相原尚褧とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 相原尚褧の意味・解説 

相原尚褧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 15:33 UTC 版)

相原 尚褧(あいはら なおふみ[1][注釈 1]1854年頃 - 1889年頃)は、明治時代士族小学校教員。1882年(明治15年)4月6日、全国遊説中の自由党総理(党首)・板垣退助の殺害を図ったことで知られている(岐阜事件)。


注釈

  1. ^ 名の読みは「しょうけい」あるいは「なおぶみ」とも。
  2. ^ a b c 「(岐阜遭難)當時、板垣氏は官憲に向つて、敢(あえ)て相原を逮捕するなきを望みたるが、其の後、(明治)二十二年(大日本帝國)憲法發布の大典に當つて、國事犯の罪人は大赦令により、悉(ことごと)く放免せられたるに、板垣氏は『相原は罪名國事犯に非(あ)らざるも、均(ひと)しく國事に關する者なれば、大赦の恩命に浴せぬは洵(まこと)に残念の事なり』とて、同年三月十三日附を以て『赦免哀願書』を (明治天皇)陛下に奉呈し、次で相原は同月二十九日、北海道空知集治監より釋放された。相原は五月十一日、東京にて板垣氏に面會を乞ひ、先年の己の行爲に對し大に悔悟陳謝せり。板垣氏は素(もと)より一片の含む所もなく寧(むし)ろ公敵と認めての彼が擧動を『壮(おとこ)なり』とし、『尚(な)ほ將來に於ても余の行動を不臣不逞と認むる事あらば、何時にても再び刃を加ふべし』と説かれ、相原は深く其の宏量に感激し涙を垂れて辭去したり」(『(自由民権)舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年)、53-54頁)
  3. ^ a b c d 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野広中、八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な為めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて写されたる写真一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて写したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の写真を出し是は此頃特赦の後に写したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て写真をとらする事の少なくして此処には、一葉だも持合さず。国許にはありたりと覚ゆれば、帰郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて写させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に国家を以て念と成し、自ら国家の忠臣ぞと信じ居りしに、当時、足下は退助を以て社会の公敵と見做し刃を退助が腹に差挟まれたるに、今は相互無事に出会すること人事の変遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に廔々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が旧時の事を忘れて再び一堂の上に相会し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の会話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも国家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と改めて申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も当時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦栄あることなり」と云はれぬ。引続き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、辺土慘烈(たれど)国の為めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り申し候」と申されたりと。嗚呼、積年の旧怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる実に斯くこそあるべけれ(『獄裡の夢 : 一名、相原尚褧君実伝』池田豊志智編、金港堂、明治22年(1889年)7月より)
  4. ^ 相原曰く「恐(おそれ)入恥入り申し候。僕(あ)は大人(たいじん)の器(うつわ)たらず、殊更に天下(くに)を語るに足りず。浅学無才の徒ならば、先づ辺鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めんと欲す」と。伯は「予かつて土佐の城下(まちなか)より放逐されたる時、神田と云ふ郷(さと)に在りて民庶(みんしよ)に交り身を修(をさ)めんこと有之(これあり)。君は如何(いか)にせむとすや」と訊くに、相原は「僕(あ)は、先づは無心に土壌(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越へず人(ひと)の為(ため)、皇国(すめらみくに)の御為(おんため)に陰乍(かげなが)ら奉公せんと欲す。之(これ)が僕(あ)の贖罪ならんか。願はくば人知らぬ遠き北海道に身を移し、開拓の業(わざ)を以て働かんと欲す」と。(『元勲板垣退助伯爵伝』)

出典

  1. ^ 板垣退助暗殺未遂事件 - 「板垣死すとも自由は死せず」(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
  2. ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 3ページ
  3. ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 130画像目
  4. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 125画像目
  5. ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 131画像目
  6. ^ a b 岩田徳義著 『板垣伯岐阜遭難録』(1908年、対山書院) 46ページ
  7. ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 4ページ
  8. ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 132画像目
  9. ^ a b c d e f JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 134画像目
  10. ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 5ページ (3行目「校長」は「訓導」の誤り)
  11. ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 135画像目
  12. ^ 歴史探訪第13回 板垣死すとも自由は死せず(2015年、OKB総研) (PDF) のように、尚褧を校長とするのは、池田(1889年)に起因する誤り。
  13. ^ 岩田徳義著 『板垣伯岐阜遭難録』(1908年、対山書院) 47ページ
  14. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 133画像目
  15. ^ 山本武利「明治期の新聞投書」(PDF)『関西学院大学社会学部紀要』第33号、関西学院大学社会学部研究会、1976年12月、62頁、CRID 1520009410372149120ISSN 04529456 
  16. ^ 小股憲明『明治期における不敬事件の研究』(博士(教育学) 乙第12173号論文)京都大学、2008年。hdl:2433/136402NAID 500000436344https://hdl.handle.net/2433/136402 
  17. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15110351900、公文類聚・第六編・明治十五年・第八十一巻・治罪三・審理(国立公文書館) 1・2画像目
  18. ^ a b c d e JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 140画像目
  19. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 141画像目
  20. ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 126画像目
  21. ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 127画像目
  22. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 139画像目
  23. ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 128画像目
  24. ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、238頁
  25. ^ 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ アジア資料歴史センター
  26. ^ 4月9日に岐阜県令小崎利準に対して報告したもの
  27. ^ 『板垣退助』中元崇智著、中公新書、2020年、95頁より
  28. ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
  29. ^ a b 『元勲板垣退助伯爵傳』より。
  30. ^ 『自由党史』
  31. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 57画像目
  32. ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 序 1ページ
  33. ^ 武藤鏡浦著 『板垣遭難:自由の碧血』(1918年、岐阜日日新聞社) 128ページ
  34. ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 奥付


「相原尚褧」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  相原尚褧のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「相原尚褧」の関連用語

相原尚褧のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



相原尚褧のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの相原尚褧 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS