百人斬りとは? わかりやすく解説

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百人斬り

読み方:ひゃくにんぎり
別表記:100人斬り百人切り100人切り

100人を刀で斬った、という意味の語。100という数字は必ずしも数値を示す語ばかりでなく、単に「非常に多く」を意味している場合がある。

日中戦争において日本軍捕虜を斬ったという話が報じられたことがあり、百人斬りというとこの件を指している場合が多い。

また、男女色事に関して「(100人はゆうに超えるほど)数多く異性と関係を持ったということを、俗に「百人斬り」と表現する場合などもある。

百人斬り競争

(百人斬り から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 01:40 UTC 版)

百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、競争していると報道された話[1]南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された[1]


注釈

  1. ^ 「少なくとも、本件日日記事は、両少尉が浅海記者ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載されたものであり、その報道後、野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言を行っていたこともうかがわれるのであるから、連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については、虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」[8][9]
  2. ^ 「南京攻略戦当時の戦闘の実施や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘成果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」[11]
  3. ^ 悲願 五百人斬り 關の孫六と向井中尉[13] 炎熱を冒しての湖北殲滅戰に從軍した記者(大海)はある日寺荘といふ小部落で奮戰中の向井中尉にぴよつこり出つた。同中尉は一昨年南京攻略戰の折、戰友野田中尉と百人斬を競り合つて愛刀關の孫六で敵兵百七人を斬つた勇敢な青年将校である。その後戰友野田中尉とさらに五百人斬りを約し徒州・大別山・漢口・錘祥と各地に奮戰、敵兵三百五人を斬つたが野田中尉が○○日海南島において戰死し今は一人で約束の五百人斬りを果すため奮戰してゐる。記者が「孫六はよく斬れますか」と話かけると朴訥な中尉は「よく斬れます、ちよつと劍先がひつかゝりますが自信をもつてゐるから大丈夫です。野田中尉への手向けのためにも一人で約束の五百人斬りを果すため刀の折れるまで一生懸命やつてゐます」と語つた(漢水東方○○にて西元大海特派員)
  4. ^ a b c 三百人斬りの「田中鬼部長」戰線三年奮戰を語る 今夜リフォームド教會[21] 元旦當地へ着いた龍田丸で渡米後羅府方面で講演中の陸軍少佐田中軍吉氏は今二十一日夕方羅府から飛行機で來八時からリフオームド教會に於いて桑日主催、兩新聞及び鹿兒島縣人會後援のもとに講演會を開催することになつたが、田中少佐は大尉時代二・二六事件に關聯して現役を退いたが、事變勃發するや名譽の應召となり、三ヶ年間中支戰線で勇猛果敢な戰闘を續け、「廣濟一番乗りの田中部隊」として「三百人斬りの鬼部隊長」の勇名を馳せ赫々たる武勲を樹て少佐に榮進歸還後感召解除となるや指揮刀を捨てゝペンとカメラで文化戰線に乗出し國策映畫研究に挺身するといふ軍人の變り種で、特に今夜の後援會には戰線三年の奮闘思ひ出を語るよしなれば、その盛況は既に決定的である(記事おわり)
  5. ^ 戦闘で敵を斬ることとは難易度が全く異なる。
  6. ^ 成瀬『戦ふ日本刀』は山本七平が引用した斬れなかった事例は少数派で、大部分は日本刀の優秀性を印象付ける内容である。
  7. ^ 成瀬『臨戦刀術』(1944年)では、以下のように記述している。〔 眞劍勝負の心理[29](中略)上海から南京までの戰では、互に百人斬りの悲願で、相呼應して進んだといふ若い将校二人の挿話が、その頃の新聞に見えてゐた。/ 著者は、徐州戰の延長である彼の土肥原兵團の蘭封戰の眞つたゞ中で、四十七人斬つたといふ若い少尉のその血刀を修理してやつたことがある。五人斬つた、十人斬つたといふやうな話は、ざらな話で珍しくもなかつた。(以下略)〕。
  8. ^ 山本への批判は「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」(本多勝一編集「ペンの陰謀」に収録)鈴木の批判は「南京大虐殺―「まぼろし」化工作批判」
  9. ^ 山本は遺体の手首と足を軍刀で切断した後、刀の柄がぐらついた自身の体験を出発点にしている[31]。秦は鵜野晋太郎(中帰連活動家)を引合いに、据え物斬りなら何人(10人)でも故障なく斬れそうなことを言う[32]が、『日本刀の近代的研究』(小泉久男)によると、2人で故障は起こり重大な故障もある。以下その研究《据え物斬り限定で、斬った人数、故障個所の8例:(1).2人,無 (2).1人,無 (3).1人,無 (4).7人,少しく刃こぼれ (5).42人,無 (6).数人,刃こぼれ (7).2人,2,3箇所刃こぼれ (8).2人,曲がり護拳ガタガタで使用上甚だ不便(32頁『百人斬り競争と南京事件』)》 (5)の42人斬り故障無しは、いわゆる突出データ。
  10. ^ 『東京日日新聞』(昭和13年12月13日付)に掲載[58]
  11. ^ 「話を聞いた時、刀で百人など斬れないので何を言っているのかと思いましてね。それでよく覚えています。まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません」「小隊長は砲撃を我々分隊長に任せて、全体を見ていて、無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません。・・・百人斬るとか何とかの前に、我々の周りに中国兵などいません。中国兵がいないのですから、斬るも斬らないもありません」[62]
  12. ^ 記事を書いたのは光本記者との見方も一部にあった[要出典]が、両少尉の手記、遺書には、浅海記者は何度か出てくるが光本記者の名は一度も出てこない。光本記者は日日新聞京都支局の特派員で、地元部隊・9連隊の活躍を報ずる立場にあった。
  13. ^ 「女性が赤ん坊を装って手榴弾を運んだり、ゲリラを手引きして日本軍陣地に誘導したり、まして壮年男子は突然隠した武器でテロを行う危険があった」[72]
  14. ^ 「たとえ子供といえども、一刻も油断はできないということであった。庭で食事をしていただけで狙い撃ちにされたというような例はいくらでもある」[73]
  15. ^ 志々目証言「極東裁判が開かれた・・・南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた。・・・しばらくすると地方新聞で、N少尉らは南京で戦犯として銃殺されたという記事が報ぜられた。ああ、そうだらうな、当たり前だな」[80]
  16. ^ ---「(今からか、)現在百人斬りの競争をしているという話なのか、どっちですか」佐藤「今からです」[86]
  17. ^ 東中野修道は「無錫から常州までは不眠不休の激戦だった」「話す余裕はなかったはずだ」「常州の間違いであろう」[94]とし、笠原十九司は「駅前広場の日本軍の様子から無錫ではなく常州であることはほぼ間違いなく」「両少尉が所属した冨山大隊が無錫入城後すぐに追撃先発隊として無錫を出発していることは、戦闘詳報類から確認できる」[95]としている。山本七平は「無錫駅頭では両少尉にインタビューする時間などなかった」とし、無錫でまず浅海特派員と向井少尉の間で談合が行われ、常州で野田がそれに付き合ったと推定している[96]
  18. ^ ---(今からか、)現在百人斬りの競争をしているという話なのか、どっちですか。佐藤『今からです』[86]
  19. ^ 「したがって,その余の点について検討するまでもなく、原告らの上記主張に理由はなく、被告毎日に対する請求は認められないというべきである。」
  20. ^ 日本刀が不足したため、有志や[146]、全国の神社から献納される事例もあった[147]
  21. ^ 敵を切りまくつた日本刀修理に刀匠協會から戰地へ![150](東京七日同盟)日支事變發生以來、皇軍は北支に南支に壮烈な肉彈兵白戰を展開して支那兵を壓倒、潰滅的打撃をあたへてゐるが、これがため将兵の日本刀の損傷甚だしくなつたので日本刀匠協會ではこれら損傷刀の修理研磨の奉仕を現地で行ふため同協會理事長栗原彦三郎氏以下七名は、來る十四日ころ修理慰問團として北支に向つて出發するはずである(記事おわり)

出典

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  21. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.21、新世界朝日新聞/nws_19410121(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022446200  p.3
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  32. ^ (307頁『旧日本陸海軍の生態学』)
  33. ^ 306頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦 1「曲がることはあるが、『二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった』」2「(ある少尉は)・・都合47人を手にかけ・・」3「・・一騎討ちの原始戦が盛んに行われ・・異国に於いて日本刀の威力を発揮した・・」4「・・武術の心得もなくして・・如何様にも切り落とす名手が少なくない・・」
  34. ^ 104頁『私の中の日本軍』山本七平「《(キズから刀が折れぬかと聞かれたので、折れぬ事を保証した)日本刀はなかなか折れぬものである。二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった(山本が成瀬著より引用)》 日本刀は折れるのではない。曲がるのである。その事実を知らないで人を斬ったなどという人がいたら、ほらふきである(山本)」。秦郁彦は括弧内を外しゴチック部を変えて引用している。
  35. ^ 102頁『私の・・』「47人斬りを披露し」た一少尉に、成瀬自身が「名説はかうだ」、「宮本武蔵でも乱刃渦中で闘った記録は絶対にない」と皮肉な調子で記す。これを以って、軍人の言説をフィクションと言えない戦時下の言論状況を山本は見て取る。この話を秦郁彦は真実とする。
  36. ^ 100頁『私の・・』 3,4点目に直接の言及はないが、読者から提供された成瀬著作を「全部、戦場における伝聞である」として、山本はその部分を信用せず受け入れない
  37. ^ 306頁『・・生態学』「都合のよい部分だけを利用し」と秦が言っているのは、「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀はほとんど皆無」の部分だが、これは成瀬の体験でもある。
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  153. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1938.10.30、新世界朝日新聞/nws_19381030(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022287400  p.2〔 敵監視哨十八人斬り 大膽!斥候の奇襲 四ヶ師の敵總崩れ 〕
  154. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1939.07.19、新世界朝日新聞/nws_19380719(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022338200  p.2〔 百人斬りの宿願空し 勇猛准尉潮州に散る 天つ晴れ七十人斬りの記録
  155. ^ 日本刀と無敵魂 1943, pp. 68, 76–77(原本106-107頁、原本123-124頁)
  156. ^ 日本刀と無敵魂 1943, p. 75(原本121頁)支那兵と肩


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