石丸三七郎(いしまる さんしちろう 1850-?)
石丸三七郎は、岡山藩の支藩である鴨方藩士・佐野貞蔵の三子として岡山城下に生まれ、長じて石丸家の養子となった石丸三七郎は、慶応3年(1867年)年18歳のとき、藩主の命により討幕派の拠点であった京都に派遣され、「清和院御門」警固の任にあった。戊辰戦争終了後(明治2年 1869)は兵部省にあって、香河義郎とともに横浜兵学校での(仏学)伝習を命じられた。
翌明治3年には、フランス人教師シャルル・ビュランとともに大坂兵学寮へ移り、その生徒であった野村小三郎、前田壮馬、戸次正三郎、楢崎頼三、船越熊吉、小坂勇熊、小国磐、柏村庸之允、堀江提一郎らとともに兵学修行のため、横浜港からフランス船で出航した。翌年、フランス・マルセイユに到着し、ニースにあったフランス政府学校で測量技術や築城学を学んだ。
帰国後(明治8年 1875)は、陸軍省に出仕として測量技術の道を歩む。同時に、慶應義塾に在籍したと思われる。
石丸は、明治9年(1876)から明治19年まで陸軍士官学校、陸軍大学校の教官を務めた。その間、明治13年(1880)には、写真の専門家斉藤藤太郎、参謀本部の大岡金太郎らと協力して写真電気銅版製版法の緒を開いた。さらに明治18年4月には、大岡金太郎らと参謀本部に製版法調査委員会を設けて、各種製版法を比較研究し、写真電気銅版製版法の有効性が認められた。
その結果、参謀本部の20万分の1帝国図は彫刻銅版とし、地形図は写真電気銅版によって迅速に製版することが決められる(明治19年 1886))。同19年には、陸軍五等技師奏任官(高等官)に転任しているから、このころ参謀本部勤務になったと思われる。その後、明治28年(1895)まで、その任にあったが、その後の足取りは不明である。
著書として、主に前記ブイヨンをもとに透視図法について著した「泰西絵原写景法」を出版した(1885)。
石丸三七郎
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石丸 三七郎(いしまる さんしちろう、嘉永3年(1850年) - 没年不明)は、幕末期の鴨方藩士、明治期の陸軍省の官吏。測量技師や写真電気銅版法の書物を記している。
生涯
岡山藩の支藩である鴨方藩士・佐野貞蔵(知行100~140石、物頭格)の三男として岡山城下に生まれ、長じて石丸家の養子となり、石丸家(350石)の家督を相続し11代目となった。慶応3年(1867年)12月9日に、18歳で三七郎は藩主命により討幕派の拠点京都に派遣され、京都御所の側の「清和院御門」の警固に付く。藩の部隊の中で出世し、歩兵教授兼歩士銃隊長試補となる。戊辰戦争終了と共に兵部省は三七郎と香河義郎に横浜兵学校での仏学伝習を命じ、維新の功により「三級上座(500石)」となった。
明治3年(1870年)、フランス人教師シャルル・ビュランとともに大坂兵学寮へ移り、兵学修行のため、9名の寮友とともにフランスに留学[1]。11月27日に横浜港をフランス船のヴォルガ号で出航し、翌年1月18日にマルセイユに到着。岩倉使節団の山田顕義らと撮った写真が残っている(『小坂千尋小傳』)。その後、明治5年(1872年)の秋頃にニースの政府学校で測量技術や築城学を学んだ[2]。帰国後は武官ではなく、陸軍省七等出仕として測量技術の道を歩む。『慶應義塾入社帳第一巻』の231頁[3]に名前が確認出来ることから、戊辰戦争前後か、帰国直後に慶應義塾に入ったものとみられる。明治9年(1876年)から明治19年まで陸軍士官学校、陸軍大学校の教官を務め、明治18年(1885年)4月には製版法調査委員として写真電気銅版法を採用し、写景法(透視図法)の本を出版。明治19年(1886年)に陸軍五等技師奏任官五等(高等官)となり明治28年(1895年)まで任に当たった。退官後の消息については分かっていない。
著作
- 『写景法解説泰西絵原第一冊』国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- 『写景法解説泰西絵原第二冊』国立国会図書館近代デジタルライブラリー
参考文献
- 石丸三七郎 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- 『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年、231頁。NDLJP:12244872/128
脚注
- ^ 石丸三七郎地図測量人名辞典
- ^ 滞佛研鐙考 小野政吉 ・敏郎父子の事例田中貞夫 創価大学 一般教育部論集,(24),31-57 (2000-02-01)
- ^ 『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年、231頁。NDLJP:12244872/128
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