皆既日蝕とは? わかりやすく解説

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かいき‐にっしょく【皆既日食/皆既日×蝕】

読み方:かいきにっしょく

日食で、太陽全面が月に隠される現象太陽が全く見えなくなるのは理論上では7分40秒であるが、実際は2〜4分が多い。→ダイヤモンドリング


日食

(皆既日蝕 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 04:37 UTC 版)

日食[1](にっしょく、solar eclipse[1])とは太陽によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。


注釈

  1. ^ 実際には月の平均視直径は31分、太陽は32分で、太陽がわずかに大きいが、肉眼では判別できない。
  2. ^ もちろん、実際は地球が太陽の周りを1年で公転しているのであるが、日食の原理を理解するためには、視点を変え、太陽が天球の上を動いていると考えるとわかりやすい。
  3. ^ 360度÷365.2422日≒1度/日
  4. ^ 360度÷27. 32日≒13度/日
  5. ^ 29.5306日×12≒354日
  6. ^ 月が近地点にあれば大きく見えて白道上を早く移動し、地球が遠日点にあれば太陽は小さく見えて黄道上をゆっくり動く、等。
  7. ^ 現実には月や地球は他の惑星などの摂動を受け、運行は複雑なものになるが、ここでは考慮しない。
  8. ^ 「天文学者」と表記した書籍もあるが、当時の中国には現在のような天文学者という職種は無かった。実際には、暦の作成のために天体観測をする官僚である。
  9. ^ 3サロス周期をギリシャ語でエクセリグモス(exeligmos)と呼ぶ。
  10. ^ 2150年、2168年、2186年、2204年、2222年の5回。
  11. ^ 皆既日食の場合のみでなく、金環日食の場合でも、減光フィルターなどを通して見られる。
  12. ^ ラーフは仏教釈迦の息子の名・ラーフラ(Rāhula。漢訳、羅睺羅、らごら)にも用いられたことで知られる。ただし、ラーフラについては別の説もある。古代のインド語では「ラーフ」はナーガ(竜)の頭、「ケートゥ」は尻尾をも意味した。そしてシャカの一族のトーテムは、他ならぬナーガであった。このことからラーフラとは古代インドの言い回しで「竜の頭」を意味したと考えられ、「ナーガの頭になる者」が生まれたことを歓喜した釈迦が名づけたという説である。根拠は古来インドでは一族の跡継ぎがなければ出家することはできず出家を願っていた釈迦には息子の誕生はまたとない吉報であること、また釈迦の父・浄飯王もこの命名を喜んでいることである。

出典

  1. ^ a b 『オックスフォード天文学辞典』(初版第1刷)朝倉書店、304頁。ISBN 4-254-15017-2 
  2. ^   (中国語) 尚書/胤征, ウィキソースより閲覧。 の「乃季秋月朔,「辰弗集于房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走。」羲和尸厥官,罔聞知,昏迷于天象,以干先王之誅。」を指す。  (中国語) 史記/卷002#中康, ウィキソースより閲覧。 に見える「帝中康時,羲、和湎淫,廢時亂日。胤往征之,作胤征。」、また  (中国語) 今本竹書紀年/夏紀#五年_2, ウィキソースより閲覧。 の「秋九月庚戌朔,日有食之。命胤侯帥師征羲和。」も同じ出来事を指すと考えられている。この他、  (中国語) 春秋左氏傳/昭公#昭公十七年, ウィキソースより閲覧。 に見える「故夏書曰.辰不集于房.瞽奏鼓.嗇夫馳.庶人走.此月朔之謂也.當夏四月.是謂孟夏.」は時期が異なるが関連すると考えられている。
  3. ^ 斉田博 『おはなし天文学 3』地人書館 1975年 pp.19-31 「義と和が予報に失敗した日食」、斉藤国治 『星の古記録』 岩波新書 1982年 pp.44-47 「『書経』の日食」、その他による。従来の研究では三統暦などをもとに中康の在位を紀元前2100年頃と推測し、この時期の秋の日食から比定されたが、皆既日食が起きなかったもの、皆既日食は起きたが長安では見られなかったものなどであり、『書経』の記述に完全に一致するものは見つかっていない。「胤征」はいわゆる偽古文尚書の一篇であるのでこの記述が信頼できないという見方もある。近年の研究では、斎藤国治と小沢賢二の共同研究のように、中康の在位期間を見直して紀元前1900年頃に比定するものがある(斎藤・小沢『中国古代の天文記録の検証 』(雄山閣、1992年ISBN 4639011121 第1章)。
  4. ^ 春秋左氏伝』に類似した内容の記事が昭公26年(516年)の条に載せられているが、桓公ではなく景公のこととされ、かつ公が恐れたのは彗星とされている。だが、魯国の記録とされている『春秋』経本文には、対応する彗星に関する記事は無いこと(短時間かつ地域が限定される日食と違い、彗星ならば数日間にわたって地球上の広範な地域で観測可能である)、そもそも「彗星」という呼称は戦国時代以後に発生したもので当該記事以外の『左氏伝』の記事では春秋時代当時の呼称である「星孛」で統一されていることから、『左氏伝』の記事は元は桓公と日食の話であったものが戦国時代以後に景公と彗星の話として誤って混入された可能性が高いとされる。また、小沢賢二は戦国時代に日食予報が行われるようになったことで日食に対する見方が変化したことも日食→彗星への変化の一因としている。(小沢賢二「春秋の暦法と戦国の暦法」(初出:『中国研究集刊』45号(大阪大学、2007年)/所収:小沢『中国天文学史研究』(汲古書院、2010年ISBN 978-4-7629-2872-7 第4章))
  5. ^ 『源平盛衰記』には、「天にわかに曇り日の光も見えず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失って」とある。
  6. ^ “スコープ2012:21日に金環日食 源平水島合戦、勝敗分けた天文知識 日食予測、平家が勝利 /岡山”. 毎日新聞. (2012年5月19日). http://mainichi.jp/area/okayama/news/20120519ddlk33040517000c.html [リンク切れ]
  7. ^ “江戸時代の金環日食観測は”. NHK. (2012年5月19日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120519/k10015242411000.html 
  8. ^ 『理科年表 平成26年』 丸善 2013年 による。同じく理科年表によれば、中国ではメトン周期を「章法」と呼び、紀元前4世紀版頃に独立して発見した。
  9. ^ ここで扱っている数値は煩雑を避けるため丸めてあるので、ある数値とその倍数が細部で一致しない。一例として、1朔望月はより正確には29.530589日であり、その223倍は6585.321347日となる。(『理科年表 平成26年』)
  10. ^ ダイヤモンドリングの語の初出は1925年1月24日に皆既中心食の南限界線がニューヨーク市を通った日食の時で、この食を見た市民が「ダイヤモンドの指輪(ダイヤモンドリング)のようだ」と言ったのが新聞に取り上げられたものである。(『金環日食2012』 株式会社アストロアーツ 2013年)
  11. ^ 日食観察用グラスの使用に当たっての注意喚起 消費者庁
  12. ^ a b 日本天文協議会、日本眼科学会、日本眼科医会、2012「別紙 2012年5月21日(月曜日) 日食を安全に観察するために」『平成24年5月21日の日食の観察における幼児・児童・生徒の安全確保に係る注意事項について(平成24年4月18日文部科学省研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付事務連絡)』2012年2月
  13. ^ 中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動





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