天保騒動
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天保騒動(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。
- ^ 天保騒動発生時の天保7年(1836年)においては、甲府勤番山手に戸田光紹(下総守)・追手永見為儔(伊勢守)、甲府代官は井上十左衛門、石和代官は西村貞太郎であるが未着任、市川代官は山口鉄五郎。甲斐一国を統治する人員は、勤番士三百数十人と代官手付・手代50余り。
- ^ 「夏目家日記」『山梨県史』資料編所載
- ^ a b 『甲斐道をゆく 交流の文化史』(山梨県立博物館、2009年)、p.35
- ^ a b c 須田(2007)、p.444
- ^ 武七・平助の計画については「天保騒動につき頭取治左衛門・兵助書留」「天保騒動につき頭取武七自白書」『山梨県史』資料編所載
- ^ 須田(2007)、pp.426 - 427
- ^ 近世の百姓一揆や打ちこわしにおいては訴願の実現が第一とされ、武器の携行や強盗、放火などの逸脱行為は自立的に禁止し、一定の作法が存在していたが(保坂智『百姓一揆とその作法)』)、天保騒動の発生した19世紀には百姓一揆の作法が崩壊し、変質していたことが指摘されている(須田努『「悪党」の十九世紀』)。天保騒動では多くの百姓が参加しているものの、115人の無宿が加わっており、訴願を目的とする百姓一揆における蓑笠姿ではなく、武器を携行し「色物」を身につけ、総体として「悪党」と認識されていることが指摘されている。
- ^ 須田(2007)、p.439
- ^ 須田(2007)、p.440
- ^ a b 須田(2007)、p.445
- ^ 須田(2007)、p.446
- ^ a b 須田(2007)、p.460
- ^ 髙橋(2008)、p.17(76)
- ^ 髙橋(2008)、p.21(72)-22(71)
- ^ 『黒駒勝蔵対清水次郎長』pp.7-8
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