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石井義信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/16 11:28 UTC 版)

石井 義信
名前
カタカナ イシイ ヨシノブ
ラテン文字 ISHII Yoshinobu
基本情報
国籍 Flag of Japan.svg 日本
生年月日 1939年3月13日(71歳)
出身地 広島県福山市
選手情報
ポジション MF
クラブチーム1
クラブ App (G) 
1957-1968
1968-1975
東洋工業
藤和不動産
0? (?)
0? (?)
代表歴
1962 Flag of Japan.svg 日本 01 (0)
監督歴
1968-1975
1975-1980
1986-1987
1988-1990
?-?
2001-現在
藤和不動産コーチ
フジタ工業監督
日本代表監督
フジタ工業監督
ベルマーレ平塚取締役強化部長
FC東京アドバイザー
1. 国内リーグ戦に限る。現在。
Template(ノート ■解説)■サッカー選手pj

石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - )は広島県福山市出身の元日本代表サッカー選手(MF)、サッカー指導者。

フジタ工業(旧藤和不動産、現湘南ベルマーレ)監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。

目次

来歴

東洋工業時代

福山葦陽高等学校を卒業後の1957年、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入部。下村幸男監督のもと、小城得達とともにハーフバック(MF)として活躍、主に相手のキーマンをマークする役をこなし、特に八幡製鉄宮本輝紀のマーカーとして有名だった。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)創設期には1965年から1967年の三連覇、1965年と1967年天皇杯優勝に貢献。

また1965年には大橋謙三ら東洋工業の選手他で編成された「アカシアクラブ」のメンバーとして国体優勝をしている。

一方、1962年には全日本(日本代表)に選出されるが出場は1試合のみである。

また、現役選手時代から請われて高校のサッカー部他を指導し、その一つ当時は弱小だった広島工業は1960年代後半から力を付け全国的強豪となった。

藤和不動産/フジタ時代

1968年、広島出身の藤田正明の経営する藤和不動産が、サッカー部を新たに栃木県那須に創設。東洋工業の重松良典と共にチーム強化に貢献、その後に移籍してくる下村幸男監督と共に、自身はコーチ兼任選手として栃木県4部リーグのスタートから僅か4年でJSL1部に昇格させた。

1975年、フジタ監督に就任。前期終了後、チームは東京移転と同時にフジタ工業クラブサッカー部に名称変更。超攻撃型なブラジル型のチーム作りを行い、マリーニョカルバリオ古前田充らを率いて1977年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSL1部を初制覇すると1979年も優勝。1977年と1979年には天皇杯も2度制覇した。

日本代表監督

こうした手腕を買われ、1986年に日本代表監督に抜擢。目標である翌年のソウルオリンピックは、最大のライバル・韓国が予選免除で大きなチャンスであったが予選まで1年しかないため、泥臭くても勝つ事にこだわる守備的なチーム作りを行った。森孝慈前監督時代の中心選手・木村和司を外し、攻撃的選手は水沼貴史原博実手塚聡の3人だけ、都並敏史守備的MFにして西村昭宏と並べ、奥寺康彦中本邦治加藤久勝矢寿延堀池巧の5人のDFGK森下申一とし、攻守のバランスは左サイドバックの奥寺にとらせた。

アジア地区最終予選では戦力的にやや上と見られていた中国との一騎打ちとなった。抽選により日程は10月4日広州、10月10日東京で行うという最高の日程となった。チームがまとまっていない中国にアウエーで引き分ければホームで勝てる、との確信を得たが、3ヶ月も先の日程にも係わらず、日本サッカー協会に「その日は東西対抗のテレビ放送が決まってるのでダメ」と言われた。「それならどこの田舎でもいいから試合をさせてくれ」と嘆願したが、「ばかもの!お前らの強化費用はどこから出てると思ってるんだ!」と一蹴され、やむなくホームは東京で10月26日に行うことになった。完全アウエーの中国で原の千金ゴールで勝利。しかし予想通り3週間でチームを立て直した中国にホームで敗れ、本大会出場を逃し辞任した。

長期政権を予定された森がサッカー協会と揉めて急遽の監督就任だったため、自分の思うチーム作りが出来なかったという気の毒な面もあった。本選出場を決めたら攻撃的なチーム作りをするつもりだったと言われている。後年Jリーグが出来た頃、「あの時、中国に勝っていたら日本のサッカーは、今もアマチュアのままだったでしょうね」と木之本興三に言われたという。

現在

森健兒がJSL内に開設したプロリーグ化を検討するプロジェクト(のち活性化委員会、開設準備委員会)に木之本らと共に中心人物として関わり、Jリーグ創設に尽力した。

代表監督辞任後は古巣のフジタ工業に戻り、1988-89年、1989-90年シーズンは、石井総監督―アラン・ジレットヘッドコーチ体制で指揮を執る。1988-89年は終盤まで優勝争いに加わり4位、1988年第68回天皇杯準優勝。しかし1989-90年は11位と低迷しチーム初の2部落ちとなった。

Jリーグ発足後はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の取締役強化部長などを歴任。有力選手獲得などに手腕を発揮し、平塚を一時期強豪チームにした。

2001年からFC東京のアドバイザーに就任。練習グラウンドにも連日姿を現し、コミュニティラジオ局調布FMでのFC東京戦中継での解説を務めてもいる。2004年から日本サッカー協会の技術委員会委員に就任するなど、現在も後進の指導にあたっている。

所属クラブ

指導歴

  • 1975年 - 1980年 : フジタ工業監督
  • 1986年 - 1987年 : 日本代表監督
  • 1988年 - 1990年 : フジタ工業総監督
  •  ?年 - ?年 : ベルマーレ平塚取締役強化部長
  • 2001年 - 現在 : FC東京アドバイザー

個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 東洋 JSL 13 0 -
1966 東洋 JSL 10 0 -
1967 東洋 JSL 5 0 -
1968 藤和 栃木4部 -
1969 藤和 栃木1部 -
1970 藤和 関東 -
1971 藤和 関東 -
通算 日本 JSL 28 0 -
日本 関東 -
日本 栃木1部 -
日本 栃木4部 -
総通算

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(1962)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1962 1 0 0 0 1 0
通算 1 0 0 0 1 0

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1975 JSL1部 フジタ 7位 18 13 5 3 10 - 準優勝
1976 JSL1部 フジタ 3位 18 22 9 4 5 準決勝 準決勝
1977 JSL1部 フジタ 優勝 18 60 14 1PK勝 2PK敗 1 優勝 優勝
1978 JSL1部 フジタ 3位 18 46 9 3PK勝 4PK敗 2 準々決勝 準決勝
1979 JSL1部 フジタ 優勝 18 53 12 1PK勝 3PK敗 2 準優勝 優勝
1980 JSL1部 フジタ 準優勝 18 23 10 3 5 準々決勝 準々決勝
1988-89 JSL1部 フジタ 4位 22 36 10 6 6 2回戦 準優勝
1989-90 JSL1部 フジタ 11位 22 17 4 5 13 準決勝 準々決勝

参考文献

関連項目





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