しらとり‐じけん【白鳥事件】
白鳥事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 03:55 UTC 版)
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に北海道札幌市で発生した、日本共産党による警察官射殺事件である。
注釈
- ^ 共産党札幌委員会の地下組織[1]。
- ^ 当時の党主流派は所感派であったが、非主流派の国際派も武装闘争の契機となったコミンフォルム批判を出したソ連に忠実な立場であった[6]。
- ^ NHKラジオの「三つの歌」が流れていたという証言がある[13]。
- ^ この自転車は、警察署の駐輪場に停められていたものを持ち出したもので、事件後に元の場所に戻されたとされる[12]。
- ^ 国家地方警察本部科学捜査研究所の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していた1910年型の誤りでないかといわれる[15][16]。警察庁は、白鳥事件の捜査に関連して北大理学部の地下室から武器の製造研究に使われた火薬類・試験管・軍事方針のパンフレットが見つかったことを明らかにしている[17]。札幌委員会軍事部は、上述のブローニング拳銃に加えてイタリアのベルナルデリ社製護身用小型拳銃を保有していたものと推察される。この小型拳銃は、撃針が不調で北大工学部の工作室で修理が試みられたが、スプリングを調達できず、後日提供者に返還されている[18]。ベルナルデリ銃の持ち主は札幌市内のカフェ経営者であったが、1952年に変死している[19]。
- ^ 1月4日には、村上・鶴田(後述)らが集まり宣言文「新年に当り警察官諸君に宣言す」と題する以下の文書を作成し、警察関係者や高田富與札幌市長らに送りつけている[20]。親愛なる札幌の警察官諸君、新しい年を迎え、我々は諸君たちに重大なる決意を固めていただかなければならなくなった事を遺憾とするものである。それは、(中略)占領政策違反の名目で、労働者市民を抑圧しアメリカの手先として日本人を奴隷にする道と、今一つはかかる民族の利益を裏切り、日本人をアメリカに売り渡す売国奴共の命令を拒否し敢然として、日本人の利益のために闘う道とである。(中略)既に我々の兄弟たちは各所で実力の闘いを始めた。東京で諸君たちの同僚、もっとも悪らつな国民の敵である巡査が撲殺されたのは周知の事実だ。(中略)我々の行く手を遮るものは何人といえども容赦はしない。準備はできた。売国奴、国民の敵の功罪表は整備された。(白鳥ら警察官の実名)その他弾圧を積極的にやった外勤の巡査、及び警備課の諸君…警察官諸君、我々はこれらの敵、新しい敵を国民の名においてひとりひとり葬り去ることを宣言する。(後略)
- ^ 天誅ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれたものの2種類があり、渡部は「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるためにスパイを通じて原稿を入手した国警が撒いたものであると主張し[26][27]、国警が白鳥暗殺の事前情報を得ておきながらあえてこれを泳がせて犯行後にすかさずビラを増刷して弾圧のきっかけとしたとしている[28]。一方、後述のTは「国治さんは古いタイプの人間だから『降る』と『下る』のどちらの文字を使ったと思うかと聞かれたら、『降る』の方じゃないかという気がします」と述べている[29]。
- ^ 再審請求審において、札幌高裁が「右ビラの文体は、簡潔でしかもなかなかの名文であつて、申立人(村上)以外に、このような文案を起草できる者がいないことは、多くの関係者の一致して指摘するところであるが(後略)」と言及している[25]。
- ^ 後の裁判では、札幌委員会の「極左冒険主義」を批判する党北海道委員会による声明書が証拠として引用されている[4]。
- ^ 本事件後の1952年6月に発生。
- ^ 元共産党員で組合員総代であった人物による公開質問状により流布した。この人物の名をとって「原田情報」と呼ばれる。理事長はその後服毒自殺した[33][22][19]。
- ^ 「Sはスパイだ、裏切った」と書かれた党地下組織の文書を警察に見せられてSは観念したのだという[37]。
- ^ この人物は元日本海軍第6震洋隊の下士官で実戦経験があり、戦後ポンプ職人をしていた[39]。T(後述)の証言によれば、『ひろ』は事件の一週間前にも白鳥の暗殺を試みたが、弾が発射されず未遂に終わっている[40]。
- ^ 追平は「事件の前、『ひろ』の家で実包入りのブローニング拳銃をみた」「事件後、『ひろ』に会ったら『オレがやった』といっていた。『手ぬぐいに包んで撃ったので、二発目の薬きょうが引っかかって残ってしまい、あとが撃てなかった』などとも語っていた」と証言している[9]。
- ^ 大石は、吉田岩窟王事件の再審を支援し、三鷹事件や松山事件の冤罪を語った安倍が誘導じみたことをするはずがないとしている[41]。安倍自身も同僚検事の誘導尋問の手法(「査問」を逃れて警察に保護を求めた党員(後述)に対して行われた、泣き落とし。これによって自ら白鳥を射殺したとの言質を取ったが、ベテラン捜査官たちによって否定され、本人の供述も何度も覆ったため、殺人での起訴はされなかった[42]。)を紹介しながら、「それがしかし、捜査本部におけるそういう偽り、でっち上げ、間もなくばれるんですね。同様に共産党内ビューローにおけるいろんなでっち上げも間もなくばれることになると、こういうことなんです。やっぱり強いのは真実が強い」「そういう(模擬裁判で警察の捜査本部が出してきた指紋鑑定について偽物と発言した札幌の検事正)下に立って私どもは捜査したんですからね。[…]私が誘導尋問ででっち上げの調書を作ったなんていうことは、もう根も葉もないということはすぐわかるんですよ。それを松本清張が『日本の黒い霧』を書いて、安倍という男はどうも怪しいと言い出したんだから、これはもう松本清張の負けですね」と述べている[43]。
- ^ 1月4日には村上側にアリバイがあることなどから、冤罪説を擁護する者たちはTの偽証を主張した。一方、Tの供述は事件から2年後のことであり、T自身も「(一般的には)謀議というのはもっと緻密にいろんな計画を建てるとか方針はこうだと。(中略)正式にはそんなものだと思うんだけども、そんなにきちっとしたあれした謀議じゃないわけですよ。だからもうそんな日にちなんて忘れちまいますよ。(中略)普通の事件であれば、その謀議がいつ行われたか、どこでやった、誰がやったのかということがものすごく大事なことになるんだけれども、我々にとってはあまり大事なことではないわけですよ」と述べている[45]。
- ^ 犯行後に複数の党員を経由して近郊の畑に埋められたと言われる[12]。
- ^ 東京に潜伏していたメンバーは組織の公然化のためかばうことができないと党中央統制委員から告げられ、乗船訓練を受けて1955年10月頃に焼津港などから上海へ向けて出港している[38]。
- ^ 一方、松川事件においては活発に冤罪を主張した、広津和郎らは静観している[56]。
- ^ 渡部は松本の冤罪説について「主観的で勝手な推測、ねじ曲げが随所に登場する」としている[57]。例えば、『ひろ』は射撃演習には参加していないのだから、(演習の遺留品である弾丸と施条痕が一致するとされた)事件に使われたピストルを所持しているはずがない旨の記述をしておきながら、4ページ後には「何回も拳銃の射撃練習に行っている」と記述している。松本は『ひろ』を"シロウト"として扱ったが実際には元軍人であり、軍装品として用いられていたブローニング拳銃の心得があったとしても不自然ではない[39]。松本が「暴露」したのは実のところ自らが批判する追平の『白鳥事件』の丸写しであったが[28]、追平と『ひろ』の会話を書き換えて「Tは大丈夫か」とあたかもTの裏切りを心配していたかのような文脈に仕立て上げていることも確認されており、渡部は「松本清張が白対協(日本共産党が組織した白鳥事件対策協議会のこと)の提出する材料を無批判に書いたというものではない極めて意識的な虚構だ。当時、Tは白対協や弁護団から、S、追平雍嘉と並ぶ裏切り者として糾弾されていたからだ。これは単なるミスでは済まされない」と松本がTにありもしない罪をなすりつけたとして批判している[58]。
- ^ 当時日本には銃鑑定の専門家がいなかった[61]。
- ^ 日本共産党は1955年1月1日に『赤旗』社説で極左冒険主義を自己批判し、公然化を宣言した[38]。
- ^ 当時札委関係。
- ^ この指示が上述の人民艦隊による関係者の不法出国に関わっているとされる[22]。
- ^ 主文の続きでは、「この見地に立つて本件をみると、原決定の説示中には措辞妥当を欠く部分もあるが、その真意が申立人に無罪の立証責任を負担させる趣旨のものでないことは、その説示全体に照らし明らかであつて、申立人提出の所論証拠弾丸に関する証拠が前述の明らかな証拠にあたらないものとした原決定の判断は、その結論において正当として首肯することができる」とされ、「所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四三三条所定の適法な抗告理由にあたらない」「要するに、所論の証拠弾丸に関する新証拠は、原判決の認定について合理的な疑いをいだかせるに足りないというべく、右新証拠が刑訴法四三五条六号所定の証拠の明白性の要件を具備しないとした原決定の判断は、その結論において正当として是認することができる」と結論づけられている[5]。
- ^ この白鳥決定については、傍論ないし傍論的なものと見做す見解がある一方で、一般的法命題も判例に含める前提に立つのであれば白鳥決定はこれに該当するとした意見もある[75]。
- ^ これらの白鳥事件に関与して四川省に滞在していた者たちは「四川組」と呼ばれ、中国名を名乗っていた[78]。
- ^ 2人共白酒を浴びるように飲んでいたという[22]。
- ^ 鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが[81]、事件当日に白鳥警部を発見するまで『ひろ』と同行し、犯行に使ったブローニング拳銃の隠蔽に関わったとされる[12]。暗殺の実行者だったとする主張もある[82]。
- ^ 教科書では中国語で同じ発音(拼音: )となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという[81]。
- ^ 鶴田の現地での暮らしぶりは安定していたが、同居する配偶者が中国当局の監視役であったことが示唆されている[84]。
- ^ 川口は妻とともに1956年3月に人民艦隊で中国大陸に渡り[89]、滞在中の1967年に起きた北京空港事件で砂間一良を庇い、その後監禁・査問を受けた。田中角栄訪中後の1973年12月に帰国した川口は、鶴田の帰国にも取り組み、帰国後は真相を語ること、弁護士は国選弁護人にすることなどで1997年4月に鶴田と合意したという。しかし、上述の時事通信のスクープ報道後、鶴田からの連絡は途絶えた[90][80]。
- ^ 川口は1947年に村上の勧誘を受け、日本共産党に入党している[91]。
- ^ 川口が的屋グループに属する甥に依頼して『ひろ』を奈井江白山の鉱山飯場へ送り込んだことは、裁判で用いられた参考人調書でも確認される[98]。
- ^ 川口らとの共著を五月書房から刊行する動きがあったが、2021年現在出版は確認されていない[99]。
- ^ 11日とも[38]。
- ^ これらの鑑定書は法廷に提出されておらず、2度にわたる弁護団からの札幌高裁への照会要求によって内容が明らかとなった[117]。
- ^ 事件の事情を知る、川口の帰国後の動きを悲観しての焼身自殺であったとも言われる[4]。
出典
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白鳥事件(1951年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/26 04:49 UTC 版)
「正木ひろし」の記事における「白鳥事件(1951年)」の解説
控訴審判決後の一時期に上告趣意書の補充に協力したが、弁護団には加わっていない。
※この「白鳥事件(1951年)」の解説は、「正木ひろし」の解説の一部です。
「白鳥事件(1951年)」を含む「正木ひろし」の記事については、「正木ひろし」の概要を参照ください。
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