めがね‐ばし【眼‐鏡橋】
眼鏡橋
名称: | 眼鏡橋 |
ふりがな: | めがねばし |
登録番号: | 18 - 0026 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 基 |
構造: | 石造及び煉瓦造単アーチ橋、橋長12m、幅員6.4m |
時代区分: | 大正 |
年代: | 大正2 |
代表都道府県: | 福井県 |
所在地: | 福井県坂井市三国町宿 |
登録基準: | 再現することが容易でないもの |
備考(調査): | 福井県近代化遺産(建造物等)総合調査 日本の近代土木遺産 |
施工者: | |
解説文: | えちぜん鉄道三国芦原線の終着駅三国港駅近くに築かれる。鉄道単線を跨ぐ斜橋で,スパンドレルと覆工側壁を石積とした煉瓦造単アーチ橋。煉瓦小口4枚厚の斜架拱,いわゆる「ねじりまんぽ」で,アーチ端部を鋸歯状の段差仕上とするのが特徴的。 |
眼鏡橋
名称: | 眼鏡橋 |
ふりがな: | めがねばし |
名称(棟): | |
名称(ふりがな): | |
番号: | 1450 |
種別1: | 近世以前/その他 |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
指定年月日: | 1960.02.09(昭和35.02.09) |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
代表都道府県: | 長崎県 |
都道府県: | 長崎県長崎市魚の町及び古川町間 |
所有者名: | 長崎市 |
指定基準: | |
管理団体名: | |
管理団体住所: | |
管理団体指定年月日: | |
構造形式: | 石造二連アーチ橋、高欄付 |
時代区分: | 江戸前期 |
年代: | 寛永11(1634) |
解説文: | 寛永十一年(一六三四)中国人の僧如定が造った石造アーチ橋である。 アーチ橋としては最古のものであり、また現在中島川にかゝっている長崎市内十二の橋のうち唯一の二連アーチ橋である。 |
眼鏡橋
眼鏡橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/17 15:00 UTC 版)
眼鏡橋(めがねばし)は、橋の種類のひとつ。本来はアーチが2つ連なった石造2連アーチ橋を指す。2連アーチ橋自体と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えることが、その名の由来といわれている。広義では、単アーチ橋や3連以上のアーチ橋も含めた石造アーチ橋全般を眼鏡橋と呼ぶ。また、石造だけでなく煉瓦造のものも眼鏡橋と呼ばれることがある。個別の橋の名称や別称としても用いられる。
- ^ 荒井裕則「石橋のルーツ「長崎眼鏡橋」」『Consultant vol.234 土木遺産V』一般社団法人建設コンサルタンツ協会(2007年)(閲覧日2017年9月2日)
- ^ 荒井裕則「石橋のルーツ「長崎眼鏡橋」」『Consultant vol.234 土木遺産V』一般社団法人建設コンサルタンツ協会(2007年)25頁、(閲覧日2017年9月2日)
- ^ a b 隈部(1991),47頁。
- ^ 隈部(1991),49頁。
- ^ 隈部(1991),50頁。
- ^ 隈部(1991),51頁。
- ^ 「碓氷第三橋梁(めがね橋)」『あんなか観光ガイド』一般社団法人 安中市観光機構、閲覧日2017年9月7日。
- ^ 「碓氷峠鉄道施設 第三橋梁 うすいとうげてつどうしせつ だいさんきょうりょう」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月7日。
- ^ 「早鐘眼鏡橋」『文化遺産オンライン』、文化庁、閲覧日2017年9月2日
- ^ 「眼鏡橋」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月2日
- ^ 「眼鏡橋」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月2日
- ^ 「天女橋 てんにょばし」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月7日
- ^ 「北の沢の渡河橋(めがね橋)」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2023年4月9日
- ^ 「明治村天童眼鏡橋」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月1日。
- ^ 「目鏡橋 めがねばし」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月7日。
- ^ 「広島県の文化財 - 目鏡橋」『広島県教育委員会ホームページ』広島県教育委員会事務局、閲覧日2017年9月7日。
- ^ 「三見橋 さんみばし」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月7日
- ^ 「四国村石舟のアーチ橋」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月1日。
- ^ 「呉川眼鏡橋 くれかわめがねばし」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月7日
- ^ 「若宮井路笹無田石拱橋 わかみやいろささむたせっこうきょう」『文化遺産オンライン』文化庁、閲覧日2017年9月6日。
眼鏡橋(川久保橋・覗橋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:18 UTC 版)
眼鏡橋は楢下の新町に位置し、石造りになる前は川久保橋と呼ばれている。江戸時代、眼鏡橋は木造だったため大きな洪水がある度に流されていて架け替えの必要があった。そのため、1880年(明治13年)には山形県令(現在の知事にあたる役職)三島通庸に石橋への架け替え願い出る。南村山郡長村山楯朝が陣頭に立ち地元民が一丸となったこともあり、願い出は受理され工事が行われることとなった。石材は大門石、欄干石は滝沢石を使用している。総工費1001円75銭3厘。うち300円は南村山郡が助成し、残りの約700円は地区内の有力者15名が出資した。立替金なので返済する為、当初は橋銭を徴収していたものの諸事情により1883年(明治16年)9月までで廃止した。 1882年(明治15年)には下町にも眼鏡橋(覗橋)が完成。1976年(昭和51年)新町と下町の眼鏡橋ともに上山市文化財に指定された。
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眼鏡橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 02:11 UTC 版)
本明川の流れを堰き止め、被害を拡大させたとの指摘もあり、河川の改修工事にあわせ、解体する案も浮上したが、当時の野村儀平市長らの働きかけで1958年、日本の石橋として初めて国の重要文化財に指定、1959年(昭和34年)から1960年にかけて諫早公園への移設工事が行われた。
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「眼鏡橋」の例文・使い方・用例・文例
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