、近年ではその信憑性に疑義が呈されており、幕末~明治期の系図研究者である鈴木真年の作である可能性が指摘されている[1]

「越中石黒系図」によれば、孝元天皇の孫・武内宿禰の後裔を称する伊彌頭国造の支族・利波臣の末裔とされる。しかし、利波臣系(「越中石黒系図」、鈴木真年謄写)と利仁流の系図(「越中礪波郡石黒氏系」、石黒武重所有)で共通するのは石黒光弘くらいである。また、利波氏を伊彌頭国造・武内宿禰の末裔とする史料は存在せず、「越中石黒系図」独自の記述である。

『福井県史』では、

  • 「越中石黒系図」では利波臣を孝元天皇の末裔としているが、『古事記』では利波臣は孝霊天皇の皇子・日子刺肩別命の末裔とされている
  • 「越中石黒系図」では「若長宿禰(武内宿禰の孫)、道公祖、志賀高穴穂朝定賜三国国造」と記載されているが、北加賀の豪族である道公が三国国造となったとは考えられない

と「越中石黒系図」の問題点が指摘されている[2]

石黒武重の弟であり、山口大学の名誉教授であった石黒秀雄は、「越中石黒系図」について

  • 本来伝わっていたとされる「越中石黒系図」は、昭和9年3月に、系図を所有していた石黒定治の函館市の自宅が火災に遭い、焼失してしまったものの、定治の叔父・良房が明治年間に系図を写しており、それが良房の孫の治男の家に伝わっていた(これが現在の「越中石黒系図」とされるもの)とされるが、実際は現在伝わる「越中石黒系図」は写本などではなく、鈴木真年が作成したものをそのまま所有していたことが判明し、「越中石黒系図」の過去について虚偽の報告がなされていたことが判明した
  • 孝元天皇武内宿禰は実在が不明な人物であり、彼らの末裔を主張するのは系譜の信憑性に欠ける
  • 石黒光清から藤兵衛・光増兄弟までの5代の部分について、中世の史料と矛盾する箇所が多々あり、その記述が偽造されたものであることが確定的である
  • 本家筋である自家(石黒秀雄の家系)には石黒氏を孝元天皇や武内宿禰の末裔とする伝承や系図が一切存在しない
  • 「越中石黒系図」の巻頭に「皇孫部」の書入れがあり、この「皇孫部」という単語は鈴木真年作成の系図にしか登場しないことから、信憑性に欠ける

などの理由から否定的な見解を示しており、石黒氏は実際は藤原利仁の末裔であったと考えられる[3]

活動

越中国の代表的な国人としての石黒氏の歴史は古く、源平期木曾義仲に従って倶利伽羅峠の戦いで活躍した石黒光弘を皮切りに、戦国期には木舟城主・石黒成綱などが一向一揆と敵対した。

江戸時代になると加賀藩士、富山藩士に成る者、帰農して豪農と成る者など様々だったが、精巧な地図を作ったことで有名な石黒信由などが出た。

系図

実線は実子、点線(縦)は養子。
藤原利仁
 
 
 
叙用
 
 
 
吉信
 
 
 
忠頼
 
 
 
則高
 
 
 
石黒為輔
 
 
 
忠言
 
 
 
則宗
 
 
 
光景
 
 
 
光弘
 
 
 
光宗
 
 
 
光基
 
 
 
光綱
 
 
 
光政
 
 
 
政家
 
 
 
光雄
 
 
 
光秀
 
 
 
光連
 
 
 
光任
 
 
 
光清
 
 
 
光貞
 
 
 
光兼
 
 
 
光治
 
 
 
光増

脚注

注釈

出典

  1. ^ 國學院大學氏族データーベース「高志之利波臣[1]
  2. ^ 福井県『福井県史』(福井県、1993年)
  3. ^ 石黒秀雄『石黒氏の歴史の研究』(石黒氏の歴史研究会、1993年)

石黒氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「石黒氏」の解説

外出先で多額公金紛失して屋敷戻れ当主出奔 古包家臣先祖を持つ浪人者を、与板在封期に採用した推察される記事があるが、確実な史料存在しない牛久保在住先祖持っていたかについては、否定することはできないが、藩主牧野氏との主従関係1度途絶していることは、言うまでもない与板在封期は50石で馬上許されていた。小諸入封後に班を進めたが、安永3年3月26日多額お金持ったま行不明となった6月出奔家出認定され改易取り潰し時に用人加判職にあり130石(持高か?)。子孫帰参して名跡再興となり、小諸惣士草高成立時持高55となったその後、再び当主に罪があり持高減石格式降格閉門謹慎懲戒処分受けて下級士分徒士格)として連綿した。幕末・維新期には石黒孫三郎友輔(9代藩主による改革後持高18石)が士分下禄に列した当家は、名跡再興後、銃士隊所属することが多かった史料学的な説明としては、牛久保城古図石黒姓の屋敷あり。長岡藩文書石黒姓の記載がない。小諸藩文書に古包との記事あり。牛久保城古図石黒姓と、小諸家臣石黒姓が、同族であることを保障する史料存在しないが、古包との記事がある以上、小諸家臣石黒氏は、牛久保石黒氏の関係者推定できる根拠にはなる。

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石黒氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)

田屋川原の戦い」の記事における「石黒氏」の解説

福光石黒家田屋川原の戦いによって断絶したとされるが、 石黒一族全体滅亡したわけではなくとりわけ木舟城(現小矢部市石動町付近)に拠る石黒家戦国時代通じて勢力維持し続けていた。 永正16年の「苦提寺長寿院宛書状」によると、「石黒又次郎」なる人物雄神荘 (旧雄神村砺波市最南部)の長寿院への寄進に関わっており、この「石黒又次郎」は現存する系図により木舟城主の 「石黒光直」であると判明している。この書状により、1519年時点においても木舟城石黒家居城周辺のみならず雄神荘を含め砺波郡全域広く統括していたことが窺える久保尚文は、前後の状況から永正3年一向一撲によって守護代遊佐氏が働波郡を追われ以後、代わって石黒光直が郡代的な立場公務を執ったのだろう、と推測するまた、天文日記」には「石黒又小郎(小次郎同一人物とみられる)」が天文10年2月4日本願寺証如門徒入り願い出ている (市史,707 真)。この記述について、石黒家一向一揆勢力追い詰められ結果であるとする見方もあるが、石黒家砺波郡支配安定的に進展していたからこそ方便としての門徒入りなされたのだとする見方もある。久保尚文は瑞泉寺(一向宗)か石黒家(国人)か排他的に支配確立したと見る二者択一理解事態把握妨げるものである述べ両者共存していたことを指摘している。

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「石黒氏」を含む「田屋川原の戦い」の記事については、「田屋川原の戦い」の概要を参照ください。

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