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たぬま-おきつぐ 【田沼意次】
(1719-1788) 江戸中期の幕臣。小姓から身をおこし、将軍家重・家治に仕えて栄進を重ね、1767年側用人、遠江(とおとうみ)相良藩主となる。72年老中となり、積極的な経済政策を展開、田沼時代を現出した。一方、物価が騰貴し、賄賂政治が横行したため、士民の攻撃を受け86年老中を退任。
江戸人物事典 |
田沼 意次 (たぬま おきつぐ)
| 1720〜1788 (享保5年〜天明8年) |
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【老中】 重商主義の優れた政策を展開するも、役人と商人の癒着を招き、無念の失脚。 |
| 老中。九代将軍家重の小姓から出世し、十代将軍家治の側用人、その後老中を兼任した。株仲間に冥加金を課税し、鎖国をゆるめての金銀輸入、大規模な新田開発を図るなど積極的な重商主義政策を展開した。その権勢から田沼時代と称された。役人の賄賂が横行、折しも天明の飢饉が起こるなど、意次への批判が高まり、子の意知が城中で刺され死亡すると、急速に力を失った。代って登場した松平定信により寛政改革が行われた。 |
年(和暦) |
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| ●1720年 (享保5年) | ■江戸大火 | 0才 |
| ●1720年 (享保5年) | ■江戸町火消しいろは組を設置 | 0才 |
| ●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 | 2才 |
| ●1732年 (享保17年) | ■西日本に蝗害 | 12才 |
| ●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 | 22才 |
| ●1744年 (延享元年) | ■神田に天文台設置 | 24才 |
| ●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 | 44才 |
| ●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 | 52才 |
| ●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 63才 |
人物名 |
年齢差 |
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| ・与謝 蕪村 | 1716年〜1783年 (享保元年〜天明3年) | +4 |
| ・山県 大弐 | 1725年〜1767年 (享保10年〜明和4年) | -5 |
ウィキペディア |
田沼意次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/08 08:43 UTC 版)
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の武士・大名。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。
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- ^ 実際は斬られて重傷を負い、その傷が癒えないまま亡くなった。
- ^ 柳沢・間部の職が側用人のみであったことと異なり、田沼は老中も兼ねていた。将軍の取次役である側用人が処罰されることはない(将軍の政治責任を問うことになってしまうため)が、老中は失政の責任を問わされるためしばしば処罰を受けていた。
- ^ 川路聖謨「遊芸園随筆」。ただし、人生の後半は「骨髄よからぬ人」になってしまい、このためすべて悪かったかのように非難されているとしている。
- ^ 政治家としては徳川吉宗よりも遥かに良く、その政策は大度胸であったと評価している。
- ^ 関根徳男著『田沼の改革』郁朋社 1999年 pp.156 ~ 164
- ^ 大石は「つくられた悪評」としている。
- ^ ただし、伊達家側役の古田良智に田沼の屋敷に直接訪ねる(=賄賂を直接受け渡しする)必要はないとしているのみで、「賄賂を拒絶した」記録ではない。実際、古田は田沼家用人井上寛司と懇意に接触し、井上を通じた賄賂の受け渡しを行っている。そのため、大石が史料を誤読しているとの指摘もある。
[続きの解説]
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