男大迹尊とは? わかりやすく解説

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継体天皇

継体天皇は、『古事記』では応神天皇の五世の孫。
『日本書紀』では応神天皇の五世のの子とされているが、しかし、日本書紀で父は彦主人王(ひこうしおおきみ)と母は垂仁七世の孫振姫名をあげるのみで、その系譜書かれていない
継体天皇の系譜は、『上宮記曰、一伝』に詳しく書かれている
この『上宮記』は、今日では「釈日本紀」にその逸文が伝わるという。
上宮記曰、一伝』によると、別記天皇家系図のとおりとなるが、近江国にいた彦主人王越前国三国振媛迎えて妻とし、男大迹尊をもうけた
武烈天皇没後武烈後嗣がないことで応神天皇以来大王家王統断絶という危機生じた
大連大伴金村丹波国倭彦王(仲哀天皇世の孫)を擁立し迎えようとしたが、なにを勘違いしたのか倭彦王は、迎えの兵列を見て驚き遁走してしまった。
大伴金村目論見外れてまた新たに後嗣探しをするはめとなった
そこで目をつけたのが越前国三国にいた男大迹尊であった
群臣とはかり男大迹尊を迎い入れることにしたという。
迎い入れられた男大迹尊は仁賢天皇の娘手白香皇女(たしらか)を皇后として河内国交野郡樟葉宮即位し継体天皇となった
しかし、樟葉宮即位した継体天皇であったが、すぐには大和入れず山背国の筒城や弟国に遷して20年後にようやく天香具山近く大和国磐余の玉穂宮に入れたという。
即位後20年もの間大和入れなかったことについては、「それを阻害する勢力大和居た」「継体擁立した大伴氏等と物部氏らが権力闘争をしていた」「入り婿的な皇位継承(王朝交替)を歓迎しない勢力がいた」など諸説がある。
一方朝鮮半島情勢は、百済任那四県割譲要求対しこれを受諾するなど流動的であった
大伴金村はこれより失脚したという。
また、新羅から賄賂貰っていたとされる九州筑紫国造磐井叛乱起こし、さらに関東では笠原使主同族小杵とが武蔵国造地位めぐって争うなど、大王支配体制揺らぎ生じた
26代天皇
天皇名継体天皇
読み方けいたいてんのう
名・諱等男大迹尊
読み方おおどのみこと
時代区分古代
天皇在位507?年から531?年
生年生年不詳
没年没年不詳
彦主人王
振媛
兄弟□□□
配偶者手白香皇女
皇子女安閑宣化欽明
即位宮樟葉宮
天皇陵三嶋野陵
所在地大阪府茨木市太田


継体天皇

(男大迹尊 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 03:34 UTC 版)

継体天皇(けいたいてんのう、旧字体繼體天皇450年?〈允恭天皇39年〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は、日本の第26代天皇[1](在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)。


注釈

  1. ^ 先帝とは2親等以上離れて即位した最初の天皇は仲哀天皇(先帝は叔父・成務天皇(父・日本武尊の弟))とされている。
  2. ^ 『古事記』では485年。
  3. ^ 上宮記では、弥乎國高嶋宮(みをのくにのたかしまのみや)。
  4. ^ 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[3]
  5. ^ 『日本書紀』によれば、「妊婦の腹を切り裂いて胎児を見た」、「人を木に登らせて弓矢で射落とした」、「池に人を入れて矛で突き殺した」など数多くの悪行が書かれており、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(悪い事ばかりを行い、一つも良いことを行わなかった)」と評されている。
  6. ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、南東部であるという説が存在する[8]
  7. ^ 後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。
  8. ^ この「凡牟都和希王」を「ホムツワケ」と読んで、応神天皇ではなく垂仁天皇の第一皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと)とする説もある。しかし系譜上の始祖には天皇を据えるのが普通であり、母系の始祖には垂仁を据えているにも拘らず父系には書かないというのは不可解である。また父母が共に世代の異なる垂仁の子孫ということになるため、やはり不自然といえる[19]
  9. ^ 現在は断絶している王朝、および伝説を含めるのであれば、メネリク1世からハイレ・セラシエ1世に至るエチオピアの皇朝が3000年続いたとされる。
  10. ^ 継体天皇は、父彦主人王同様に三尾氏の勢力圏である湖西の高島に基盤を置き、ここを通る北陸道を介して越前三国にも勢力を持った。 湖東の息長氏の勢力圏から東山道を介して東国尾張と結び付いた。 継体は、応神天皇五世の孫として皇統からは遠い存在ではあったが、代々近江を勢力基盤とし、東国·北陸の勢力を背後に持つことで、畿内勢力に対抗して即位できたのである。 近江の地名 その由来と変遷(淡海文庫)2020/6/30京都地名研究会P47
  11. ^ 「継体天皇の父、彦主人王は近江の高島の三尾の豪族であった。 それでは、近江の高島郡とはどのような場所であろうか。 琵琶湖の北西部の安曇川の流域にあたり、湖西では広い水田を持つ地域である。それにしても、湖と山地に挟まれたささやかな地域であって、この農業生産をもって天皇になれるほどの力を持てたとは、とうてい考えられない。この地域がそれほどの重要性を持てたことの唯一可能な説明は、この地域が古代における最も有力な製鉄地帯だったことである。近畿地方における最古の製鉄遺跡は八世紀に下るが、それは滋賀県高島郡マキノ製鉄遺跡群である。 (『日本民俗文化体系3 稲と鉄』森浩一「稲と鉄の渡来をめぐって」)。 森浩一氏は、古い時代の製鉄の遺跡自体は認められなくとも、農業生産としてはとるに足らない山間部の製鉄遺跡地帯に、六、七世紀の大群集墳があるので、その経済的基盤として製鉄を考えざるを得ないという。近畿地方における製鉄は、六世紀に始まると森氏は考えている。 この六世紀初頭こそ、継体天皇が出現した時期にあたる。」聖徳太子と鉄の王朝 角川選書 1995/7/1 上垣外 憲一 P16 からの引用文
  12. ^ 銅鏡は長年東京国立博物館に寄託されているが、所有者は隅田八幡神社である。
  13. ^ 「男弟王」の語は『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国の女王卑弥呼を佐治した弟を指すために使われている。意富富杼王は忍坂大中姫の兄だが、允恭よりは年下なのでこう記したと考える。
  14. ^ 『日本書紀』は、父親の彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫としている。しかし、その系譜については何も記していない。 『古事記』は、継体を「品太天皇(応神)五世之孫」と伝えているが、同様にそれ以外の系譜は全く不明である。 『釈日本紀』に逸文を残す『上宮記』の系譜では、「凡牟都和希王(応神天皇)─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子 ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)」とされ、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』では、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀の系譜とは、たがいに異なる内容になっているが、記紀では、系譜が全く記されておらず、不明な状態となっている。
  15. ^ 『日本書紀』、『古事記』ともに、旧王家の皇女、手白香皇女を娶ったと記している。 先代天皇と血縁が非常に遠い継体天皇は、先代天皇の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、入り婿という形で正統性を獲得した。 そのため、継体天皇は大和に入る以前、複数の妃をもち、沢山の子(安閑天皇宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女との皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)が正式な継承者となった。 『古事記』は、「合於手白髮命、授奉天下也」(手白髪命を娶らせて、天下を授けた。)とあるが、他の天皇の記事は、「小長谷若雀命(武烈天皇)、坐長谷之列木宮、治天下」「白髮大倭根子命(清寧天皇)、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也」 など「天下を治めた」という表現になっており、「天下を授けた」という表現を使っているのは、継体天皇に対してのみである。
  16. ^ 『日本書紀』「顕宗即位前紀」にみえる
  17. ^ 「神武天皇が東征の途中、筑紫の岡田宮や阿岐の多祁理宮や吉備の高島宮に滞在したことは、六世紀初め、越前(福井県)から現れて皇位を継いだ継体天皇が、大和へ入るまでに、河内の樟葉、山背の筒城、同じく山背の弟国に数年ずつ滞在したことと関係があると思われる。 『日本書紀』によると、継体天皇は筒城に七年、弟国に八年滞在しているが、『古事記』にみえる神武天皇は多祁理宮に七年、高島宮に八年滞在する。 この一致は偶然とは思われない。 神武天皇が大阪平野から直接大和へ入らず、熊野を迂回するのは、継体天皇が越前を出発してから大和へ入るのに、大変手間取っている事に影響されたのではあるまいか。 古代の歴史物語である「旧辞」が初めてまとめられたのは、この継体天皇から欽明天皇の頃(六世紀前半ないし中葉)であろうということは、津田左右吉氏の研究以来、学界の定説であるが、神武天皇の物語の骨組みもこの頃に大体出来上がったと思われる。[90]

出典

  1. ^ 謎多き古代天皇、福井に残る痕跡 朝鮮との結びつきも”. 朝日新聞デジタル (2020年4月15日). 2021年2月12日閲覧。
  2. ^ a b 網野ほか 1994, p. 82.
  3. ^ 『古事記』継体即位記
  4. ^ 水谷 2001, p. 73.
  5. ^ 日本書紀 継体即位条
  6. ^ 『日本書紀』巻第十七、継体天皇元年正月6日条
  7. ^ http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu7/5inoue.pdf
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  9. ^ 直木 2009, p. 138.
  10. ^ (高槻市教委 2008)P153-154 水野正好による論考。
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  19. ^ 水谷 2001, p. 92.
  20. ^ 黛 1982.
  21. ^ 水谷千秋 2002, p. 16.
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  24. ^ 大橋信弥 2020, p. 176‐177.
  25. ^ 大橋信弥 2020, p. 177.
  26. ^ 大橋信弥 2020, p. 176‐178.
  27. ^ 大橋信弥 2020, p. 181‐182.
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  29. ^ 大橋信弥 2020, p. 182‐183.
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  31. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版> [2007‐12‐20]2020‐3‐1 188頁
  32. ^ 水谷千秋 2002, p. 23.
  33. ^ 中皇子(なかつみこ。) 坂田公(滋賀県米原市)の祖。とある。菟皇子(うさぎのみこ。) 酒人公の祖 酒人公については、『新撰姓氏録』左京皇別には「坂田酒人真人」と記され、「息長真人」と同祖とする。 息長氏の本拠地は近江国坂田郡である。 古事記と日本書紀 主婦の友ベストBOOKS 添田一平 (イラスト) 瀧音 能之 (監修)2010 P157
  34. ^ 「上宮記」
  35. ^ [1]
  36. ^ 壬申の乱における三尾城の所在をめぐって(滋賀文化財だより No.64) (PDF)』財団法人滋賀県文化財保護協会、1982年。 
  37. ^ (水谷 2013)P145
  38. ^ 森浩一・上田正昭編『継体大王と渡来人 枚方歴史フォーラム』(大巧社、1998年)P98
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  41. ^ 水谷千秋 2002, p. 24.
  42. ^ 田中勝弘『遺跡が語る近江の古代史』(サンライズ出版、2007年) P99
  43. ^ 『天川ダム障害防止対策事業に伴う発掘調査報告書:東谷遺跡』滋賀県教育委員会事務局文化財保護課他 2004
  44. ^ 『斧研川荒廃砂防事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書:北牧野古墳群』滋賀県教育委員会 2003
  45. ^ 記紀の考古学 P330 朝日文庫 2005年 森浩一
  46. ^ : 昭和60年(1985)の調査で製鉄炉が1基検出された。
    炉底を覆うように堆積した褐黒色土層から6世紀末~7世紀初頭の須恵器平瓶が出土した。
    滋賀県内最古の製錬炉である可能性が高い(谷口義介・宮成良佐『北近江の遺跡』(サンブライト出版、1986年)P175。
  47. ^ : 出土木炭のC14年代測定値から7世紀後半を前後する年代が得られている。
    古墳時代後期から操業してる可能性がある。
    長さ3.6メートル、幅2.1メートル、厚さ0.4メートルの滋賀県内最大の鉄滓が発見され、高島市で展示されている。2021年現在は高島市立今津図書館前に説明文と共に展示されている。滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会 大道和人ほか『東谷遺跡』( 2004年)。
  48. ^ : 調査者の森浩一氏は、隣接する上開田集落の称念寺薬師如来に書かれた結縁人に漢人が含まれていることから、渡来系技術者の存在を指摘している。
    操業時期は出土した須恵器片から8世紀と考えられるが、古墳群が近接しており古墳時代後期から操業してる可能性がある。森浩一「若狭・近江・讃岐・阿波における古代生産遺跡の調査」『滋賀県北牧野製鉄遺跡調査報告』(同志社大学文学部文化学科、1971年)。
  49. ^ :5世紀中葉の朝鮮半島製土器や、当時では渡来技術であるカマドを使用した建物跡などが確認され、渡来系住民が居住していたか、もしくは交流があったとしている(『高島市歴史散歩』(高島市教育委員会、2017年)P8)(|水谷|2013}}P73)。
  50. ^ :3世紀から11世紀の複合遺跡だが、中心を成すのは5世紀中葉の遺跡である。カマドを有する竪穴建物や初期須恵器が発見されており、南市東遺跡とほぼ同じ性格をもつ遺跡と言える(『高島市歴史散歩』(高島市教育委員会、2017年)P8)。
  51. ^ :古墳時代の建物跡では、「大壁建物」もしくは「大壁造り建物」と呼ばれる、一辺約10メートルの壁建ち建物跡が検出された。この建物のルーツは朝鮮半島にあり、壁建ち建物の検出された遺跡は高島市内では初めてである(『高島市歴史散歩』(高島市教育委員会、2017年)P7
  52. ^ 滋賀県高島市鴨の天神畑遺跡発掘調査現地説明会資料 2011.05.15 調査主体 滋賀県教育委員会 調査機関 財団法人滋賀県文化財保護協会 http://shiga-bunkazai.jp/download/pdf/110515_tenjinbata.pdf)。
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  78. ^ 「近江国高島郡水尾村の古墳」京都帝國大學 1923-12-11
  79. ^ 水谷 2013, p. 108-133.
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  82. ^ 枚方市 2000, p. 174-175.
  83. ^ 馬部隆弘『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に』(勉誠出版、2019年)
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  88. ^ "橋の石材、「真の継体天皇陵」の石棺か 高槻の歴史館発表「大王のひつぎの実態に迫る発見」"(産経新聞、2016年11月10日記事)。
  89. ^ 『謎の大王継体天皇』文藝春秋文春新書〉、2001年9月。ISBN 4-16-660192-X  P86
  90. ^ 神話と歴史 2006 直木孝次郎 吉川弘文館 P165
  91. ^ 新古代史の会 2022, p. 57.




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